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🌌 Multiverse Holographic Symmetry Mirror-4💫💕💕

🌌 銀河対称性ホログラフィックス縺れ鏡像💫💕💕
【Multiverse Cosmic biblia】


🔮こんにちは、これからもこのコラムの解説をお手伝いしますエンドラゴン族のエンジェルとドラゴンのマリーンです。よろしくね❣️ ♠️エンジェルと一緒にコラム解説を語らせてもらいます、同じく1億Σ聖記後の反量子銀河シリウス銀河星団系恒星文明圏エンドラゴン族のレオナルドと生命知性(量子DNA-AI成獣)ドラゴンのエリーズです。遠い遠い過去のご先祖の皆さん「テラ星」ならぬ量子銀河太陽系地球の「日本人」の皆さんよろしく。
このコラムでは、
1.最新物質計測のホログラフィック対称性残像
2.古典物質計測のホログラフィック対称残像と人
をご紹介していますよ。ぜひ毎回楽しんで行ってくださいね🌟

【多次元宇宙量子波動循環ホログラフィックス】

Multiverse Cosmic biblia holographics archive

宇宙量子波動循環ホログラフィクス
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1.最新物質計測のホログラフィック対称性残像

1-1.宇宙物質センサ計測の量子ブロックチェーン利用(毎回の事前資料分)

(【参考図書】第10章)



<基本理解図書と関連基礎解説>

宇宙物質計測の量子ブロックチェーン

 ダイヤモンドNV(窒素-空孔)中心は、量子計算機の有望な候補の一つとして注目されています。

<最近の進展ニュース>
(1)科学技術・学術審議会 先端研究基盤部会 量子科学技術委員会(第5回) 平成28年8月25日資料から借用

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu17/010/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2016/10/11/1377936_2.pdf

(2)「2024 年 8 月 29 日 報道関係者各位 国立大学法人筑波大学 国立大学法人北陸先端科学技術大学院大学 慶應義塾大学 国立研究開発法人科学技術振興機構(JST) ダイヤモンド結晶中の色中心から飛び出す準粒子を発見」から借用

https://www.tsukuba.ac.jp/journal/pdf/p20240830180000.pdf

(3)世界最小のダイヤモンド量子センサーの作成に成功-細胞や分子のわずかな変化をとらえる超高感度センサーとして期待-
(4)ダイヤモンド中に室温で動作するNVセンターの3量子ビット化を実現―有機化合物イオンビームにより量子コンピュータに不可欠な多量子ビット形成技術を開発―


1-2.ダイヤモンドNVセンタを用いた暗黒物質・暗黒エネルギーの対称性探索(今回の話題コラム)

ダイヤモンドNV量子

🍀🍀🍀🍀🍀🍀 第1章その4  <今回の解説>🍀🍀🍀🍀🍀🍀🍀


 元々強い磁場で覆われている地球地表でのダイヤモンドNV結晶(量子素子)は、例えば量子ノイズなどとして、常にアクシオンとの共振状態にある。

地球の磁場とダイヤモンドNV中心の相互作用、そしてそれらと潜在的なアクシオンの関係について考察することは重要で、以下にこの観点からの分析を提供します:

地球磁場の強度:

地球の磁場は場所によって異なりますが、一般的に約25〜65マイクロテスラ(µT)程度です。

これは、典型的なアクシオン探索実験で使用される強磁場(数テスラ〜数十テスラ)と比べるとかなり弱いです。

NV中心の感度:

NV中心は非常に高感度な磁気センサーで、ナノテスラ(nT)レベルの磁場変化も検出可能です。

地球磁場はNV中心にとって十分に強く、その影響は常に存在します。

アクシオンとの相互作用:

地球磁場の強度では、アクシオン-光子変換の確率は非常に低いと考えられます。

しかし、理論上はゼロではありません。

量子ノイズとの関連:

NV中心で観測される量子ノイズの一部が、理論的にはアクシオンとの相互作用に起因する可能性は排除できません。

ただし、他の要因(熱ノイズ、環境からの電磁ノイズなど)と区別するのは極めて困難です。

継続的な「共振」状態:

