Dive(8)【創作】
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【8話 Diveと僕の一番】
妹は、夏のひまわりのような人だった。
大きな瞳で、白くきめ細かい肌を持ち、優美に笑う姿は、どんな世代でも性別でもかまわず人々を魅了した。姿勢良くまっすぐにすくっと立った姿は、地植えのひまわりのようだった。
ひまわりは、絵画のモチーフにも多く取り上げられているが、ゴッホやマティスのものよりも、彼女はクリムトの絵のイメージだ。きらびやかな風景の前で、ドレスを纏うように雅やかな葉を装っている。人目を惹くような魅力があった。
太陽を目指して咲くように、彼女は賑わいがある場所を察知して交流し、いつでも人の中心に存在していた。私は彼女の歌声が好きだった。童謡でも歌謡曲でもフラソングでも、伸びやかに響かせる高い声を聞くと、心が夏の空に出会ったような晴れやかな気持ちになって、すっきりと澄み渡る心地になった。
しおさい苑は三階建ての茶色い建物で、まわりは木々に囲まれ、敷地内には小さな池がある。蓮の浮葉が水面に張り付くように浮かび、池のまわりには花菖蒲が鮮やかに並んで咲いていた。その横には夏椿も白く控えめに花開いている。
駐車場から庭園を経て、玄関に入るとセキュリティのためにもう一枚自動ドアがあり、事務員さんが開放しないと開かないシステムになっている。玄関には、大きな胡蝶蘭と木彫りの犬鷲が目につく。受付と検温を済ませて中に入れてもらう。
厨房が近いためか、お味噌汁の匂いや揚げ物のいい匂いが漂ってきた。エレベーターに乗り込み三階ボタンを押した。
ここに来るのも随分と慣れてしまった自分に気づく。施設内の案内図を見なくとも彼女の部屋まで辿り着くことができる。
施設の廊下の一番奥が陽子の居室だった。廊下は白い床面で前方に伸びている。両隣に居室が並んでいて、ネームプレートに入居者の名前が記されていた。
時々、ネームプレートに花紙で作ったお花が飾られていたり、かわいいシールが貼ってある。認知症で、自分の部屋がわからなくなってしまう人がいるので目印として飾ってあると、以前、職員さんから説明があった。無機質な廊下を眺めていると、それもやむをえないのではないかと思う。
部屋につくと、居室には誰もいなかった。来た道を戻ってきて奥にあるフロアを眺めると、陽子はそこにいた。まわりに他の利用者や職員がいて、一緒にレクリエーションに参加していた。
「陽子」と声をかける。彼女はこちらを見たが声は出さない。職員さんに話して、車椅子を良明に押してもらい、彼女の居室へと向かった。
「おふくろ、久しぶり」
良明がかがんで陽子に話しかける。陽子はきょとんとした表情をして、良明を見つめていた。しばらく無言で見つめ合う二人。良明は立ち上がって
「俺、時間つぶしてくるから......京子さんお話したいことあるでしょ?ごゆっくり」と言い、部屋から出て行った。
再びシンと静まり返る。私は、陽子の隣に椅子を持ってきて、腰掛けた。部屋にはベッドとタンスと洗面台があった。全ては整えられていて、清潔感あふれる空間だった。窓の外は緑の木の葉が生い茂ってまぶしい光を遮った。木漏れ日がカーテン越しに床に落ちて、さわさわと風が入ってくる。私は陽子の手を取って撫でた。
おそらく「オフ」の時間なのだろう。パーキンソン病は、オンとオフの時間がある。体が動きやすい時間と動きにくい時間が交互にやってくる。オンの時間は少し声も出せるようだが、オフになってしまうと、彼女は壊れてしまった人形のように、筋肉もこわばってぎくしゃくとぎこちない動きとなり、目もややうつろになる。
私はかまわず彼女に話しかける。
