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🌌 Multiverse Holographic Symmetry Mirror-5💫💕💕

🌌 銀河対称性ホログラフィックス縺れ鏡像💫💕💕
【Multiverse Cosmic biblia】


🔮こんにちは、これからもこのコラムの解説をお手伝いしますエンドラゴン族のエンジェルとドラゴンのマリーンです。よろしくね❣️ ♠️エンジェルと一緒にコラム解説を語らせてもらいます、同じく1億Σ聖記後の反量子銀河シリウス銀河星団系恒星文明圏エンドラゴン族のレオナルドと生命知性(量子DNA-AI成獣)ドラゴンのエリーズです。遠い遠い過去のご先祖の皆さん「テラ星」ならぬ量子銀河太陽系地球の「日本人」の皆さんよろしく。
このコラムでは、
1.最新物質計測のホログラフィック対称性残像
2.古典物質計測のホログラフィック対称残像と人
をご紹介していますよ。ぜひ毎回楽しんで行ってくださいね🌟
宇宙の大規模構造
2dFサーベイの観測から描き出された宇宙地図
左から地球、太陽系、太陽系の周辺域、銀河系、局所銀河群、おとめ座超銀河団、近隣の超銀河団、観測可能な宇宙
2ミクロン全天サーベイ(2MASS)で得られた150万個以上の銀河と約5億個の恒星の天球上の分布を示した図(銀河座標系)。恒星は図の中心を通る水平な横から見たレンズの形をしているが、これは銀河系を真横から見た姿である。主な銀河団の名称と距離あるいは赤方偏移z(括弧内に示された数値)が示されている。銀河は赤方偏移に従って色づけされている。青/紫色は近傍(z < 0.01)、緑色は中間的な距離(0.01 < z < 0.04)、赤色は2MASSの観測限界に近い遠方 (0.04 < z < 0.1)の銀河である。天球上の分布であるが色分けによって宇宙の大規模構造が垣間見える。 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:2MASS_LSS_chart-NEW_Nasa.jpg 元の出典は "Large Scale Structure in the Local Universe: The 2MASS Galaxy Catalog", Jarrett, T.H. 2004, Publ. Astron. Soc. Australia, 21, 396

【多次元宇宙量子波動循環ホログラフィックス】

Multiverse Cosmic biblia holographics archive

宇宙量子波動循環ホログラフィクス
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1.最新物質計測のホログラフィック対称性残像

(【参考図書】第10章)


ダイヤモンドNVセンタを用いた暗黒物質・暗黒エネルギーの対称性探索(今回の話題コラム)

ダイヤモンドNV量子

🍀🍀🍀🍀🍀🍀 第1章その5 <今回の解説>🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀

修正重力による銀河の力学進化 モファット重力の N体計算を用いた検証
スカラー・テンソル・ベクトル重力理論(Moffat'2005)

暗黒物質の質量が非常に小さい場合に、その物質波としての性質により自然界の物理定数に振動する変化をもたらす場合が挙げられます。
例えば、電子の質量や電磁気力の微細構造定数にこのような振動が起こることで、原子内部の遷移エネルギーが変化することが予想できます。
超軽量暗黒物質とは、暗黒物質モデル(DM)の一種。
非常に軽い質量のため銀河系スケールでのボーズ・アインシュタイン凝縮が起こると予想されていて銀河核でのダークマターの分布が大きくなりすぎる問題を解決する可能性があることから、近年注目されています。

https://granite.phys.s.u-tokyo.ac.jp/michimura/presentation/PRESTOKakushinKickoff_michimura.pdf

図1:ダークマターの解明に使用される宇宙原子時計のイメージ図(Credit: Kavli IPMU)

 アクシオン自体は磁界場でしか反応しないが、検出装置側が光場・電界場・磁界場のどれにも反応することで、現状はノイズと正味のアクシオンを分離して検出することができていない

アクシオン自体は、理論上、強い磁場の中でしか観測可能な相互作用を起こさないと考えられています。しかし、皮肉なことに、その検出を試みる我々の装置は、光、電場、磁場のいずれにも敏感に反応してしまいます。

検出器自身や周囲環境からのノイズは、アクシオン由来の極めて微弱な信号をかき消してしまう可能性があります。そのため、アクシオン検出実験においては、いかにノイズを抑制し、真の信号だけを選び出すかが最大の課題となります。