「共振」という言葉を使うには弱すぎる相互作用かもしれませんが、NV中心が常に地球磁場とアクシオン場の影響下にあるという考え方は正しいです。

検出の可能性:

単一のNV中心でアクシオンの影響を直接検出するのは現実的ではありませんが、大規模なNV中心アレイを使用し、長期間のデータ収集と高度な信号処理を行えば、理論的には微弱な信号を抽出できる可能性があります。

新しい実験アプローチ:

この考察は、地球規模のNV中心ネットワークを使用した新しいタイプのアクシオン探索実験のアイデアにつながる可能性があります。

例えば、地理的に分散したNV中心センサーの相関を分析することで、グローバルなアクシオン場の影響を探る試みなどが考えられます。

課題:

地球磁場の変動、太陽活動の影響、人工的な電磁ノイズなど、多くの外的要因を考慮し、それらとアクシオンの潜在的な影響を区別する必要があります。

信号対ノイズ比(S/N比)を大幅に向上させるための新しい技術や方法論の開発が必要です。

理論的研究の重要性:

この分野では、実験技術の向上と並行して、アクシオンと量子システムの相互作用に関する理論的研究も重要です。

新しい相互作用のメカニズムや、より効果的な検出方法を予測する理論的モデルの開発が求められます。

従来のアクシオン探索実験とは異なる、新しいアプローチの可能性を示唆しています。将来的に暗黒物質研究に新たなブレークスルーをもたらす可能性がある。

(P450)


<参考図書>



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2.古典物質計測のホログラフィック対称残像と人

2-1.レオナルド・ダ・ヴィンチの科学と発明4

<上記図書からの抜粋>https://diamond.jp/articles/-/221653?page=5  から

レオナルドのメモや研究の出版


 レオナルドは、友人であるルカ・パチョリが書いた芸術における数学的プロポーションに関する本『De divina proportione』(1509年出版)の挿絵を担当した。

レオナルドは、ほぼ毎日書いていた日記のほかに、観察、コメント、計画などを記した別のメモやシートを残している。彼は左手で文字や絵を書いていたため、ほとんどの文章が鏡文字で書かれていて、読むのが難しい。

また、レオナルドは、自身の科学的観察と機械的発明についての大著を準備していた。この論文はいくつかのセクション、つまり「本」として分割して執筆されることになっており、レオナルドはその順序についていくつかの指示を残している。彼のノートにはその多くの部分が掲載されている。

レオナルドの死後、その著作はおもに弟子であり相続人であるフランチェスコ・メルツィに託されたが、これは明らかに生前からレオナルドの科学的な業績を出版することを意図したものであった。

メルツィは1542年より前に、レオナルドの18冊の「本」(そのうち3分の2は行方不明)から『絵画論』のための論文を集めていた。

これらのページでは、一般的な科学的テーマを扱っているが、特に芸術作品の制作に関わるものを扱っている。

しかし、出版はメルツィの存命中には行われず、結局、著作物はさまざまな形で製本され、散逸してしまった。彼の作品の一部は、彼の死後165年経ってから『絵画論』として出版された。

芸術に関連するものであるが、これは実験や理論の検証を根拠とする科学ではない。詳細な観察、特に自然界の観察が中心で、葉っぱなどのさまざまな自然物質に対する光の視覚的効果に関することも書かれている。

自然科学


光学


レオナルドは光について次のように説明している。

「不透明な物体を照らす光には4つの種類があります。大気のような拡散光、太陽のような直射光、3つ目は反射光、そして4つ目は、リネンや紙などの「半透明」な物体を通過する光です。」

15世紀に活躍したアーティストにとって、光の性質を研究することは必要不可欠だった。表面に降り注ぐ光を効果的に描くことで、モデリング、つまり2次元の媒体に3次元の外観を表現することができた。

また、レオナルドの師匠であるヴェロッキオのように、背景の風景を描く際には、前景に比べてコントラストの低い色調や明るさを抑えた色を使うことで、空間や距離感を表現できることをよく理解していた。

