Dive(7)【創作】
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【7話 分断、帰る理由と篠笛の音色】
「ね、ちょっと一服してきていい?」
良明は私から離れていった。カチッと音がしてライターの小さな灯りが顔の前に灯る。ざざぁざざぁと波音が聴こえ、風が砂浜を通り抜けていく。耳も肌もやさしくなでられるようで心地よい。私たちは話しながら海岸に辿り着いた。海水浴で何度も訪れた海岸だ。防波堤のある港から見る海と、砂浜の海辺から眺める海の風景は、似ているようで全然違う。
水面が沖から立ち上がり、こちらへ走ってくる。そのたびにきらきらと光は揺れて分散し、幾千もの光の粒が現れては一瞬で消え、瞬く。遠くではそそり立った波が消波ブロックにぶつかり、砕け散り跳ね返っている。砂浜までやってきた水流はちゃぷんと音を立てて、打ち寄せては返っていく。陸と海の境界線。
砂浜はまた「あわい」の場だ。かき回されて、混ざる。そして重力によって境界線が刻一刻と変わる。反復運動のように思えて、一瞬たりとも同じではない。人生もまさにそうなのではないか。同じラインを描いているようで、同じ日はない。昨日の私はもうここにはいない。明日の私も今は体験できない。動的平衡。今「ここ」に生きていることを、海を見ていると思う。少しずつ削られ、そして知らぬ間に積み重なる。そしてそれを眺める「月」もまた動き続けている。
胸壁に腰かけて海を眺めていると、良明が戻ってきた。私に向けてにかっとはにかみ、横隣に座り込んだ。そして、遠くを見つめるようにして話し始めた。
「俺が住んでいたのはボストンっていう街だった。アジアンや日本人のコミュニティもあったし、NYへのアクセスも良好、都会だけど自然もあるいいところなんだ。牡蠣が有名でさ、日本の牡蠣より少し小さいけど、牡蠣を取り扱うシーフードレストランやマーケットもたくさんあった。最初は大変だった。英語も自信なかったし、知り合いだっていなかった。それでも、まぁ……京子さんは知っていたと思うけど、俺は若い頃、この村から一刻も早く出ていきたかった」
閉鎖的でよそ者を受け付けない価値観。お互いに過干渉で密な付き合いを強いられること。娯楽や刺激の少なさ。職業選択肢の狭さ。利便性の悪さ。
排他的で、新しい考えを受け入れない、多様性とは縁遠い場所。
「なんか、無理だなって思っちゃって。すごく窮屈だなって。未来が見えるというか……釣り宿屋を継いだら、親父とおふくろと毎日顔合わせてさ。同級生と酒飲んでさ、適当に結婚して……みたいな。俺はそれは、当時は嫌だなって思ったんだよね。サクにも話したことがあるんだ。ちょうどあいつが漁業組合への就職が決まったころかな。そしたらさ、なんて言ったと思う?」
良明は砂の上の貝を拾って、手の上で転がしながらつぶやくように言った。
「『普通や当たり前が、一番難しいんだ』って」
「桜井くん、そんなこと言ったんだ……」
「あいつの言ってること。今ならわかるような気もする。けれども当時の俺はとにかく刺激を欲していたから『何だよ~サクはつまんないこと言うな。俺は俺の道を行くんだ!』って息巻いてさ。今思うと俺も若かったんだよな。恥ずかしいな」
良明は貝を耳に当てる。目を瞑って耳を澄ましているようだ。穏やかな表情を見せる。
「仕事も交流も自分なりに頑張って取り組んだ。たくさんの人の手助けもあった。それが今の生活に繋がっていると思う。俺はね、あっちに行ったらここよりもっと自由になれると思ってた。でも違うんだ、違う壁がたくさんある。世界のどこにいっても俺たちは分断されてしまうんだ」
会話はできる。が、気持ちは通じない。同じことばを使っても微妙に意味するところが違う。多様な人種が混在しているということは、それだけ文化が違う、歴史が違う、宗教が違う、性的志向が違う、道徳観が違う、価値観が違う人たちがひしめき合っていることを意味する。
外国に行くと自分がより「日本人」であることを嫌でも突き付けられる。お前は「日本人」なんだなという目で見られる。そして、人種差別をされていることに気づく。様々な生まれや見た目の人たちが人種差別をし合っている場面に気づく。そして一番こわいのは自分自身が知らず知らずに人種差別をしていること。見えない壁がたくさんあって、暴力があって、傷つくことがたくさんあった。