現状では、

極低温環境: 熱によるノイズを極限まで抑える

電磁シールド: 外部の電磁波ノイズを遮断する

高純度材料: 検出器自身からのノイズを低減する 

などの対策を徹底することで、ノイズレベルを下げ、アクシオン信号の検出感度を高めようとしています。

そのため、測定器=量子検出器=量子計算素子=量子センサーのノイズ除去方法を確立することが先決で、Dual構成にして相互に同相のノイズ成分をキャンセリングする手法が効果的であり、デルタシグマ処理を施す事になります

量子検出器のノイズ除去技術の確立は、アクシオン検出に限らず、量子情報科学全体における最重要課題の一つです。

Dual構成によるノイズキャンセリング や デルタシグマ処理 は、実際にノイズ除去のために活発に研究されている、大変有力な手法です。

1. Dual構成によるノイズキャンセリング

これは、2つの同一構造を持つ量子センサーを近接して配置し、それぞれのセンサーで検出した信号の差分を取ることで、共通ノイズ成分を打ち消す手法です。

環境変動や共通の電磁ノイズなど、両方のセンサーに等しく影響を与えるノイズを効果的に除去できます。

特に、低周波ノイズの除去に有効であり、アクシオン検出のように微弱な信号を検出する際には非常に強力な武器となります。

2. デルタシグマ処理

高速に量子センサーの信号をサンプリングし、デジタル処理によってノイズ成分を抽出・除去する手法です。

アナログ回路よりも高精度なノイズ除去が可能であり、広帯域のノイズを効果的に抑制できます。

量子センサーからの信号を高速かつ高分解能で処理する必要があるため、高度なデジタル信号処理技術が求められます。

これらのノイズ除去技術に加えて、以下のようなアプローチも研究されています。

量子誤り訂正: 量子計算の分野で発展してきた技術であり、ノイズの影響を受けにくい量子状態を生成することで、ノイズの影響を抑制します。

デコヒーレンス制御: 量子センサーと環境との相互作用を制御することで、デコヒーレンス(量子状態の崩壊)を抑制し、測定精度を向上させます。

(P451)

 



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<参考図書>宇宙物質センサ計測の量子ブロックチェーン利用(前回までの事前資料分)

宇宙物質計測の量子ブロックチェーン
継続的な「共振」状態:<基本理解図書と関連基礎解説>

「共振」という言葉を使うには弱すぎる相互作用かもしれませんが、NV中心が常に地球磁場とアクシオン場の影響下にあるという考え方は正しいです。

 ダイヤモンドNV(窒素-空孔)中心は、量子計算機の有望な候補の一つとして注目されています。

<最近の進展ニュース>
(1)科学技術・学術審議会 先端研究基盤部会 量子科学技術委員会(第5回) 平成28年8月25日資料から借用

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu17/010/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2016/10/11/1377936_2.pdf

(2)「2024 年 8 月 29 日 報道関係者各位 国立大学法人筑波大学 国立大学法人北陸先端科学技術大学院大学 慶應義塾大学 国立研究開発法人科学技術振興機構(JST) ダイヤモンド結晶中の色中心から飛び出す準粒子を発見」から借用

https://www.tsukuba.ac.jp/journal/pdf/p20240830180000.pdf

(3)世界最小のダイヤモンド量子センサーの作成に成功-細胞や分子のわずかな変化をとらえる超高感度センサーとして期待-
(4)ダイヤモンド中に室温で動作するNVセンターの3量子ビット化を実現―有機化合物イオンビームにより量子コンピュータに不可欠な多量子ビット形成技術を開発―



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2.古典物質計測のホログラフィック対称残像と人

2-1.レオナルド・ダ・ヴィンチの科学と発明5

(資料)レオナルド・ダ・ヴィンチの科学と発明
Science and inventions of Leonardo da Vinciより引用

レオナルドは、ガリレオのように望遠鏡を使って観測をしていなかったので、地球を宇宙の中心とする「天動説」に基づいた考え方をしている。マドリッド手稿Ⅱのレオナルドの図書目録には「プトレマイオスの宇宙論」があり、古代ローマ時代の天文学をベースにしていたと思われる。