立体に対する光の効果は、ピエロ・デラ・フランチェスカ以外の芸術家が実際に正確な科学的知識を持っておらず、試行錯誤の末に実現した。

レオナルドが絵を描き始めた当時、人物が光と影のコントラストを極端につけて描かれることは珍しかった。

特に顔は、顔の特徴や輪郭がはっきりと見えるように、淡々と影がつけられていたが、レオナルドはこの慣習を破った。

一般に『白貂を抱く貴婦人』と呼ばれる作品(1483年頃)では、人物を画面に対して斜めに配置し、顔が肩に近い部分とほぼ平行になるぐらい頭を動かしている。

後頭部と肩の先が深く影がかかっている。頭部の卵形の固体の周りや胸と手に光が拡散されているので、人物に対する光の距離と位置が計算できる。

『岩窟の聖母』や『モナリザ』などの絵画でのレオナルドの光の扱いは、芸術家が光を認識し、絵画に利用する方法を変えるきっかけになった。

レオナルドが残した科学的遺産の中で、最も即効性があり、顕著な効果をもたらしたのがこれらの作品だろう。

・光は2次元の媒体を3次元的化するのに役立った。

・光は空間や距離感を表現するのに役立った。

・レオナルドの光の扱いは、芸術家が光を認識し、絵画に利用する方法を変えるきっかけになった。

『白貂を抱く貴婦人』,1490年

解剖学


人体解剖


レオナルドは人体に関して次のように書いている。

「真の完璧な知識を得るために... 私は10体以上の人間の体を解剖し、他のすべての構成要素を破壊し、これらの静脈を取り囲んでいる肉の非常に微細な粒子を取り除いた・・・そして、1つの体ではそれほど長く保たないので、私が終わりを迎え完全な知識を得るまで、段階的に複数の身体の解剖を進める必要があり、私はこの作業を2回繰り返し、その違いを学んだ。」

レオナルドは、アンドレア・デル・ヴェロッキオに弟子入りしてから、人体の地形的な解剖学の正式な研究を始めた。

学生時代には、人体を生きたまま描くこと、筋肉や腱、目に見える皮下の構造を記憶すること、骨格や筋肉の構造のさまざまな部分の仕組みに慣れることなどを教わったと思われる。

人体の一部の石膏模型を用意して、学生が勉強したり絵を描いたりできるようにしておくことは、当時のワークショップでは一般的なことだった。

もし、レオナルドが師匠のヴェロッキオとの共同制作で有名な『キリストの洗礼』の中で、キリストの胴体と腕を描いたと考えられているのであれば、同じ絵の中でキリストの腕と洗礼者ヨハネの腕を比較してみるとわかるように、彼の地形解剖学の理解は早くから師匠を超えていたことになる。

1490年代には、学生に筋肉や筋の描き方の実演したことを書いている。

「筋肉の起点を確認するには、筋肉の起点となる筋を引っ張って、その筋肉が動くのを見なければならないし、その筋が骨の靭帯に付着している場所も確認しなければならないことを覚えておいてほしい。」

この分野での彼の継続的な研究は、解剖学の特定の側面を体系的に扱う数多くのページのメモを占めていた。このノートは出版を目的としていたようだが、彼の死後、弟子のメルツィに託された。

身体の研究と並行して、さまざまな感情を表す顔のドローイングや、先天的または病気で顔が変形している人のドローイングも多く描いている。

頭部のプロポーションの研究
2つの解剖学研究

<参考図書>

ルネサンス期における科学と芸術の関係

 ルネサンス期は芸術と科学は相反するものではなく、一方が他方に情報を与えるものであると考えられていた



科学者としてのレオナルド

腕の動きに関する研究



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2-2.バッハと対位法の美学1(前)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

ヨハン・ゼバスティアン・バッハから学ぶ 実践的対位法

・対位法:複数の旋律を、それぞれの独立性を保ちつつ、互いによく調和させて重ね合わせる技法である。(wikipedia)
対位法は、教会旋法の音楽から現在私たちが日常的に耳にするような長調・短調の音楽、さらには現代の無調性的な音楽においても使われてきている。当然、その技法は時代によって変化している部分がある。

  • 教会旋法による音楽の対位法(厳格対位法)

  • 長調・短調による音楽の対位法(器楽的対位法)

