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声(4)

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 椎木はラジオ収録後に、めずらしく恵美子のデスクにまっすぐに向かってやってきた。
「おとさん。これ、なんか、新作のお菓子だって。さっきもらったんだ」
 椎木は恵美子のデスクにころんと小さなチョコレートの包み紙を転がした。椎木のまなざしはやさしかった。彼は恵美子が落ちこんでいることに気づいているようだった。机の上の、身体の線が細い割に骨ばっている彼の指を見つめた。指尖は皮が剥けてタコが見えた。趣味で音楽をやっていると、以前話していたことを思い出す。恵美子はしばし沈黙した後、意を決して話しはじめた。

「椎木さん、お時間ありますか?個人的な話で恐縮ですが、以前話した母親のことです」

 場所を変えて、自販機の目の前のベンチに二人は横並びに腰かける。恵美子の話に椎木は静かに耳を傾けた。

「人って気持ちを受け取るタイミングがあると思うんです。母は、保険の仕事をしていましたが、知り合いに勧める時は慎重にしていたことを父が以前話していました。熊田さんのことを本当に思いやっての話だったと思うのですが、やっぱりつらいことが重なると、なかなか気持ちに余裕がなくなって、他者の気持ちを受け取れなくなってしまうこと……私だってあります。気持ちはわかります。だから、何年か経って熊田さんが思い直して、母の気持ちを時間をかけて受け取ってくださったこと。勇気を出して訪ねてくださったこと。私は感謝したいなと思っています」

 目の前を、ビルの清掃員がモップを持ちながら通り過ぎた。絞りが甘いモップの端っこが廊下を引きずり、てらてらとした細い水の線が、エレベーターから廊下の向こう側に続いていた。道の様に続いているそれを見ながら、恵美子は食べ終わったチョコレートの包み紙を開いたり閉じたりを繰り返した。

「母がラジオをやっていたこと。きっと熊田さんがいらっしゃらなかったら、私、一生知ることはなかったかもしれません。これはチャンスだと思っています。なんとか、母がやっていたラジオのことを調べて、音源を聞いてみたい。母は、私がそのことについて知ろうとしていることを快く思っていません。それはなぜかという理由も私には話してくれないし、わかりませんが、とにかく、私は母の声が聞きたいんです」

 椎木は、ひとしきり恵美子の話を聞いた後
「なるほど、なんとか力になりたいと思っている。少し時間をもらってもいいかな?」
 と恵美子に微笑んだ。
 恵美子は
「ありがとうございます。話を聞いてくださっただけでもありがたいのに、そのようにおっしゃってくださって、とても心強いです」
 と返した。

「人工音声ってさ、昔は聞けたもんじゃなかったでしょ」
 椎木はぽつりと、独り言のようにことばをもらした。
「え……あ、はい。なんだか、かくかくしていて人間味がなかったですよね。イントネーションが不自然だったり」
「初音ミクちゃんとかが出てきてさ『ボーカロイド』ってやつかな?コンピューターが滑らかに話せるようになったんだ。それは、なぜかわかる?」
 恵美子は黙って考えていた。わかりやすく悩んでいる恵美子を見て、椎木はくすりと笑った。
「音と音の間に音があるんだよ。僕が『おとさん』って呼ぶ時に『お』と『と』の間に表記されていない音が存在している。その音の研究が進んだんだ。たとえばそれは『おじさん』とか『おくさん』とかって発音する時と、微妙に違うんだよね。余談だけども『ん』も本当は三パターンの『ん』がある。唇を閉じている『ん』舌先が歯裏につく『ん』舌の根元で喉をふさぐ『ん』。どれも『ん』だけど、発声の方法は微妙に違う」

 恵美子は椎木が懸命に話すことばに耳を傾けた。初めて聞く話に、あらためて、椎木の積み重ねてきた経験や知識の豊かさを感じた。

「何が言いたいかっていうと、前に話した『声にならない声』ってやつ。それは、声に出しているけども自分たちが認識できていないこともたくさんあるってこと。ことばと気持ちはいつもズレがある。ことばは全てを表してはいない。おとさんのお母さんが何を思っているのかを、おとさんは知りたいし、声を聞きたい。けれども今のお母さんはおそらくそうではない。大事なのはお母さんの声を取り戻すことではなくて、お母さんの気持ち。それを忘れないようにしたいね」