「よっちゃんがね、こっちに戻ってくるかもだって。そしたら茂さんもあなたも安心するわね。亜子ちゃんもきっとそうだわ。家族四人が揃うわね」
「外は暑くなってきて湿度が高いの。少しずつ紫陽花が蕾を膨らませて咲いている。みんな今年も海苔が取れなかったって言ってる。今年の冬は特に暖冬だったからね」
「紅屋は茂さんが無理せずぼちぼちやってるわ。お客さんは昔からの常連さんばかりだけども、皆忘れないでいてくれるのね。船頭さんが一人体調を崩しておやすみしてる。浜の船頭さんは、昔は全員で三十人くらいいたのに、今はたった五人しかいない。みんな歳を取ったり、地元から出ていってしまった。さみしいものね」
陽子は語りかける私を見つめていた。彼女の手は随分と皺が増えて細くなったな、と手を重ねて感じた。重ねる私の手も皺が多く血管が浮き出て見えた。しわしわの手と手。
私は少し間を置いて、静かに訊ねた。
「辰之助さんのこと、聞きたいの」
「若い女の子と......歩いていた時があった......?」
陽子は答えない。どこか一点を見つめたまま息を吸ったり吐いたりしてる。
こうなると予測していたので、私は話を続けた。
「じゃあ、今日は昔話をするね。陽子には話したことのない話だよ」
窓から風がまた吹いてきた。風は陽子の髪の毛を撫でるように通り抜けていった。彼女も私も随分と白髪になった。今から話すのはお互いに黒髪だった頃の話。
※
半世紀も前に遡る。仲人がついて、私は嫁ぐことになった。縁談を聞いた時、内心、ほっとしたような気持ちと、これからの生活への不安とが入り交じった気持ちが、半々であった。
戦後まもなく生まれた私は、実の母親を肺の病気で早く亡くした。しかし、父は後妻をすぐに迎え入れ、妹の陽子を出産。私は祖父母や後妻の元で、陽子と共に育てられた。
私たちの家は先祖代々農家の家系だった。田や畑を所有し、家族総出で農業に勤しんだ。私は幼い陽子の面倒を見ながら、同時に学業や家業に励んだ。
明らかに大きな違いではないが、ほんのちょっと……小さじ一杯分くらいのさじ加減ではあるが、後妻は私への態度と陽子への態度に差をつけることがあった。もちろん、育児放棄されたとか、暴力を受けたとか、そういうことではない。例えば、与える物の量や質が違ったり、コミュニケーションや愛情表現の違いがあったりといったところだ。幼い私はそれを認めたくなくて、おそらくあえて見ないようにしていた。けれども、自身が大人になってみて「あぁ、そりゃ実子とそうでない子は差が出てしまうわよね」と理解もできるようになって、あの頃私が感じていたのは「孤独」だったのだろうなぁと今なら思える。
「だから随分とあなたに嫉妬したのよ、あなたを憎たらしいと思うことも正直あった」と陽子に告げる。陽子はやはり表情一つ変えずに無反応である。話を続ける。
私はある漁師の一家に嫁ぐことに決まった。
正直、漁師という職業を毛嫌いしていた当時の私は、心中穏やかではなかった。その頃の私は、家業と、魚八という料亭の厨房で、調理の手伝いと配膳係として働く毎日を過ごしていた。この魚八で学んだ事や得た技術はたくさんあった。料理の基本的な知識や技は、板前さんがやっていることを目で盗んだ。そしてスタッフも気立ての良い人たちで、働きやすい環境であった。唯一不満を挙げるとしたら、土地柄もあって、客は漁師連中が多かった。そこで出会った漁師の印象が最悪だった。
まず、声が大きい。なまりも多い。ずけずけと物を言うし、態度も大きい。筋肉質で見た目もいかつくてこわい。酒が大好きで酔っぱらうと絡んでくる。「よう!ねえちゃん!」と平気で肩を抱いてきたりするので、私は酔っ払いの対応にかなり難儀した。
漁師そのものへの嫌悪感と、今まで農家の子として生きてきた私に、嫁ぎ先の家業である漁業が務まるのかといった不安が大きくのしかかる。