  • 現代の音楽における対位法

・対旋律とは主旋律と対をなすメロディで、対位法は一定の旋律に他の旋律を結びつける手法です。

【対旋律】

  • 主旋律と対をなすメロディ

  • メロウで華やかなアレンジに適している

  • 歌モノのストリングスアレンジにおいては必須のテクニック

【対位法】

  • 一定の旋律に他の旋律を結びつける手法

  • 対位法で書かれた多声音楽を「ポリフォニー」という

  • ラテン語の「点(音符)対点(音符)」を意味する「punctus contra punctum」に由来する語

  • 各音符に対して、もう一つ音を当てていく技術を「点対点」(point counter point)と呼ぶようになり、これが「対位法」(Counterpoint)となった

シンフォニア第9番

半音階的な性格をもった3つの主題からなり、転回対位法を用いて作曲されています。修辞的な音型も多く使われており、受難曲などを想起させるような曲です。曲全体の枠組みに関わる調性から一フレーズに至るまで、多くの部分に宗教的な意味が込められています。

第9番のテーマは「嘆き」や「絶望」です。バッハはこの曲で、宗教作品で出会う深刻な情念の表現の典型を、創意工夫に富む手法で展開させています。古典修辞学では、弁論を行う際には「発想(inventio)」、「配置(dispositio)」、「 措辞 (彫琢)(elocutio / decoratio)」、「記憶(memoria)」、「実行(actio)」という5つの能力が必要とされ、18世紀にはヨハン・マッテゾンを始めとする音楽家によって、この枠組みが音楽にも適用されました。このうち、「措辞(彫琢)」には、慣習に適合したジャンルや機会(場を意味するロキ・トピキ loci topici、あるいはトポス)を選ぶことも含まれます。たとえば、教会音楽では対位法的な厳格様式を用い、オペラではいっそう表出的で劇的な様式を用います。場違いな音楽を書かないように、作曲家はジャンルや書法、調を選ぶ必要があるというわけです。

第9番では、対位法的な書法とヘ短調という調が選択されています。17世紀末以来の調性格論では、ヘ短調は深い悲しみと結びつけられてきました。マッテゾン自身、「深く、重々しく、何かしら絶望に関係する、死ぬほどの心の底からの不安」※1を表す調として説明しています。つまり、バッハが対位法的書法とヘ短調を選択した段階で、宗教的な絶望や深い悲しみという情念が主題となることが想定されていたはずです。 この種の情念に対応するのは下行音階(カタバシス)や、息を切らしたように短い休符で区切られる旋律(ススピラツィオ)などです。

楽曲の基本的な性格は主題を構成するすべての動機に表れています。主題を見てみましょう。主題には2つの対主題が設定されています。

冒頭の中声部が主題、下声が対主題1、第3小節の下声が対主題2です。中声部の主題は、八分音符で区切られた典型的なススピラツィオです。主題を成す断片的な動機には半音が含まれ、とくに第2小節ではB-Eという増4度(トリトヌス)の跳躍も見られ、悲痛な情念が強調されます。下声部の対主題1は半音階で下行するいわゆるラメント・バスですが、この後すべてのパートに現れるので常にバスとして機能するわけではありません。
このような半音階的な下行ないし上行はパッスス・ドゥリウスクルス passus duriusculus(いくぶん硬い歩み、の意。「硬さ」は「辛さ」にも通じる)と呼ばれます。完全4度を半音階で下行する音階は、カンタータ第12番《泣き、歎き、憂い、怯え》BWV12の冒頭合唱のバスでも使用されています(この曲は、後に《ロ短調ミサ曲》の「十字架に」に転用されます)。
第3小節の下声には32分音符を含む細かいリズムの対主題2が現れます。この音型のF-As-Fis-Gを結ぶと、十字が浮かび上がります。バッハ作品の主題にしばしば現れる十字架の音型で、この楽曲の宗教音楽としてのトポス性を補強しています。
主題と2つの対主題は、さまざまな組み合わせで現れます。主題をa、対主題1をb、対主題2をcとすると、声部(上中下声部)の組み合わせは、abc, bac, bca, cab, cabで、acb以外の5通りの組み合わせで現れています。また、形式図の経過句のCとC’(第15-26, 28-29小節)では、aのモチーフが上声・下声で半拍遅れのストレッタを形成し、歎きの声がこだまします。中声部の4分音符は、このモチーフを2倍に拡大し反行形にして配置されています(3度上行→2度下行が2度下行→3度上行になっています)。第9番は、絶望的な情念の表出を主題としながらも、バッハらしい冷静で緻密な計算の上に成り立っていることがよくわかります。

