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還ってきた娼婦・東城りおのダブルブッキング事件が投げかける強さの正当性

前提:娼婦としての女性麻雀プロ

改めて、東城りおに対する筆者の見解を整理する。東城を始めとして、高宮や菅原など、パチンコ・スロット営業に精を出す個人事業主としての女性麻雀プロのエフォート配分を指して、これまで筆者は端的に「娼婦」と表現して論じてきた。

これは第一には、麻雀プロだけでなく、セクシー女優たちもまた「パチンコ・スロット店からゲストに呼ばれる女性」として、当該業種に地歩を占めていることに引きずられている。

今回の東城ダブルブッキング事件に、上記のようにセクシー女優がコメントしているのを見て、改めて麻雀が風俗営業の範疇であり、界隈に親和性があることを思い出した。

竹内元太がセクシー女優にリプライを送るのは「消費者」として接しているのが明らかなので好感度に繋がっているが、東城がセクシー女優からリプライを送られるならば、それは「従事者」としての連帯に見え、彼女の娼婦性は増幅される。

女流麻雀プロも(あるいは声優も)、セクシー女優も、芸の分野は多様であっても、次項で詳述するように、本質的にはアテンション市場に人格を陳列した商品として把握・受容される。
そうした中、"スタジオ"の"単体女"に付与されたミームがその商品の背後に(中途半端に)巨大な資本の存在を幻視させ、であるならばそこには「性」のような直裁的で資本が群がらざるを得ない価値が横たわっているのではないかという誤解を男の認知にもたらすという構造があるのではないか。
これは考えようによっては隘路というか、伊達がFC運営を合理的効率的に行おうとすればするほど、男たちが連綿と涵養してきた、こうしたミームが駆動し、その結果彼女の女神性が捨象され、娼婦性が前面に押し出されてくることになってしまう。
Mリーガーである女流麻雀プロたちがアテンション市場において帯びる構造的特徴として、Mリーグの資本によって、「スポンサードに値する商品」であるとのハロー効果が発動し、女神性が付与されるという点が挙げられる。
これは、これまで「麻雀コンパニオン」としての役割を求められた”娼婦”だらけだった女流麻雀プロ界隈に訪れた来迎として受容されている。
また、伊達・ひろえが33→34歳、瑞原が38→39歳といった、演者の年齢帯が「女性性の盛りを過ぎた」ゾーンにあることで、消費者たちに「俺たちは彼女たちの女性性を消費しているのではない」という強力なエクスキューズを与えることができるといった特徴もあるだろう。
中田花奈30→31歳ですら、アイドル業を「終えた後」の人物である。

『伊達朱里紗がFC運営に力を入れるほどにFC2-PPVのミームが駆動する』2025年5月10日

題材:ダブルブッキング事件

本事件については、noriaki0357さんがいつも通り丁寧なまとめ記事を書いてくれているので、メモ的に引用しておく。

要約すると、ダブルブッキングは麻雀プロとしてのアイデンティティを重視していないことの表れであり、またMリーガーとして向こう2年は安泰であるという甘えがその遠因にあるという苦言を呈した上で、セミファイナル初戦の「国士無双逃し」がひとつの誅罰として機能しているという見立てである。前段と後段は実際には無関係なので、この立論は本来牽強付会ではあるのだが、この牽強付会さを面白がるタイムラインの雰囲気が醸成されていたのも事実であったため、スケッチとしてはたいへん正鵠を得ている。

筆者が意外だったのは、東城に対する非難の声がほとんどなく、「優しくしてください」などという、「謝罪ポスト」には全く馴染まない不適切な言い回しをしているにもかかわらず、リプライの声は「温かい」ことである。

ここで東城が「謝罪」を行う意義について考えてみると、その理由が少しずつ明らかになってくる。以前筆者も整理したとおり、そもそも団体リーグ戦とは、麻雀プロにとって「仕事」ではなく「サークル活動」である。

一般に「プロ」というとき、「それを仕事・生業にしている人」と解釈することが多いが、こと麻雀界において、それは「団体リーグ戦やタイトル戦への参加資格を得るために、資格試験によりスクリーニングを受け、所属団体に運営費の納入を行っているサークルメンバーたち」を意味する。そして、そうした団体リーグ戦やタイトル戦のことを狭義の「競技麻雀」と定義しているように見受けられる。(広義の「競技麻雀」は、私設リーグや雀荘主催の大会なども含みこむであろう。)

渋川は「麻雀プロは個人事業主」という表現をしたが、ここで「個人事業主」とは、厳密に「税務当局に届出を行い事業活動をしている個人事業主」というよりも、「当該サークル活動について、個人の責任において参加することを決めている当該個人」とでも描写するのが精確であろう。(=従って、サラリーマンがプロ資格を有している場合もある。)