「京子さん、俺ね、もちろん親父のこと、おふくろのこと、亜子のこと、心配だから帰ってきたいって気持ちはもちろんなかったわけじゃない。でもさ」
ふふっと笑って良明は立ち上がった。長い髪が風で揺れる。
「好きな人にふられた」
「え?」
「こういう話するのはじめてだよね。かっこわる」
良明は頭をかきながら、照れた表情を見せた。
「もちろん親父にも言ってない。長年、付き合ってた彼女と別れた。彼女はミシェル。台湾系の二世。弁護士をしててね、もちろん頭がいいんだけど、それよりも、彼女の生きるエネルギーや思想に非常に刺激を受けた。見た目も好きなんだ。長い黒髪が美しくて、吸い込まれるような瞳で穏やかに俺を見つめられると、全てが融けるような感じがした。あぁ、生きていていいんだ。もう少し頑張ろうって心から思えた」
「……」
私は無言でうなづきながら、良明の次のことばを待った。
「彼女の出生はアメリカで、母親は台湾人。台湾は複雑な国なんだ。俺は無知だった。俺の『普通』が彼女を傷つける。俺は台湾の歴史も文化もアイデンティティも何もかも知らなかった。彼女は根気強く俺に伝えてくれた。中国は台湾を統一したい、けれども台湾人は独立に向けてずっと戦っている。他にも人権のこと、差別のこと、ジェンダーのこと、たくさん教えてくれたんだけど、やっぱり埋められない壁のようなものがあって、そのうち生活がすれ違うようになって……。俺は同時に日本のことを考えてた。俺は日本のことを何一つ知らない。知らないまんま嫌だって飛び出してきちゃって。その時、この村の海のことを思い出した」
良明は砂浜を歩きだす。空を眺めている。少し間を置いて、話し始めた。
「『壁』はどこにでもある。どこに行っても自由なんてそんなに簡単に手に入れられるものじゃない。壁のこちらと向こうがお互いにお互いを自由にするんだ。お互いに壁をよじ上って相手を知ること、対話すること。そう考えた時に、もっとここの人たちと話をしなきゃって思ったんだよね。でもさー今日の飲み会に行って思ったんだけど、やっぱりみんないい意味でも悪い意味でも全く変わってないんだ。サクが言ってた。会えば女かギャンブルの話。ここは娯楽も何にもないから仕方ないっしょって。まぁそれが今の俺にはかえって心地よいというか、なんというか。さっきの加藤の質問の返事には困ったけども…… 。『いい女いっぱい抱いてきたぜ!』とかって明るく返した方が良かったのかな。全然そんなんじゃないんだけどな。どっちにしてもかっこ悪いな、俺。男同士も嫉妬もプライドもあるんだろうなって、肌で感じるよ」
「話してくれてありがとう」
私は胸壁から立ち上がる。風が私と良明と砂の間を吹き抜けていった。潮の香りがする。変わらぬ昔からの海の匂い。
「サクと話した。海苔が取れないんでしょ。暖冬もあるし、海そのものが変わってしまった。海苔の代わりに牡蠣はどうかなって言ったんだ。俺の知識が役に立たないかなって。釣り宿屋は親父が続けたいんだろうから、続けていいと思う。親父はあれが生きがいなんだ。まだ俺が奪っちゃいけない。親父がどうにかなったら、考えることにする。ミシェルのことは内緒にしといて。何となく親父は日本人以外は受け入れ難いような気がしているから。まぁもう結婚する可能性も限りなく0に近いけど……酔っていたから、話しすぎたな、京子さんごめん。もう帰ろう」
背中に月光を浴びながら、砂浜を後にする。光は近いと光と認識できないと、誰かが言っていたことばを思いだした。光だけだと光は見えない。影があって、違う光があって、物体があって、初めて「明るい」「まばゆい」と思うのだと。良明は様々な光と影にふれてきたのだと思った。だからこそ、今ここで放っている光がある。足元を見る。暗闇で影は認識できない。私は私の光と影を今一度見つめたいと、潮騒を聞きながら思った。
※
咲が良明と話している。
「なんか相変わらずね~そのあんたの雰囲気。ちゃらちゃらしちゃって。年取らないの?私は日に日に老いていくばかり。もうすぐ五十よ、いやんなっちゃう」
「俺だって年取ってんだよ。ほら白髪も増えてきただろ?生え際とかやべーよ」