生誕~リューネブルク時代 (1685年-1702年)

アイゼナハ - 聖ゲオルク教会

1685年3月31日、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下、「バッハ」とする)は、アイゼナハの町楽師及び宮廷音楽家であったヨハン・アンブロジウス・バッハの8人兄弟の末子として生まれた。アイゼナハ周辺の中部ドイツには、音楽一家であったバッハ一族80余名が生活しており、同姓同名の者も数多くいるため、そのことはバッハ史研究の難易度を上げている。

生誕日二日後に、幼児洗礼が聖ゲオルク教会(ドイツ語版)で行われ、ゴータの町楽師セバスティアン・ナーゲルと、アイゼナハの森林官ヨハン・ゲオルク・コッホが代父を務めた。1692年(7歳) に、この教会に付属したラテン語学校に入学している。幼少時のバッハがどのように育ったか詳しいことは分かっていないが、恐らく父アンブロジウスの指導のもと楽器を演奏し始め、同教会に務めていた父の従兄ヨハン・クリストフ・バッハ (1642-1703) のオルガン演奏も聴いていたと思われる。

1694年5月(9歳)には母エリザベートが亡くなり、父は同年11月に再婚したものの、翌年の1695年2月に父も他界した。その後、バッハは兄ヨハン・ヤーコプ (1682-1722) と共にオーアドルフの教会オルガニストを務めていた兄ヨハン・クリストフ (1671-1721) の家に引き取られて勉学に励み、クラヴィーア演奏の基礎もここで学んだ。
幼少期のバッハの音楽に対する情熱を伝える有名な逸話がある。パッヘルベルの弟子でもあった兄ヨハン・クリストフは、フローベルガーやケルルといった南ドイツの作曲家の楽譜を所有していたが、それをバッハには決して見せなかった。それを見たかったバッハは、夜な夜な月明りの下で半年もかけて写譜したが、最終的にこの写譜した曲集の存在を兄に知られてしまい没収されてしまう、というものである。

聖ミカエル教会

1700年にはオーアドルフの学校を退学して、同年3月15日に親友のゲオルク・エルトマン (1682-1736) と共にリューネブルクに移る。そこで、聖ミカエル教会付属の学校の給費生となり、ボーイ・ソプラノとして「朝課合唱隊」の聖歌隊員に採用される。この15名から構成された合唱団への入団には、高い音楽的能力が必要とされ、遠くのテューリンゲンやザクセンからも応募が来るほど入団が難しかったが、バッハは自身の優れた音楽的能力によって難なく合格したと思われる。入団当時バッハは既に15歳だったため入団からまもなく変声期を迎え、ボーイ・ソプラノとして歌うことは出来なくなったが、ヴァイオリン・ヴィオラや通奏低音の楽器の演奏をすることで楽団の中で活躍していた。

リューネブルク時代のバッハは、北ドイツでの音楽生活を満喫し、その音楽を吸収していった。同じリューネブルクの聖ヨハネ教会には、ゲオルク・ベームがオルガニストとして活躍しており、バッハは彼に敬意を払っていたとされる。リューネブルクから少し離れたハンブルクには、従兄のヨハン・エルンスト・バッハ (1683-1739) が、同じくハンブルクの聖カタリナ教会にはラインケンがおり、更には鵞鳥市場のオペラ劇場では、カイザーのオペラが度々上演されていた。バッハが、どこまで聴いていたかは定かでないが、彼らの音楽を聴き自身の音楽の糧にしていったと思われる[8]。