『渋川難波は「修学旅行の夜」を抜け出し、堀慎吾は社会人入学を決めた』2026年1月19日

パチンコ・スロット営業という「仕事」を優先させ、リーグ戦という「サークル活動」を劣後させるのは、個人事業主の経営戦略として見るなら何一つ間違っていない。そういう選択をとることもあり得るだろう。セクシー女優にとって「撮影」は間違いなく「本業」だが、麻雀プロにとって「リーグ戦」は必ずしも「本業」ではない。ここに大きな違いがある。

しかし、麻雀プロを応援するファン達にとっては、リーグ戦に取り組み、番付を駆け上がっていく自己実現を「応援する」という活動が、その推し活の重要な要素になっているのも事実である。プロの「サークル活動」はこの接着点において「責任」を生じる

したがって東城の「謝罪」は、リーグ戦関係者に対してではなく、ファンとの関係性においてのみ機能することになる。もちろん「無断」欠席であったことが運営に支障を来したことについて一定の陳謝は必要であろうが、「所詮遊びのサークル活動」である以上、「マイナス100ポイント」というルール上のペナルティを付与されればそれで遺恨関係は十分に清算される。恨みっ子無しだ。

一方で「ファンの応援」に向けた清算は「謝罪文」によってあがなわなければならず、謝罪ポストを通して「引き続きのご愛顧」を賜るよう伏してお願いすることになる。「推し活」というものがファンからの認知や応援を受容し、これに応答した演者側が「自己実現」のディスプレイという快哉の契機を提供する互恵的な約定関係であるなら、東城の行為はこの黙契に違反したと指弾されてもおかしくはない。

しかしながら前述のようにファン達のコメントは非常に「温かい」ものであった。これはすなわち東城のリーグ戦における番付向上を、東城のファン達は別に望んでもいないし、気にしてすらいないという意味であり、考えようによっては競技麻雀という頭脳ゲームの専門家としての麻雀プロとはみなしていないともとれる反応でもある。

東城本人がこのような反応に「傷つく」ことがなかったとしても、見ている側からすると、東城の競技者としてのブランドには修復不能なほどの「傷がつく」ことになった。

タイムラインでは「岡田が同じことをやったらおまえらもっと叩いていただろう」といった揶揄が見られたが、というよりむしろ筆者は「伊達が同じことをやっていたら、もっとファン達は残念がっていただろう」と思うのである。当然ながら伊達のファン層は伊達の番付向上をコンテンツとして楽しんでいるからであり、プロに対する応援のあり方としては、こちらの方が健全と考えられるのである。

波及:Mリーグ参加資格としての「プロ」

今回の事件によって、東城はどこまで行っても「麻雀コンパニオン」であり、「競技者」にはなり得ないというガラスの天井が図らずも可視化されることとなった。

麻雀飯争奪戦チーム対抗Ver. Presented by menu A卓 2025年3月29日放送

思い出したのはこの絵面である。あえて露悪的な言い回しをすれば、麻雀という遊技に放蕩するボンボンに付き従う水商売の女にしか見えない。コンパニオンというのはそういう意味である。

Mリーグという舞台に登場する男性たちが相当程度ルッキズムウォッシュされることで、巷の麻雀愛好家の真水のルックスが覆い隠されているのを、こうした特別企画が思い出させてくれる。東城が性的魅力や感情労働を供給することでマネタイズを図るのは、こうした戦場である。

BEAST Xが東城を獲得したときに「サプライズ」と表現されたのは「エンタメではなく勝つためのチームを作れ」という批判であったが、「エンタメ」というニュートラルなレトリックではなく、もっと本質的に「賑やかしのコンパニオンで誤魔化すような番組作りをするな」という怒りでもあっただろう。

すなわち、「Mリーグという舞台には、まだまだ東城的なキャラクターが活躍する余地がある」というように、視聴者達は馬鹿にされ、足元を見られている、ということになんとなく気づいているのだ。

