『選ばれない自分』(4)
【秋】
藤田から連絡があったのは10月に入った頃だった。電話口では、しばらく仕事を休んで、海外に行くと言っていた。呼び出された品川のオイスターバーに行くと、藤田は店の隅で一人で飲み始めていた。
「よお、遅かったじゃないか」
いつもクールな藤田が、今日はやけに明るく声を掛けてきた。すでに少し酔いが回っているのかもしれない。私は藤田の隣に座り、ビールを注文した。よく教育された店員が、すぐに冷えたビールを運んできてくれた。店はアメリカに本店があり、数ヶ月前に日本に初出店したらしい。藤田がチョイスするだけあって、非常にお洒落な店だ。天井は高いがライティングが巧く配置されているため、店内すべてが明るい。牡蠣を美味しそうに見せるための工夫なのかもしれない。
「海外に行くんだって? どこに行くんだ?」
私はビールを飲みながら聞いた。
「まだ、考えていない…」
私が店に入ってきた時と変わり、藤田の声のトーンが急に落ちた。
「特に目的はないのか?」
「海外に行く目的は…、日本から逃げ出したいだけだ」
「何かあったのか?」
藤田は普段はクールで見た目にも気を使う男だったが、よく見ると今日はかなり皺の寄ったシャツを着ていた。藤田との付き合いももうかれこれ20年以上になるが、こんなくたびれた藤田を見た事はなかった。しかしそんな格好をしていても、そこそこ様になってしまうのが藤田である。私とは根本的に違うのだ。藤田は少し間を空けてから話し始めた。
「一番わかりやすく言えば、女と別れた」
「女と別れた…?」
私は藤田の言っている事が、ちょっと信じられなかった。藤田は学生時代からよくモテた。細身で優しい顔立ち、クールな物腰は、当時から女性に人気があった。そして女性とも常に誠実に付き合っていた。女性と別れる時も、藤田はお互い同意のうえで、わだかまりなく綺麗に別れる男だと思っていた。
「いろいろな考えがぐるぐる回って、どこから話せばいいのかわからないが…。最初はそれほど気になる女性ではなかったんだ。年も20歳も下だったし。アルバイトとして俺の事務所に勤め始めたのが2年前だ。彼女は子どもの頃に父親を亡くしていたためか、親子ほど年齢差がある私にもよくなついてくれた。私も彼女がとてもかわいく思えた。いろいろな事にもよく気付いてくれる、本当にいい子だった。若かったが、全幅の信頼を置ける女性だった。後から考えると、俺は彼女に少しずつ精神的に依存してしまっていた。そしていつの間にか、理想の女性とまで思えるようになった」
藤田はグラスに残っていたワインを一気に空けた。
「実は半年前から一緒に暮らしていたんだ。結婚に関しても、彼女は承諾してくれた。だから彼女の母親と祖父のところに挨拶に行った。でも、そこで猛反対された。理由は、年齢差が20歳あると言う点だ。20歳差がどういう意味を持っているか、わかるか?」
「わからない。愛さえあれば、年齢差なんてどうにでもなるんじゃないか?」
「俺もそう思った。心から彼女を愛していたから。だが母親と爺さんに言われたよ。20歳と言う年の差は、俺が彼女より20年早く死ぬと言う事だ。そしてその後彼女は、20年間を一人きりで暮らす。実際、彼女の父親は早世していて、彼女の母親はその後一人で彼女を育てた。でも彼女の母親は、まだ彼女がいたからよかった。丸っきりの一人じゃないからな。だが俺はもう40歳を超えている。これから子どもができるかどうか、わからない。彼女の祖父が死に、母親が死に、俺が死んだら、彼女は天涯孤独になっちまうんだ」
「年の差の恋愛について、そこまで考えた事がなかったけど、たしかにそれは一理あるかもしれない」
「お前までそんな事言うなよ」
藤田は自虐的に笑って続けた。
「俺は必死に抵抗した。必ず長生きして、彼女を一人になどしないと。でも彼女の母親も祖父も、頑として話を聞き入れてくれなかった。そして彼女の実家からの帰り道、彼女に言われた。彼女自身、母親と祖父のリアクションは想定していたらしい。反対されるとすれば、年齢の事だと。父親の死後、母親が一人で苦労しているのを知っていたから、反対される可能性は高いかなと、彼女も考えていた。そしてこの事では、母親の反対を押し切る事はできないとも言われた。自分を一人で育ててくれた母親だから、母親を裏切る事はできないと言われた。俺は彼女を本当に愛していた。いや、今でも本当に愛している。だが結ばれる事がないのにこれ以上彼女と一緒にいる事は、自分も彼女も苦しくなるだけだ。だから別れる事にした」