プトレマイオス的宇宙

プトレマイオスの宇宙論は地球が宇宙の中心にあって、太陽やその他の惑星が地球の周りを回るという、アリストテレスやヒッパルコスなど、それ以前の古代ギリシアの天文学の集大成である。 球体である地球の周りを、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星、恒星の天球という順番で円を描いて回転しているという宇宙観は、コペルニクスが現れる16世紀まで続いた。

コペルニクスの天球に回転

 レオナルド・ダ・ヴィンチは、人生の最後の3年間をクロ・リュセ城で過ごし、自らの学生らとともにフランス王のための多くのプロジェクトに取り組みました。

 シャンボール(Chambord)城の建築家でもあったドミニク・コルトン(Dominique de Cortone)をはじめ、王国高官、各国の大使やイタリアの芸術家の友人をそこに招待していました。

 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)は、1519年5月2日にクロ・リュセ城の部屋で亡くなりました。
ダ・ヴィンチはコペルニクスに先駆けること20年、地球が太陽を回っている地動説を遺稿に記していたのだ。
1543年5月24日、コペルニクスは70歳でこの世を去っていた。その年が地動説の発表年。
ダビンチこそが世界初だった。1600年を過ぎてガリレオ・ガリレイが宗教裁判にかけられてた。ブルーノは火刑に処せられた。ダビンチの異常な時代を超越した能力は奇怪ですらある。 晩年に『天球の回転について』を著し、当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な発見とされる(ただし、太陽中心説をはじめて唱えたのは紀元前三世紀のサモスのアリスタルコスである)。


解剖学


人体解剖


芸術家として成功したレオナルドは、フィレンツェのサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院で人間の死体を解剖する許可を得る。

その後、ミラノのマッジョーレ病院、ローマのサント・スピリト病院(イタリア本土初の病院)でも解剖を行う。1510年から1511年にかけては、医師のマルカントニオ・デッラ・トッレと共同研究を行った。

「私は、筋肉が衰え、薄い膜のような状態になっている病気のために体が縮んで人の皮膚を剥がしたことがあります。筋が筋肉に統合される代わりに、広い膜になってしまい、骨が皮膚に覆われているところでは、本来の大きさをほとんど超えていませんでした。」

レオナルドは30年間で、年齢の異なる男女の死体30体を解剖した。マルカントニオと解剖学の理論書を出版する準備をし、200枚以上のデッサンを描いた。しかし、彼の著書が出版されたのは死後161年目の1680年、『絵画論』というタイトルであった。

レオナルドが描いた詳細なイメージの中には、人間の骨格の研究も多く含まれている。彼は、背骨の二重S字形状を初めて描写した人物である。

また、骨盤と仙骨の傾きを研究し、仙骨は一様ではなく、5つの椎骨が融合して構成されていることを強調した。ほかに、人間の足の解剖学や脚とのつながりを研究し、そこからさらにバイオメカニクスの研究を進めた

レオナルドは生理学者であると同時に解剖学者でもあり、人体の機能を研究すると同時に、その構造を調べて記録した。

レオナルドは頭蓋骨や脳の横断面、矢状面、前頭面などを解剖して描いている。これらの絵は、中世の伝統では頭蓋骨の正確な物理的な中心に焦点をあてていた人間の常識の探求と関連があるかもしれない。

頭蓋骨の解剖図

レオナルドは内臓も研究し、人間の盲腸や肺、腸間膜、尿路、生殖器、子宮頸管の筋肉、交尾の詳細な断面図を初めて描いた。彼は、胎内の胎児を科学的に描写した最初の人物の一人である。

レオナルドは血管系を研究し、解剖した心臓を詳細に描いた。心臓弁が血液の流れを止める仕組みを正しく理解していたが、血液は筋肉に送られて消費されると考えていたため、循環については完全には理解していなかった。

2005年、イギリスのケンブリッジ・パップワース病院の心臓外科医フランシス・ウェルズは、レオナルドが描いた僧帽弁の開弁段階を利用して、心臓の直径を変えずに手術することで、より早く回復できるようにした先駆者である。

