『選ばれない自分』(3)
【夏】
6月末の週末、久しぶりに藤田が遊びに来た。
「流星君はどうしてるんだい?」
藤田は缶ビールを飲みながら訪ねた。缶ビールと言っても、正確には第三のビールというヤツだ。実際のビールとはかなり味が異なるが、40歳を過ぎたあたりから酒量がガクンと落ち、翌朝にも酒が残る事が多くなったため、気軽に飲めるこの第三のビールが主流になってしまった。
「普段あまり客もこないから、普通のビールを用意していないんだ。すまんな」
「突然来ちまったからな。どうせすぐに、こっちに変えるからいいさ」
藤田はワインを3本ほど持参していた。藤田は無類のワイン好きだ。自宅に小さなワインセラーを置いている。高価なワインを集めたりはしていないが、料理、季節、気分によってワインを飲み分けるほど通である。私は体質的に合わないため、あまりワインを飲む事はないのだが、藤田が選んだワインだけは飲む事にしていた。
「その後、流星君の調子はどうなんだ?」
藤田はもう一度同じ質問をした。藤田はいつも私と子どもを気遣ってくれ、ときどき様子を見に来てくれた。藤田自身が未婚で、家族がいないためかもしれない。
藤田との付き合いは、大学時代からになる。同じ文学部に所属していた関係で、二人で文学の同人誌を立ち上げた。そして藤田はプロの作家としてデビューする事になった。藤田はデビュー後も、変わらない距離感で付き合ってくれた。現在、私が友人と呼べる存在は、藤田以外にはいない。
「流星とは、顔をあわせない日もあるかな」
「相変わらずという感じか」
「本人の気持ちの問題だから、周りがいろいろと考え過ぎても仕方がない」
流星がなぜ引きこもりになってしまったのか、これも私には原因がよくわからない。小学校に入学した当時、担任の先生からちょっと変わった部分があると言われたため、養護教員と相談のうえ、専門の病院で診察を受けた。その時に、軽度の自閉症と言われた。学力に影響はないのだが、自分からほとんど発言をしないため友だちとのコミュニケーションを取る事が難しい。そのため一人だけ取り残されたような状態になってしまう。友だちはほとんどいなかったのだが、それでも小学生の時には毎日登校をしていた。だが、中学に入学してからすぐに、登校しなくなった。最初は妻が何度も中学校に足を運び、担任の教師と話をしていた。しかし原因はわからなかった。特にいじめにあったという訳でもないらしい。そもそも、クラスメートとほとんどコミュニケーションを取っていないのだから、いじめにあう原因すらなかったようだ。だが、ある日突然学校に行かなくなった。ひょっとすると、中学に進学して環境が変われば友達ができるかもしれない、という期待感が本人にあったのに、実際にはまったく友だちができなかったため希望を失ったのかもしれない。いずれにしろ、本人が何もしゃべらないので原因はまったくわからなかった。妻も仕事を持っていたため、しばらくすると学校とコンタクトを取る事を諦めてしまった。私は私でその当時部長職であったため、早朝に家を出て深夜に帰宅する生活を続けていた。そんな中、流星はさらに孤立を深めてしまったのかもしれない。その上に両親の離婚である。私が妻の性格を考えて、流星ともっとコミュニケーションを取るべきだったとも思ったが、すべては後の祭りであった。
「お前はこの後どうするつもりだ?」
藤田がワインのコルクを抜きながら聞いてきた。テーブルには宅配のピザと、藤田がワインと一緒に買ってきたデパートの総菜が並んでいる。ピザの一部と藤田が買ってきたフライドチキンは、流星の部屋の前にも置いた。
「しばらくは、この生活を続けざるを得ないだろうな」
「正式に離婚はしたのか?」
「まだしてないし、いつになるのか見通しも立ってない」
「彼女、この家に戻ってくるつもりなんじゃないか?」
「たぶんそれはないだろう。俺はともかく、流星にも一切連絡をしていないようだし」
「そうか…」
藤田はそれ以上、立ち入った事を聞いてこなかった。話が深い部分まで届いてしまうと、私の心が乱れる事を、知っていたからだ。
その後は、最近観た映画や読んだ本などの話をした。藤田はここのところ、あまり文章を書いていないらしい。その事については藤田があまり話したくないようだったので、私も深く聞く事をやめた。日付が変わりそうになった頃、藤田は帰って行った。流星の部屋の前には、ピザとフライドチキンを食べた後のゴミが置かれていた。
季節は変わり、梅雨が明け本格的な夏を迎えていた。この頃私と桧山さんは、ランチの後にアイスクリームを食べる事を習慣としていた。小さなアイスクリームスタンドでコーンに乗ったアイスを買い、それをベンチで並んで食べるのだ。スタンドは小さかったが、季節限定商品なども用意されなかなかの品揃えだった。
「冴縞さんは、美術がお好きなんですか?」
少し前に、私は桧山さんと一緒に美術コーナーの書棚の整理をした。その時少し、美術について話をしていた。
「好きと言うほどではないかもしれません。以前ライターをしていたときに記事を書いた事もあるので、その時勉強しました。ここのところあまり足を運べていませんが、以前は上野の美術館の企画展にもよく行ってたんですよ」
「へー、どんな記事を書いたんですか?」
桧山さんは少し、私の話に興味をもってくれた。彼女が自分の話に興味を持ってくれるだけで、私はとても嬉しかった。