「辰之助さんとは親も交えて顔を合わせて……彼は寡黙な人であまり口数も多くなかったから、正直その時はどのような人なのかよくわからなかったのよね」
一度顔を合わせてから、魚八での仕事中や、店への行き帰りでたまたま辰之助さんの姿を見かけることがあった。様子を伺っていると、彼は他の漁師連中と違って、静かで控えめな性格で、彼が持っている独特の空気感がこちらにも伝わってきた。
そして植物や動物を見るとほっておけないようであった。季節に合わせて料亭に飾ってある花に気づいてじっと眺めたり、道端にいる野良猫を見かけて餌を上げたり、猫を拾って帰る事もあった。
私は少しずつ辰之助さんと会う機会を作った。彼は私が漁師や海の仕事への不安があることを見抜いているようだった。その日は仕事上がりの辰之助さんと待ち合わせをして、海辺を散歩していた。
「京子さん」
「なんですか?」
「海はこわいですか?」
「海は死人が出ますし、飲み込まれるような大きさに圧倒されます。私は農家でひたすら田んぼを見て育ったので、海とまだあまり仲良くなれないのです。泳ぎも自信がないし」
砂浜を横並びで歩く。辰之助さんは流れてきた小枝を拾って、砂浜を点検するように枝先を向けていた。
「今日は宝物を探しましょう」
「宝物?」
「このようにうちあげられたものが転がっています」
枝の先にはヒトデがぺたんとひからびて転がっていた。
「こういうちょっと変わったものが、落っこちています。それを探すだけです」
「へ?は、はい、変わったもの……」
「はい、いきますよ、よーいどん」
言うが早いか、辰之助さんは、私から離れて真剣に砂浜を点検し出した。私もよくわからないまま、砂浜を眺め始める。
眺めてみると、砂浜にはたくさん変わったものが落ちていた。大きくてつやっとしたきれいな貝殻、しましま柄の貝殻、ごつごつした貝殻、ガラスの断片が削れて石のようにきらきらしているシーグラス、美しい小石、流木、巻貝、亀の手、ひからびたイカ。私は砂浜を歩くのに気づけば子供の様に夢中になっていた。
「あの……」
「どうしましたか?」
「これ、何ですか?」
「あぁ。めずらしいですね。これは『カシパン』です」
「『カシパン』……??何なんですか?生き物?」
「そうです、ウニの一種です」
それは丸くて平べったくて薄い、大きなおせんべいのような形をしていた。色は白く、真ん中からお花のような模様がついている。
「あなたの今日の一番はこれですね。僕はこれです」
そう言って彼は私に掌を差し出した。彼の手には白くて神秘的な珊瑚のカケラが乗っていた。
「これをあなたにあげます。そのカシパンは僕がもらってもいいですか?」
「交換するんですね」
「そう。今日の記念です。京子さんが少しずつ海になじめるように」
「え……あ、はい。今日は、その……楽しかったです」
「僕は、毎日『その日の一番』を探すようにしています」
「その日の一番?」
「はい、その日、一番だなと思う事を探すのです。今日はこれを達成したいとか、今日はこんな良い景色が見れたなとか、いいことがあったぞとか。一番を決めて、後で味わうのです。そうすると日頃の色々な出来事が報われるというか、発見があります」
「そうなんですね……いい心構えというか、素敵だなと思います」
「僕の今日の一番はこのカシパンです」
そう言って静かに笑った。そよ風のようにさりげなく控えめだった。短い髪の毛が日差しにあたってきらっと光る。
それから私は、毎日海を意識して眺めるようになった。海は様々な顔を見せてくれた。荒い海、凪の海。心が揺さぶられるような気持ちになったり、静かに落ち着かせてくれる時もある。雲の峰を眺めながら、砂浜で海潮音を聞いて、辰之助さんに想いを馳せた。