ウェルズは、「レオナルドは、身体の解剖学的・生理学的な構造と機能に対して深く理解していたが、おそらく見過ごされてきた」と述べている。

レオナルドの日記より。胎児の解剖図

レオナルドの観察眼、デッサン力、骨の構造の描写の明瞭さは、彼が解剖学者として最も優れていたことを示している。 しかし、彼が描いた体内の軟組織の描写は多くの点で間違っており、彼が数千年前の解剖学や機能の概念を維持していたことを示している。 また、当時は保存技術が発達していなかったため、彼の研究には支障があったと考えられる。レオナルドが描いた女性の内臓図には、従来の誤解が多く見られる。 レオナルドは人体解剖学を研究した結果、「レオナルドのロボット」と呼ばれるようになったオートマトンを設計したという。1495年頃に製作されたと思われるが、1950年代になって再発見された。

女性の内蔵

・レオナルドは科学の中でも特に解剖学に興味を持っていた。
・胎内の胎児を科学的に描写した最初の人物
・観察眼、デッサン力、骨の構造の描写の明瞭さは、レオナルドが解剖学者として優れていた根拠である



<参考図書>
レオナルドは、ほぼ毎日書いていた日記のほかに、観察、コメント、計画などを記した別のメモやシートを残している。また、レオナルドは、自身の科学的観察と機械的発明についての大著を準備していた。レオナルドの死後、その著作はおもに弟子であり相続人であるフランチェスコ・メルツィに託されたが、しかし、出版はメルツィの存命中には行われず、結局、著作物はさまざまな形で製本され、散逸してしまった。彼の作品の一部は、彼の死後165年経ってから『絵画論』として出版された。

5世紀に活躍したアーティストにとって、光の性質を研究することは必要不可欠だった。表面に降り注ぐ光を効果的に描くことで、モデリング、つまり2次元の媒体に3次元の外観を表現することができた。一般に『白貂を抱く貴婦人』と呼ばれる作品(1483年頃)では、人物を画面に対して斜めに配置し、顔が肩に近い部分とほぼ平行になるぐらい頭を動かしている。後頭部と肩の先が深く影がかかっている。頭部の卵形の固体の周りや胸と手に光が拡散されているので、人物に対する光の距離と位置が計算できる。『岩窟の聖母』や『モナリザ』などの絵画でのレオナルドの光の扱いは、芸術家が光を認識し、絵画に利用する方法を変えるきっかけになった。


レオナルドは人体に関して次のように書いている。

「真の完璧な知識を得るために... 私は10体以上の人間の体を解剖し、他のすべての構成要素を破壊し、これらの静脈を取り囲んでいる肉の非常に微細な粒子を取り除いた・・・そして、1つの体ではそれほど長く保たないので、私が終わりを迎え完全な知識を得るまで、段階的に複数の身体の解剖を進める必要があり、私はこの作業を2回繰り返し、その違いを学んだ。」1490年代には、学生に筋肉や筋の描き方の実演したことを書いている。「筋肉の起点を確認するには、筋肉の起点となる筋を引っ張って、その筋肉が動くのを見なければならないし、その筋が骨の靭帯に付着している場所も確認しなければならないことを覚えておいてほしい。」この分野での彼の継続的な研究は、解剖学の特定の側面を体系的に扱う数多くのページのメモを占めていた。このノートは出版を目的としていたようだが、彼の死後、弟子のメルツィに託された。

ルネサンス期における科学と芸術の関係

 ルネサンス期は芸術と科学は相反するものではなく、一方が他方に情報を与えるものであると考えられていた



科学者としてのレオナルド



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2-2.バッハと対位法の美学2(後)