「写楽って知ってますよね?」
「ええ、謎の浮世絵師ですよね」
「その写楽は、今は謎の浮世絵師ではないんです」
「そうなんですか?」
「そもそも写楽って、実は北斎じゃないかとか、浮世絵の版元だった蔦屋重三郎だったんじゃないかって言われていたんです。特に北斎は、生涯で何度も画号を変えているので、その一つではなかったのかと、そう思っている学者も多かった。実際、写楽という画家が活動していたのは、わずか10カ月程度ですから」
「10カ月? もっと長く活躍していたのかと思ってました」
「たいていの人はそう思ってますよね、有名な浮世絵師ですし。でも実際の活動期間は短かった」
「どうしてですか?」
「その前に、写楽の正体について説明しましょう。写楽は阿波藩の能役者、斎藤十郎兵衛という人だったんです」
「斎藤十郎兵衛…? 能役者、ですか?」
「そう、能役者です。と言っても役職的には武士でした。阿波藩の武士だったんです。斎藤十郎兵衛は、当時八丁堀に住んでいたという記録があるんですが、その近所に加藤千蔭という国学者が住んでいて、本居宣長の著作に加藤千蔭と蔦屋重三郎が親しかったと書かれています」
「そこでつながるんですね?」
「斎藤十郎兵衛は平仮名で『さいとうじゅう』ろべえとなり、 『とうしゅうさい』のアナグラムになったんじゃないかと推測する人もいます」
「面白いですね」
「そもそも2010年の夏にギリシャで写楽の肉筆画が見つかったんです。浮世絵は版画なので、輪郭線を彫師が削ります。だから真筆かどうか、非常にわかりづらい。一方肉筆画は線の強弱がはっきり出るので、真贋を見極めやすいんです」
「それで写楽だとわかったんですか?」
「見つかった肉筆画は、よく言えば繊細、悪く言えば迷いが多く、一気に『スッ』と描いた物ではないようです。たどたどしく線を辿りながら、ゆっくりと描いた筆致です。この事で、本職の画家ではなかったのではないか、と言う推測が成り立ちました。そして実はすでに、当時発行された書物の中に、写楽は能役者の斎藤十郎兵衛である、という記述があったんだそうです。でも、稀代の浮世絵師と言われた写楽が、まさか能役者の副業とは誰も思わなかったので、この記述は無視され続けてしまったんですよね」
「それはびっくりですね!」
「元々が副業であれば、10カ月で活動を辞めてしまったと言うのも辻褄があいます。ここからは推測になるのですが、写楽の作品は、当時それほど人気ではなかったようなんです」
「なぜなんですか?」
「浮世絵って、その時演じられる歌舞伎の、いわゆるパンフレットだったんです。役者と演目の役柄を説明する。だから本来は、歌舞伎のストーリーの一部分を切り取って、役者の全身像とバックの大道具なんかも一緒に描いていたんです。その概念を変えたのが、写楽の大首絵だった。大首絵は版元である蔦屋重三郎の発案だったようですが、どうやらそれがあまり売れなかった。だから写楽も第2期以降の作品では、極端に大首絵が減っています」
「写楽って、大首絵しか描いていないのかと思いました」
「目線や細かい表情の表現だけで、全身像と同じくらいの表現力があった、それが写楽です。蔦屋重三郎は面白いと思ったのでしょうが、当時の人にはそれが理解されなかった。蔦屋重三郎は芸術家ではなくプロデューサーですから、売れない作品は作らない。また、写楽が大首絵で歌舞伎役者の特徴をデフォルメして描いたため、歌舞伎役者からクレームがあったのではないか、という説もあります。女形の首もかなり太く描かれていますし」
「実力が認められなかったなんて、かわいそうだったんですね、写楽さん」
「元々が副業ですから、いつ辞めてもよかったんでしょう。そもそも当時は武士の副業は禁じられていたそうですから、モチベーションが下がって10カ月で筆を折ってしまったんじゃないか、とも言われています」
「いつの世でも、天才は世間に受け入れられづらいのかな…」
「そうかもしれませんね。ゴッホもしかり、生前にはまったく評価されてません。ただ、そもそも浮世絵に関して言えば、江戸時代はパンフレットのようなもので、明治時代になっても廃仏毀釈が行われ、美術も西洋美術だけが高く評価されていました。写楽の作品だけではなく、当時浮世絵は美術品としてはまったく評価されていなかった、と言っても過言ではありません。二束三文の浮世絵がヨーロッパに持ち込まれて再評価されたのですが、それに一役かったのがユダヤ系ドイツ人のフェリックス・ティコティンと言う人です。彼の死後、イスラエルに中東唯一の東洋美術専門の美術館が設立され、彼のコレクションはそこに所蔵されました。そこには、歌麿、広重、歌川豊国など、これまで研究者にも確認されていなかった新発見の作品がいくつも所蔵されているそうです」
「冴縞さん、本当に博識ですね!尊敬しちゃいます!」
私は桧山さんに褒められて、心から嬉しかった。元来、褒められる事などほとんどなかった人生だ。こんな自分を手放しで褒めてくれる人がいるなんて、思いもしなかった。大人げなく、無邪気に喜んでしまった。梅雨明けの抜けそうな青空に、綺麗な白い雲が浮かんでいた。
『選ばれない自分』(1)
『選ばれない自分』(2)
『選ばれない自分』(3)
『選ばれない自分』(4)
『選ばれない自分』(5)
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