ある日「どうしても見せたいものがある」と言って、辰之助さんは船に私を乗せて沖に出た。日が落ちる夕焼け時で、こんな時間にどうしたのだろうと疑問に思ったが、彼の言う事に従った。あまり船に乗った経験がなかったため、私の足元は頼りなく、ふらふらとしながらも、船は波を乗り越えて進んでいく。小さな島に辿り着いた。
「降りましょう」
「え?降りますか?」
辰之助さんはじゃぼんとはしごから海へ降りた。
「辰之助さん!」
「はい」
「わ、わたし泳げないし、こわくて」
「僕を信じて下さい」
「え?」
「大丈夫だから」
「……」
「京子さん、来て」
私は思い切って、海にダイブした。
一瞬、世界の全てが白くなった。
海水は塩気があって、むせるような苦しさがあった。海面に必死に顔を出してはぁはぁと息を吸い込みながら、辰之助さんに支えられて島に辿り着く。辰之助さんは、船から繋がっている綱を岩に引っ掛け、そのまま岩壁の隙間の道を上っていった。
道は滑りやすいものの案外平らな場所が多く、歩けないことはなかったが、辰之助さんの後をついて手をひっぱってもらいながら、高さのある場所に辿り着いた。
そこは凹みのようになっていて隠れ家のような雰囲気があった。下方を見ると岩や木々、そして海が広がっている光景が見える。真正面にも小さな島がいくつか見える。そのうちの一つを辰之助さんが指さした。
「あれを見てください」
眺めると大きく突き出た岩の頭に夕陽が落ちて重なった。
それはとても神秘的な光景で、私は思わず息をのんだ。
オレンジ色の夕焼けに、丸く強い光を放つ太陽は、この世のものとは思えないほど美しく、畏怖のようなものすら感じた。
私は、私の中にある滞ってよどんでいる場所が、熱く流れていくような感覚を覚えた。身体の中の水を感じる。海も私も同じ「水」から作られていて、あの海で拾った生物たちのように、そもそも私の祖先も大昔は水の中にいたのかもしれない。
無心で眺める。辰之助さんも横で眺めている。時が止まってしまったかのように思えたが、太陽は徐々に水平線に近づき光は少しずつ強さを失っていった。
「これを見せたかった」
「他の誰にも見せたことはないです」
辰之助さんは私の手をとってひき寄せ抱きしめた。彼が初めて触れてきたので、私は戸惑いながらもおとなしく身を寄せて黙っている。どきどきと辰之助さんの胸から鼓動が聴こえる。体温があたたかく密着した部分から熱が伝わってくる。
「指輪……今すぐ買ってあげられません」
「今日のあれが指輪の代わりです」
「僕の『今日の一番』は京子さんだと思って決めていました」
「僕の人生の『一番』になってくれますか?」
私は、顔を上げ頷いた。辰之助さんはほっとしたような顔をして、またお互いに強く抱きしめ合った。そして、私たちは後日晴れて夫婦となった。
※
語っている間、陽子は終始表情を変えなかった。けれども、私は彼女が聞いてくれているような気がした。
話し終えて、ある学生服の写真が載っているカラープリントの紙を見せた。
「この学生服を着ている子を見なかった?」
私が陽子に訊ねたタイミングで、良明が扉を開けて入ってきた。
「どう?おふくろ、なんか話せたかな?」
私が横に首を振った瞬間、ぼそぼそと声が聞こえた。
「たつの...すけさん、一緒にいた、茂さんに話した......」
陽子がか細いながらも声を出した。私も良明も驚いて、再び彼女に訊ねたが、それ以降、その日の彼女は口を開くことはなかった。
けれども、予感が確信に近づいている。
数日後、私は茂さんのいる紅屋に足早に向かった。引き潮の砂浜のように、隠れていた物の全てが露わになる予感だけが、胸の奥で疼いていた。
9話へ
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