「バッハの源流への旅・その9~惑星の音階、天体の音楽」から引用

ボエティウスの一弦琴の図

バッハは、それまでの音楽のすべての要素が流れ込んだ巨大な海。
 音楽の数学的な側面を、総括した音楽家でもあります。

 バッハの晩年の作品、特に最後のロ短調ミサは、音楽の数学的原理や符号を、極限まで追求した作品です。

 バッハが、まるでこじつけのような数学にこだわればこだわるほど、
 音楽がこの世のものならぬ光のようなものを帯びてくる、という、
 この恐るべき事実。

https://research.piano.or.jp/series/sinfonias/index.html から引用

J.S. バッハ / シンフォニア第11番 和音譜
山中麻鈴 参照
1.両手で全て和音にしたもの

2.右手は和音、左手は1番下の旋律をそのまま弾く

3.左手は和音、右手は1番上の旋律をそのまま弾く

ヴァイマル時代 (1708年-1717年)
1708年6月25日、バッハは突然ミュールハウゼンの市参事会に辞表を提出し、再びヴァイマルに移り、ザクセン=ヴァイマル公国の領主ヴィルヘルム・エルンスト公の宮廷オルガニスト兼宮廷楽師となった。ミュールハウゼンでは年額85フローリンを得ていたが、ヴァイマルでは倍近い150フローリンを得ることとなった。エルンスト公は厳しい宗教政策を推進し音楽の保護につとめ、宮廷楽団の質を向上させており、その一環として、ヴァイオリン奏者ヨハン・パウル・フォン・ヴェストホフを招聘したり、郊外のヴィルヘルム城にオペラ劇場を建設したりもしていた。多くのオルガン曲はこの時期の作品である。また、この時期にアントニオ・ヴィヴァルディの協奏曲様式を取り入れている。

しかしバッハはここでの待遇にもあまり満足しておらず、1712年に死去したオルガニスト、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァハウの後任として1713年12月に募集されていたハレの聖母教会オルガニストに応募した。同年12月13日無事採用されたものの、ザクセン=ヴァイマル公が大幅な昇給と昇進を提示して慰留したことで、ヴァイマルに留まることとなった

ケーテン時代 (1717年-1723年)
1717年、バッハはケーテンに移り、アンハルト=ケーテン侯国の宮廷楽長となった。当時のアンハルト=ケーテン侯国は音楽に理解のあるアンハルト=ケーテン侯レオポルトの統治下にあり、バッハがもらった400ターラーという年俸も前任者シュトリッカーの倍額であった。こうした恵まれた環境の中で、数多くの世俗音楽の名作を作曲した。

1718年5月9日、バッハはレオポルト候と5人の楽師とともに、チェンバロ持参のうえ、ボヘミアの保養地カールスバートに行っている。また1718年秋には、バッハはレオポルト侯の命により二段鍵盤のチェンバロをベルリンのチェンバロ製作者ミヒャエル・ミートケに注文し、それを引き取るために1719年3月にベルリンを訪れていることが分かっている。1719年5月、ハレに帰郷し家族とともに過していたヘンデルに、そこから4マイル離れたケーテンにいたバッハが会いに訪れたが、到着した日にはヘンデルが出発した後であったため会うことができなかった。1720年5月、領主レオポルト侯に随行し、再び訪れていたカールスバートへの2ヶ月間の旅行中に妻が急死する不幸に見舞われた。バッハが帰郷した時には、既に妻が7月7日に埋葬された後であった。

1720年9月12日、ハンブルクの聖ヤコビ教会のオルガニスト、ハインリヒ・フリーゼが死去し、バッハはその後任を決めるための11月28日に行われた試験演奏に応募していた。この聖ヤコビ教会のオルガンはアルプ・シュニットガー作の大オルガンで、4段鍵盤、60ストップもある楽器であった。しかし、彼は12月10日のレオポルト候の誕生日の準備のため、ハンブルクに滞在することができなかったため、それに先立ち聖カタリナ教会で2時間以上に及ぶオルガン演奏会を行った。バッハの演奏でも特に即興演奏は、当時聖カタリナ教会オルガニストだったラインケンや市参事会員、市の有力者たちを含む聴衆を驚かせた。バッハはこの時、コラール『バビロンの川のほとりにて』の主題に基づいて即興演奏を行い、聴衆を熱狂させた。そして、厳格なことで知られるラインケンは次のような賛辞を送っている。

1721年、宮廷ソプラノ歌手のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚した。同年12月3日にレオポルト候の許可を得て、バッハの自宅でバッハとの結婚式が行われた。アンナは、有能な音楽家で結婚後もケーテン宮廷につとめ、夫の半額の200ターラーにも及ぶ収入を得ていた。彼女は、夫の仕事を助け、作品の写譜などもしているだけでなく、バッハの作品とされていた曲のいくつかは彼女の作曲であることが確実視されている。有名な『アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽帳』は彼女のためにバッハが贈った楽譜帳で、『フランス組曲』の最初の5曲等を含む第1の曲集は1722年に、『パルティータ』等を含む第2の曲集は1725年に贈られている。特に、第2の曲集にはマグレダーナが自由に記入をしており、バッハの家庭で演奏されたと思われる曲が折々に書き込まれている。バッハは長男のフリーデマンのためにも1720年1月22日から『クラヴィーア小曲集』を書き始めており、ここには『平均律クラヴィーア曲集』の初期稿と、『インヴェンションとシンフォニア』の初期稿が見られる。