 椎木は立ち上がって、廊下を数歩歩いて振り向いた。恵美子は椎木のことばを一つ一つ確かめるようにしながら、水気もとうに乾いた廊下の上を共に歩いて、部署へと戻った。



 数日後、恵美子は、開発部の伊豆いず沙織さおりに突然呼び出されていた。
 伊豆は社内でも仕事ができて、頭が良く、キレ者だと評判の女性だ。探究心が旺盛で、人が気づかないような細かい部分まで後輩を指導する力に長けており、希望する者には容赦なくダメ出しをしてくれるらしい。
 普段、彼女と接点があまりない恵美子は、自分がどうして呼び出されたのか……何かミスをしでかしたのではないかと、不安な気持ちでいっぱいだった。けれども呼び出しを無視するわけにも行かないので、指定された第二会議室に意を決して向かった。

 トントンとドアをノックし、「はい、どうぞ」と伊豆の声を確かめた後に、おそるおそるゆっくりと扉を開いた。一番奥の茶色の革のゆったりとした回転チェアの背面から、一つしばりの髪の毛がちらりとのぞいた。椅子はくるりと回転し、伊豆の表情が見える。彼女は恵美子を見据えた。背筋がぴりっとする。手は汗ばみ、恵美子は伊豆が発することばを待ち構えた。


「乙顔さん」
「は、はい......」
「あなた、最近何か悩みごとがあるでしょう」
「な、なんでですか?」
「あるかないかを聞いてるの。ちゃんと答えて」
 恵美子は普段から小さな声をさらに小さくさせながらも「あ、あります」と答えた。
「そういう時はさぁ……ちゃんと言う!」
 伊豆が勢いよく発声し立ち上がった瞬間に、会議室のドアがガチャっと開き、突如、椎木が現れた。椎木は伊豆に向かって、困り笑顔を作りながら声を発した。

「伊豆さん、乙顔さんをいじめないでくださいよ~」
「だいたいあんたが怪しい行動するから、こんなことになるんでしょ?椎木!」
 恵美子は何がなんだかわからず、ぽかんとしていた。そんな様子を見ていた伊豆は、あきれた顔で説明し始めた。

「乙顔さんは、何か知りたいことがあるんでしょ。椎木は勝手に私のデータベースにアクセスしたんだよ。私は声に関するあらゆる情報を持っている。開発部に役立てたいのもあるし、趣味みたいなところもあるからね。どうでもいい関係なさそうなものだって持ってると思うよ。でもさぁ、勝手にってのはないんじゃない?椎木くん」
「だって、伊豆さんお忙しそうなんですもん。だったら僕が調べたらいいかなぁと思って。お手を煩わせたくなかったんです」
「いや、椎木、それはない」
 伊豆の冷ややかな言いっぷりに対して、椎木は伊豆に反論した。
「伊豆さん、パスワード変えた方がいいっすよ。ずっと『pagupagu』じゃないっすか。バグが好きだからってそんな安直なパスワードじゃすぐに突破されますよ」

 二人の痴話喧嘩のような言い合いに、思わず恵美子はふふっと笑いが込み上げてしまった。
 そんな恵美子を見て
「こら、乙顔さん。元はと言えばあなたが原因なんだからね!」
 と伊豆にぴしゃりと言われ、恵美子は新たに姿勢を正した。

「全ては椎木に聞いたよ」
 伊豆は真面目な顔になって恵美子に伝えた。

「あなたのお母さんがやっていたラジオのパーソナリティの相棒」

「居場所を突き止めたよ」

 恵美子は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていたが、椎木は
「さっすが!伊豆さん!今度来来軒のチャーハンおごります!」
 と、調子のいい様子で感謝を伝えた。

 伊豆は、にやりと不敵な笑みを浮かべながら、プリントアウトされた紙をデスクにトンと置いた。そして、幸子の元相棒である男性の状況について、静かに語り始めた。




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