良明が咲に近づいて髪をかき分けながら自身の生え際を笑顔で見せつけている。咲は「ほんとだ、よっちゃんもおっさん化してる!超ウケる」とけらけら笑いだす。昔からこの二人は、こうやってお互いをからかいあいながら過ごしてきた。大きくなってもその雰囲気は変わらない。
「さ、やりますか」
和室で良明は畳に座布団を敷いて正座をした。私は横に椅子を置いて姿勢を正す。
障子窓からやわらかい日が差している。お線香の匂いが漂ってくる。シンと静まりかえっている静寂がぴたっと身体に馴染む。
私は横笛を構えた。良明も同時に横笛を構える。
息を大きく吸う。
最初は軽快な太鼓の音から始まる。「せーの」で二人とも音を出した。「狐」の踊りの太鼓囃子はリズミカルな音の繰り返しがメインになる。横笛が高いメロディを奏でる。スピード感がある旋律が続く。高い音は音がかすれやすいので難易度が高いが、良明も私の音色にきちんとついてきている。日々の練習の成果が発揮されていた。
久しぶりの演奏に息切れしそうだ。随分と自分の肺活量が衰えていることを自覚する。横にいる良明は息も切れずに姿勢をピンと伸ばしたまま、張りのいい音色を奏でていた。集中している。
そのあとの「おかめ」は低い音でゆったりとしたテンポになる。長く音を出し続けるのも難しい。音がぶれないように、息を調節しながら吹き続けるのは至難の技だ。最後の「ひょっとこ」はまた軽快なリズムで風のように軽やかな演奏が求められる。一気に駆け抜けた。二つの音が重なって気持ち良い。
ぴたっと音色が止まった。
全ての演奏が終わった。
ふぅと息を吐く。拍手が聞こえた。咲が手を叩いてこちらを見つめている。
「お母さん、すごい!久しぶりに聞いた。まだまだできるじゃん」
「お前!俺のこと完全無視かよ!」
良明が咲にすかさずツッコミを入れる。ははははと大口を開けて笑っている。「何よーあんたはどうせなんでもできるのよ、昔からでしょ、その感じ。むしろ腹立つわ」と咲も勢いよく言い返す。
「でも、確かに京子さん、すごく良かった。やっぱり長年吹いてきた人には敵わないわ。一緒に吹いてくれてありがとう」
「いや、私はもう息が続かないわ。ところどころごまかしごまかしよ。よっちゃん、よくここまで練習したね。今年の夏が楽しみだわ」
三人で笑い合う。庭では紫陽花が咲いている。夫の命日が近づいてきていた。祭礼の準備も着々と進んでいた。良明も積極的に近所の若い衆に混じって準備に取り組んでいた。
今日はもう一つ、大事なイベントがあった。
私はある施設に車で向かっていた。妹の陽子に会いに行くためだ。咲は「私も行けなくてごめん。おばちゃんによろしくね」とお土産のとらやの羊羹を私に渡してくれた。夏が近づくと爽やかな緑と青のパッケージになる。オレンジ色と白の入道雲が青い空に伸びている風景が箱に描かれていた。私は彼女が好きなハイビスカス柄のタオルを鞄に入れた。雑貨屋さんで買ってきたと、先日さくらが手渡してくれたのだ。
施設は山間にそびえたっていた。緑の木々に囲まれて、海とは違った空気を感じる。
華さんから聞いた夫のこと。陽子に直接聞いてみようと思っていた。私はここに来る前に図書館で調べ物をした。それは、夫が亡くなった日の天気。天気は「曇天」であった。あの日の夜から明け方、早朝にかけて、少し小雨が降っていた。小雨が止んでから曇り空ではあったが夫は漁に出た。
"明日、晴れていたらあちらにいきます。今までありがとう"
船に残っていたメモ書きについて、私はずっと考えていた。あちらとは何をさすのか。あちらは「あの世」のことだとしたら、夫は自らの命を自分で絶った可能性もある。
けれども......天気は晴れではなかった。そして、メモ書きの字。夫の字体とよく見ると違っている。彼が残した文章を机から引っ張り出して、メモ書きと見比べてみる。夫は「き」の字をカーブのところは繋げて書く癖がある。メモ書きの字は「き」がカーブを描かずに、上と下で離れている。
これは、夫が残したものではないと、私は確信があった。
陽子が何か手がかりになるようなことを覚えているのか、話せるのか。
廊下の足元の影を見つめる。コツコツと私たちの足音が、時を刻む音のように、長い廊下に静かに響き渡っていた。
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