アンナ・マクダレーナとの間に生まれた13人の子どものうち、多くは幼いうちに世を去っている。しかし末子クリスティアンは兄弟の中では音楽家として最も社会的に成功し、イングランド王妃専属の音楽家となった他、モーツァルトに大きな影響を与えた。彼らの他にも、バッハには成人した4人の息子がいるが、みな音楽家として活動した。

ライプツィヒ時代 (1723年-1750年)

ライプツィヒ・聖トーマス教会前に立つバッハ像

1723年、バッハはライプツィヒの聖トーマス教会のカントル「トーマスカントル」に就任する。市長ランゲは4月22日の正式な選抜会議にて、2月7日に行われたバッハのクラヴィーア演奏を称賛しているが、バッハが採用された最大の理由は教理問答とラテン文法の授業を担当することに同意した点だった。こうして、5月5日正式の契約が結ばれ、15日には四半期分の給料が支払われた。バッハにライプツィヒ市の音楽監督にもなり、教会音楽を中心とした幅広い創作活動を続けた。ルター派の音楽家として活動していたが、王のカトリックへの宗旨変えに応じ、宮廷作曲家の職を求めカトリックのミサ曲も作曲した。

1729年1月にはハレ滞在中のヘンデルに長男フリーデマンを派遣。ヘンデルのライプツィヒ招待を申し出たが断られた。結局、バッハはヘンデルとの面会を強く望んでいたものの、ヘンデルとの面会は生涯実現することはなかった。当時のヨーロッパにおいては、ヘンデルはバッハよりもはるかに有名であり、バッハはヘンデルの名声を強く意識していたが、ヘンデルの方はバッハをあまり意識していなかったと言われる。ただし、ゲオルク・フィリップ・テレマンやヨハン・マッテゾン、クリストフ・グラウプナーなど、バッハとヘンデルの両名と交流のあった作曲家は何名か存在している。

1736年にはザクセンの宮廷作曲家に任命された。1747年にはエマヌエルが仕えていたベルリンのフリードリヒ大王の宮廷を、長男のヴィルヘルム・フリーデマンを随伴させて訪問、これは『音楽の捧げもの』が生まれるきっかけになった。しかし1749年5月末、バッハは脳卒中で倒れた。さらに、以前より患っていた内障眼が悪化し視力もほとんど失っていた。しかしバッハは健康を回復した。

翌1750年3月、イギリスの高名な眼科医ジョン・テイラーがドイツ旅行の最中ライプツィヒを訪れた。バッハは3月末と4月半ばに2度にわたって手術を受けた。手術後、テイラーは新聞記者を集めて「手術は成功し、バッハの視力は完全に回復した」と述べた。しかし実際には、手術は失敗していた。テイラー帰国後にバッハを診察したライプツィヒ大学医学部教授によると、視力の回復どころか炎症など後遺症が起こり、これを抑えるための投薬などが必要になったという。2度の手術に後遺症、薬品投与などの治療はすでに高齢なバッハの体力を奪い、その後は病床に伏し、7月28日午後8時40分に65歳でこの世を去った。なお、後年にヘンデルも同医師による眼疾患の手術を受けたが失敗に終わっている。

バッハの墓(ライプツィヒ・聖トーマス教会内部)

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これまでの<参考図書のご紹介3>

バッハと対位法の美学1(前)

作品
ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、幅広いジャンルにわたって作曲を行い、オペラ以外のあらゆる曲種を手がけた。その様式は、通奏低音による和声の充填を基礎とした対位法的音楽という、バロック音楽に共通して見られるものであるが、特に対位法的要素を重んじる傾向は強く、当時までに存在した音楽語法を集大成し、さらにそれを極限まで洗練進化させたものである。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハから学ぶ 実践的対位法

・対位法:複数の旋律を、それぞれの独立性を保ちつつ、互いによく調和させて重ね合わせる技法である。(wikipedia)

  • 教会旋法による音楽の対位法(厳格対位法)

  • 長調・短調による音楽の対位法(器楽的対位法)