東城やひろえといったスロット営業を収入源の主軸とする世代は、麻雀業界に訪れた来迎としてのMリーグによってもウォッシュしきれないほどの娼婦性を帯びてしまっており、そのしがらみは今後も完全には断ち切れないであろう。
そのような娼婦世代は続々と去り(東城23-24、ひろえ24-25)、朝比奈を筆頭に、かじりさ、木下、新榮などの、上記のような覚悟が決まったビジネスライクZ世代がやってくる、Mリーグの8年目とはそんなエポックになるのではないかという期待感があった。
(中略)
そして、「最もサプライズ」と評価されたのが東城りおの復帰(逆コース)であった。当然元Mリーガーとして「名前が挙がる」位置にはつけていたものの、魚谷や村上、あるいは石橋といった復帰に向け気炎を吐く実力者達と比較すれば、東城の復帰順序は、あるとしてもかなり劣後する、というのが大方の見立てだったであろう。
逆コースとは”時代の流れに逆行した”という程の意味であるが、著者自身はそれに加え、前項で触れたとおり、東城に代表されるスロカス娼婦世代の時代はもう終わったと捉えていたので、余計にその逆コースが意外であると感じた。
要するに、ここでも「中間択」が顔を覗かせているのだった。魚谷のように「強いけれど我が強くて和を乱す」イメージのプロよりも、「実力はそこそこだけれど、華があって調和的」な東城が選ばれる。まさに「華と実力の中間択」である。25ドラフトを振り返るなら、「世代の中間択」に加え、この「中間択」が企業の意思決定を体現するキーワードとなる、そんな印象であった。
(中略)
東城スゲェ。みんな言ってたが、著者も素直にそう思った。
下石にツッコミ、中田花奈の姉御となり初日からチームの雰囲気を一気に醸成する。中田花奈と下石の週2セットに混じりたそうでかわいさまで演出。
逆に大介はあぁ新しいチームになったなとちょっと寂しそう。
FRIDAY記事では「細かくツッコミを入れたら意外にウケたので良かった」と謙虚に答えているが、「下石は細かくツッコミを入れたら映える」を正確に理解し、それを実践できるのはタレントである。著者が個人的に好きなのはこの下石。出会って4秒でもう自分がスベったあと「東城っ、頼むっ」と目でヘルプを求めるくらいに依存している

『JTCジェッツと「助けて東城」、ハラスメント風林とヒール花吹雪を添えて~Mリーグ25オフシーズン所感』2025年8月28日

上述の『麻雀飯争奪戦』だけでなく『ホンネがポンッと』などABEMAが展開する特別企画を絶えず賑やかし、コンパニオンとしての価値をディスプレイした東城は、麻雀noteをコツコツ書いて強さをアピールする魚谷よりも先にMリーグに復帰した。恋愛ではないが「単純接触回数こそが命」であることがアテンションエコノミーにおいても適用される公理であることが明らかになった。

しかし、「競技麻雀という頭脳ゲームの専門家としての麻雀プロ」とみなされていないプレイヤーがMリーグの舞台を占有することは、中長期的に見れば強さの正当性を失い、競技リーグの価値を衰えさせていく。本稿で多くは触れないが、「それでもいい」とするか「それではだめだ」とするかのコンセンサスは、これからの視聴者と制作側のコミュニケーションによってつくりあげられていくだろう

こうしたあるべき論とは別に、「麻雀プロ」が帯びる意味が「Mリーグへの参加資格」となっている中で、「五団体」のガバナンスが重要な役割を持つだろうということを最後に指摘しておく。

例えば「五団体から機構に対して、ドラフト指名を許可するプレイヤーをAリーガーもしくはタイトルホルダーに限るよう申し入れる(Bリーガー以下が指名されても、五団体として許可しない)」という制度を導入すれば、Dリーグのコンパニオンを応援するファン達は、目の色を変えてタイトル戦や団体内リーグ戦の番付の向上を「正しく」望むように誘導されるし、今回の東城のようなダブルブッキングによるペナルティ付与はとてつもない失着となる。制度というのは非常に重要である。

もちろん永井シンデレラボーイの例のように「オーディション」を絡ませることで下位リーグからのチャネルを確保することも、メンバーの硬直性を回避するために必要だろう。上述の例は必ずしも「そうせよ」という提言ではなく、Mリーグという麻雀界の最高権力に向けて、強さの正当性を確保するために、五団体の姿勢(スクリーニング機能)が手腕を発揮する局面が到来することを予示しておくものである。

最高位戦の会員拡大など「プロ」の増加、麻雀人口の増加が景気よく報じられる。五団体が誰を「プロ」にするのかは、本来「団体自治」に委ねられる事柄である。しかしそれが、誰を「Mリーガー」にするのかに関する要件としての機能を持つ以上、Mリーグ視聴者達が民主的プレッシャーをかけてくることになるのだ。「サークル活動の運営団体」に、公益的監査が貫入する臨界点に我々は立っている。

今回の事件における東城のファン達の「温かさ」はとりもなおさず「なまぬるさ」であり、かくのごとき課題を投げかけることになったと感じている。

<引用記事>


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