また、バッハはリューネブルクから少し南に位置するツェレにもしばしば赴き、そこの宮廷楽団の演奏を聴いていた。当時のツェレ宮廷は、楽団員がほぼフランス人で構成され、楽譜もフランスからの直輸入に頼るなどフランス文化が色濃く反映されており、これはツェレの領主ゲオルク・ヴィルヘルム公が若い頃にフランスを度々訪問したことや、公妃エレオノールがフランスの貴族出であることも関係している。当時貧乏な学生であったバッハが宮廷楽団に出入りするのは本来困難なはずだったが、リューネブルクの騎士学院で舞踏教師を務め、ツェレ宮廷楽団の楽師も兼任していたトーマ・ド・ラ・セルという人物の紹介により、宮廷楽団の演奏を聴くことができたとされている。

ミカエル学校には最上級の生徒として入学していたため、おそらく1702年の復活祭の前には卒業していたと思われている。金銭的な余裕もなく大学へ進学しなかったバッハは、1702年8月にゴットフリート・クリストフ・グレーフェンハインの後任として募集していたハレ近郊のザンゲルハウゼン(英語版)のオルガニストに応募した。バッハは、そこで優秀な成績は残したものの、採用されることはなかった。

アルンシュタット - バッハ教会

アルンシュタット~ミュールハウゼン時代 (1703年-1708年)
バッハはその後、1703年3月から9月までの半年間、ヴァイマル公ヴィルヘルム・エルンストの弟である、ヨハン・エルンスト公の小さな宮廷楽団に就職した。バッハはヴァイオリンを担当したが、ヨハン・エフラーの代役でオルガン演奏もこなした。

同年6月、アルンシュタットの新教会 (現在はバッハ教会(英語版)と呼ばれる) に新しいオルガンが設置される。その試奏者に選ばれたバッハは優れた演奏を披露し、そのまま8月9日には同教会のオルガニストの地位を提示され、8月14日には契約が交された。教会での仕事は、日曜と木曜の朝の礼拝で二時間ずつ、そして月曜日の臨時礼拝にコラールの伴奏をすることに加え、カントルの代わりに少年聖歌隊の指導を行うことだった 。この聖歌隊がらみで、ある事件が発生する。1705年8月4日、バッハは聖歌隊員であるガイエルスバッハに顔を殴られ、またバッハ自身も剣を抜いて応戦しようしたというものである。これは、バッハが、ガイエルスバッハのファゴットを「山羊のファゴット」と嘲笑したのが原因であった。この騒動を収めるため、聖職会議はバッハにコラール伴奏に加え、カンタータ等の演奏をすることも要求したが、バッハは最終的にこれを拒否した。

1704年頃には、兄ヨハン・ヤーコプのために書かれた『カプリッチョ 変ロ長調「最愛なる兄の旅立ちに寄せて」』や、もう一人の兄ヨハン・クリストフのために書かれた『カプリッチョ ホ長調「ヨハン・クリストフを讃えて」』等の作品がある。

ブクステフーデ

1705年10月18日頃、バッハは4週間の休暇を要求し、リューベックに出掛けた。アルンシュタットからリューベックまでの約400kmを徒歩で向かったと言われる。当地の聖母マリア教会(英語版)のオルガニストは北ドイツ楽派のブクステフーデが務めており、彼が催した「夕べの音楽」という教会音楽会を聴き、多くを学んだと思われる。そして、ブクステフーデの半音階や不協和音の積極的な使用、大胆な転調を用いた演奏は、たちまちバッハを魅了した。当時68歳と高齢だったブクステフーデもバッハの才能を買い、自分の娘マリア・マルグレータとの結婚を条件に後継者になるよう持ちかけた。聖母マリア教会のオルガニストの地位は若いバッハにとって破格であったが、彼はブクステフーデの申し出を辞退した。マルグレータはバッハより10歳も年上の約30歳であり、2年前にもゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルとヨハン・マッテゾンが付帯条件を聞いて後任を辞退している。

バッハがアルンシュタットに戻ったのは1706年2月7日直前で、元々提出していた4週間の休暇に対し、3か月以上も留守にしていた。オルガン演奏の代役は従弟のヨハン・エルンスト・バッハに頼んでいたが、聖職会議は彼を叱責した。1706年2月21日に、聖職会議は、ブクステフーデから受けた影響であろう「耳慣れない」前衛的な音楽を演奏することや、休暇の無断延長、聖歌隊に対する指導の不備を非難した。その後の11月11日の聖職会議では、合唱隊の中に「見知らぬ婦人」を教会内に招き入れて歌わせたということも糾弾された。この娘は後に最初の妻となる遠戚でひとつ歳上のマリア・バルバラであったとも考えられる。