藤田の恋愛はいつもピュアだ。女性からの人気は高かったが、多くの女性と付き合う事はしなかった。本当に自分を愛してくれて、自分が愛せる女性としか付き合ってこなかったはずだ。付き合っている女性についてあまり深く話をした事はないが、結婚まで話が進んだ人はたぶんこれまでいなかったと思う。藤田は家庭を持つ事に大きな責任を感じていて、どうしても結婚まで踏み切れなかったのだ。それは藤田が育った家庭環境に原因がある。
藤田の両親は、彼が中学生の頃に離婚した。母親と彼の妹は家を出て、父親は不倫相手を後妻として家に入れた。こういう場合、藤田と後妻の折り合いが悪くなるケースが多いと思うが、義理の母となる後妻は非常に人間の出来た人で、藤田は彼女を認めざるを得なかった。藤田の父親は手広く事業を展開しており、義理の母は藤田の父親を献身的に支えた。父親の事業パートナーという意味では実の母親よりも、義理の母親の方がふさわしかった。とは言え、実の母親も家庭を護ると言う意味では何の問題もなかったのだ。客観的に見れば実の母親は、夫の浮気の被害者だ。そのため義理の母は陰口を叩かれる事も多かったが、彼女はそれをすべて受諾していた。自分が前妻を追いだした罪深き人間だと言う自覚を持っていたのだ。そういう状況で育った藤田は、「家庭」と言う形は必ずしも人間を幸せにするものではないという観念を持っていた。そのため結婚して家庭を持つと言う事に、より慎重になっていたのだ。
藤田はしばらく空になったワイングラスを見つめていた後、絞り出すように話し始めた。
「40歳を超えて、恋愛でこんな気持ちになるとは思わなかったよ。いい年して本当にカッコ悪い。本当に自分が情けない」
「そういう問題じゃないだろう。それだけお前が恋愛に対してピュアって事なんだ」
「ピュア? この年でピュアもないだろう。薄汚れたいいおっさんだ」
藤田は自分の両手を見つめた。
「こんなカッコ悪い事、お前にしか言えないよ。いや、本当はお前にも言うつもりはなかったんだ。誰にも知られることなく、日本を離れるつもりだった。だが、心が張り裂けそうで耐えられなかった。誰かに気持ちを聞いて欲しかった」
藤田の言っている事は、よく理解できた。人は心に闇を抱えた時、誰かにその闇を共有してもらえるだけで、心の錘が減る。プライベートの話をあまりしない藤田が打ち明けるのだから、よほど苦しい痛みを抱えているのだろう。しかし一方で、私に出来る事は何もない事もわかっていた。その場しのぎの根拠のない慰めなど、藤田は欲していない。唯一私にできるのは、藤田の話を聞く事だけだ。そしてその事は、藤田自身もわかっているはずだ。
「頭では割り切れても、心を割り切る事ができない。恋愛ってヤツは本当にやっかいだよ…」
藤田は掌で顔を覆い、沈黙した。私も何も発言しなかった。店内には軽やかなジャズが流れ、若い男女の客が楽しげに談笑していた。我々の空間だけが、別世界として切り取られたかのようだった。
長い沈黙だった。その間、藤田の頭の中で彼女との記憶がリフレインされていたのかもしれない。そして藤田の隣で、私は自分の事を考えていた。
桧山さんと私も、ちょうど20歳の年の差だった。彼女に対して、自分は恋愛感情を抱いているのではないだろうか? 桧山さんと一緒に働くようになってから、無味乾燥だった私の世界が変わった。毎日の生活に色彩がつくようになり、目に映るものすべてが美しく見えた。婚約者がいる事はわかっていたが、その話を避けていたのは、桧山さんに恋愛感情を抱いていたからではないだろうか。私は藤田の話を聞いて、自分の気持ちに気が付いたのだ。
だが、いくら私が桧山さんを好きになったとしても、彼女が私を好きになる事は決してない。桧山さんには婚約者がいるし、私には子どもがいる。彼女と私が結ばれる事などあり得ないのだ。そして彼女を好きになればなるほど、後で苦しい思いをするのは自分だ。ほとんどモテた事がない私は、過去の経験からその事もよくわかっていた。私にとって恋愛とは、楽しい物ではなく残酷な物だった。
その後店には一時間ほど滞在したが、藤田とはほとんど会話をしなかった。私は藤田の乗ったタクシーを見送って帰宅した。相変わらず子どもは自室に閉じこもったきりだ。この生活があと何年続くのだろう。私はシャワーを浴びてベッドに横たわった。
『選ばれない自分』(1)
『選ばれない自分』(2)
『選ばれない自分』(3)
『選ばれない自分』(4)
『選ばれない自分』(5)
『選ばれない自分』(6)
『選ばれない自分』(7)
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