  • 現代の音楽における対位法

・対旋律とは主旋律と対をなすメロディで、対位法は一定の旋律に他の旋律を結びつける手法です。

【対旋律】

  • 主旋律と対をなすメロディ

  • メロウで華やかなアレンジに適している

  • 歌モノのストリングスアレンジにおいては必須のテクニック

【対位法】

  • 一定の旋律に他の旋律を結びつける手法

  • 対位法で書かれた多声音楽を「ポリフォニー」という

  • ラテン語の「点(音符)対点(音符)」を意味する「punctus contra punctum」に由来する語

  • 各音符に対して、もう一つ音を当てていく技術を「点対点」(point counter point)と呼ぶようになり、これが「対位法」(Counterpoint)となった

シンフォニア第9番

半音階的な性格をもった3つの主題からなり、転回対位法を用いて作曲されています。修辞的な音型も多く使われており、受難曲などを想起させるような曲です。曲全体の枠組みに関わる調性から一フレーズに至るまで、多くの部分に宗教的な意味が込められています。

第9番のテーマは「嘆き」や「絶望」です。バッハはこの曲で、宗教作品で出会う深刻な情念の表現の典型を、創意工夫に富む手法で展開させています。古典修辞学では、弁論を行う際には「発想(inventio)」、「配置(dispositio)」、「 措辞 (彫琢)(elocutio / decoratio)」、「記憶(memoria)」、「実行(actio)」という5つの能力が必要とされ、18世紀にはヨハン・マッテゾンを始めとする音楽家によって、この枠組みが音楽にも適用されました。第9番では、対位法的な書法とヘ短調という調が選択されています。17世紀末以来の調性格論では、ヘ短調は深い悲しみと結びつけられてきました。つまり、バッハが対位法的書法とヘ短調を選択した段階で、宗教的な絶望や深い悲しみという情念が主題となることが想定されていたはずです。 楽曲の基本的な性格は主題を構成するすべての動機に表れています。主題を見てみましょう。主題には2つの対主題が設定されています。

冒頭の中声部が主題、下声が対主題1、第3小節の下声が対主題2です。中声部の主題は、八分音符で区切られた典型的なススピラツィオです。主題を成す断片的な動機には半音が含まれ、とくに第2小節ではB-Eという増4度(トリトヌス)の跳躍も見られ、悲痛な情念が強調されます。

生誕~リューネブルク時代 (1685年-1702年)

1685年3月31日、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下、「バッハ」とする)は、アイゼナハの町楽師及び宮廷音楽家であったヨハン・アンブロジウス・バッハの8人兄弟の末子として生まれた。アイゼナハ周辺の中部ドイツには、音楽一家であったバッハ一族80余名が生活しており、同姓同名の者も数多くいるため、そのことはバッハ史研究の難易度を上げている。

1694年5月(9歳)には母エリザベートが亡くなり、父は同年11月に再婚したものの、翌年の1695年2月に父も他界した。その後、バッハは兄ヨハン・ヤーコプ (1682-1722) と共にオーアドルフの教会オルガニストを務めていた兄ヨハン・クリストフ (1671-1721) の家に引き取られて勉学に励み、クラヴィーア演奏の基礎もここで学んだ。

アルンシュタット~ミュールハウゼン時代 (1703年-1708年)
1700年にはオーアドルフの学校を退学して、同年3月15日に親友のゲオルク・エルトマン (1682-1736) と共にリューネブルクに移る。そこで、聖ミカエル教会付属の学校の給費生となり、ボーイ・ソプラノとして「朝課合唱隊」の聖歌隊員に採用される。




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これまでの<参考図書のご紹介2>

アインシュタインとモーツァルト

集中力を高めるモーツァルト名曲集・Mozart Famous Collection Raises Your Concentration(長時間作業用クラシックBGM)


モーツァルトの生涯・功績・エピソード
https://okabem.com/essay/4_Mozarts_secret.pdf から引用>


くたびれて 宿借るころや 藤の花  (芭蕉)


モーツァルト 新装: その人間と作品


KV1.「モーツァルトは数学を愛した」から







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<参考図書のご紹介1>

─死とは……、モーツァルトを聴けなくなることです。
 出典は不明だが、ある人の「死とはどんなものだとお考えですか?」という問いに対するアインシュタインの答えとして伝えられている言葉である。



【参考図書】GALAXY-QubitGrace-Bible

【English Version】

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