こうして、聖職会議や教会との軋轢が深まる中、バッハは新天地を求めた。1706年12月、帝国自由都市ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガニストであったヨハン・ゲオルク・アーレ (1651-1706) が死去し、後任の募集が行われ、バッハは1707年4月24日の復活祭の日に試験演奏を行った。おそらくカンタータ『キリストは死の絆につきたまえり』を演奏したとされる。ミュールハウゼンはマリア・バルバラの親戚が市参事会員であった縁もあり、バッハは応募し合格した。同年5月15日には、聖ブラジウス教会との契約が交わされ、6月29日にはアルンシュタットを去り、ミュールハウゼンに移り住んだ。その報酬はアルンシュタット時代とさほど変わらないが、いくぶんか条件は良かった。同じく1707年にバッハはマリア・バルバラと結婚し、10月7日にアルンシュタット近くの村ドルンハイムで、ローレンツ・シュタウバー牧師のもと、結婚式をとり行った。2人の間に生まれた7人の子供のうち、フリーデマンとエマヌエルは高名な音楽家になった。

バッハの生活は決して楽なものではなく、常に良い条件の職場を探し求めていた。生活の足しにするために、短い曲を作曲してはそれを1曲3ターラー程度で売るという事もしていた。その一方で、契約した先々で様々な些細なトラブルも起こしていた。あるときは5つの仕事を同時に引き受けていたが、5つのうち4つでトラブルを抱えていた。

ミュールハウゼン時代の作品として、『神はいにしえよりわが王なり』などの大規模なカンタータが挙げられる。

作品

ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、幅広いジャンルにわたって作曲を行い、オペラ以外のあらゆる曲種を手がけた。その様式は、通奏低音による和声の充填を基礎とした対位法的音楽という、バロック音楽に共通して見られるものであるが、特に対位法的要素を重んじる傾向は強く、当時までに存在した音楽語法を集大成し、さらにそれを極限まで洗練進化させたものである。したがって、バロック時代以前に主流であった対位法的なポリフォニー音楽と古典派時代以降主流となった和声的なホモフォニー音楽という2つの音楽スタイルにまたがり、結果的には音楽史上の大きな分水嶺のような存在となっている。

バッハはドイツを離れたことこそなかったが、勉強熱心であらゆる伝統の幅広い音楽を吸収した。フランドル楽派の声楽ポリフォニー、ジョヴァンニ・ガブリエリからヴィヴァルディに至るまでのヴェネツィア風の協奏曲様式、バロック音楽の基本である通奏低音と独唱によるモノディーの原理、フランス風序曲やイタリア協奏曲等の各国の諸形式、組曲や変奏曲といった様々な様式を自身の音楽に反映した。更には、オルガニストのブクステフーデやラインケン、ヴァイオリン奏者のピゼンデル、フルート奏者のビュファルダン、リュート奏者のヴァイスといった同世代の音楽家たちからの影響を受けて、バッハの楽曲は誕生した。 とりわけ、古典派のソナタにも比すべき論理性と音楽性を持つフーガの巨匠として名高い。



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これまでの<参考図書のご紹介1>

アインシュタインとモーツァルト

集中力を高めるモーツァルト名曲集・Mozart Famous Collection Raises Your Concentration(長時間作業用クラシックBGM)


モーツァルトの生涯・功績・エピソード
< 
https://okabem.com/essay/4_Mozarts_secret.pdf から引用>

くたびれて 宿借るころや 藤の花  (芭蕉)


モーツァルト 新装: その人間と作品

KV1.「モーツァルトは数学を愛した」から





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<参考図書のご紹介2>

─死とは……、モーツァルトを聴けなくなることです。
 出典は不明だが、ある人の「死とはどんなものだとお考えですか?」という問いに対するアインシュタインの答えとして伝えられている言葉である。



【参考図書】GALAXY-QubitGrace-Bible

【English Version】

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