声(3)
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「皆さんは、『声にならない声』について考えたことがありますか?」
椎木は、本日もガラスの向こう側でラジオの収録を行っていた。彼の左手にはマスコットキャラのルカちゃん人形がいた。そして、ルカちゃんがまるで生きているように、ジャンプしたり、潜ったり、回転させたりといった動きを自由気ままに操りながら彼は表現した。無機質なぬいぐるみが、楽しく生き生きとしているように見えた。
そんな様子を見て、恵美子は心がほどけた。ふさぎこんでかたくなっていた気持ちがゆるんでいくのを感じた。
「ラジオだから椎木さんの動きはリスナーさんには伝わらないのよね」
恵美子は心の中でつぶやき、彼のユニークな一面をあたたかく見守る。
「前回の放送は『可聴音』についてふれました。人間が聞いている音はごく一部に過ぎません。人間の可聴周波数は『20Hz~2万Hz』ですが、犬は『65Hz~5万Hz』です。なので犬笛の音は犬には聞こえますが人間には聞き取ることができません。私たちの耳が聞き取れる範囲があるのです」
「じゃあ、私が超音波のように高い周波数で悪口を言ったら、椎木さんには聞こえないって訳ね!」
聞こえてきた高い声は、ルカちゃんの公式音声だ。テキストに椎木が打ち込んだ文字を、合成音声がしゃべりだすように設定している。ひとりボケツッコミ漫才を椎木は急に始める。彼のネタが時々滑っているのはご愛敬である。
「そうそう悪口がってね…….こら!!まがりなりにもかわいいキャラで売っているルカちゃんがそんなこと言ったらイメージ悪くなっちゃうでしょ。僕の悪口は後ほど聞こえない周波数でお願いします」
くすくすと恵美子は笑った。
声にならない声、か。
椎木の収録の様子を聞きながら、恵美子は先日訪ねてきた女性のことを思い出していた。
自宅に見知らぬ女性が訪れてきた。
恵美子は彼女に見覚えがない。
不安そうな表情を浮かべた女性と、戸惑う恵美子。女性は背が高く猫背であり、どことなくふわふわと所在なさげな雰囲気を醸し出していた。
「熊田です」
と自身の名を名乗り、包み紙で包まれた有名な菓子店の菓子折りを渡してきた。
「乙顔幸子さんの同級生です」
自己紹介をした後に顔を上げ、恵美子を見つめた。
「もしかしてあなたは幸子さんの……娘さんですか?」
熊田はおずおずと恵美子に尋ねた。恵美子は母の名を聞いて安堵した。この人は母の知り合いか。けれども親しい友人ならわざわざ自宅に尋ねることもないだろう。親しければ母が長崎に転居した事も知っているはず。疎遠になっている人なのかもしれないと思い、恵美子は母の現状について簡単に説明した。
「そうです。母は昔、この家に住んでいましたが、父の転勤があって家族は今、長崎におります。娘の私だけがこちらに残っています」
「そうでしたか……」
熊田は残念そうな表情をした。恵美子は彼女に続けて話した。
「もし母に伝えた方がよいなら、私から熊田さんのことを連絡しておきます。ただ、母はその......『声』が今出ないのです。だからお電話などはちょっと難しいと思います」
「え?それはどういうことですか?」
恵美子は彼女に説明した。母が事故にあって声が出なくなってしまったこと。勤めていた仕事も辞めてしまったこと。けれども母なりに今は穏やかに生活していること。
「お母さん……大変だったのですね。……もし娘さんがよろしければですが、なぜ私がここを訪ねてきたのか、私の話を聞いてくださいませんか?お忙しかったら、日をあらためます」
「いえいえ、忙しくはないです。立ち話もあれですから、どうぞあがっていって下さい」
恵美子は彼女を自宅へ招き入れた。熊田はノンヒールの黒い革の靴を脱ぎ、丁寧に向きを変えて揃える。恵美子は茶色いストライプのスリッパを慌てて彼女の足元に出した。
無垢板の廊下を通って、八畳の和室の横を通り過ぎ、リビングに入る。お湯を再び沸かしお茶を入れ直し、彼女の持参したお菓子を開けてお礼を述べた。
「一緒に食べましょう」
熊田の提案を受け入れ、羊羹を切って梅の形の小皿に乗せてテーブルに置いた。 恵美子が座り込んでから、熊田は記憶をさかのぼるようにゆっくりと話し始めた。
熊田繁美は、乙顔幸子、すなわち恵美子の母と同級生だった。小学から中学にかけて同じ学校に通学し、急速に仲が深まったのは、友人に占ってもらった占いのタイプが同じだったことがきっかけだ。
流行りものに目がない、困っている人を助けたい、正義感が強いなど、性格的に共通項が多い二人は、気がつくと自然と隣にいるようになり、学校生活を楽しく過ごすようになった。
「あなたのお母さん、かなり人気者だったのよ」
熊田は、白磁の筒茶碗を両手で包み、口元に持ち上げ、お茶を一口飲んだ。目線は斜め右下方に向けられている。懐かしむようなあたたかい表情。淡い緑のカーテンの隙間から差し込んだ日の光が、彼女の黒々とした髪の毛と頭頂部に細やかに生えている白髪を捉えた。光が透過する白髪を見て、彼女の今まで歩んできた人生を恵美子は想像した。
人気者の幸子にも、人並みに悩みはあった。
友人が困っている時に、果敢に相手に意見を物申すような勝気な面はあるものの、場の雰囲気を察すると、自分の本当の意見を押し殺す。彼女は自分よりも皆との協調性を重んじるような一面があった。
熊田はそんな幸子の性格を理解し、時には幸子に積極的に弱音を吐いてもらった。熊田は幸子の性格に憧れていた。熊田自身は集団でも目立たずおとなしいタイプであった。だからこそ、大好きな幸子がいつも元気でいられることを望んでいた。
高校になって二人は違う学校へ進学した。最初の頃は、意識して会ったり遊んだりしていた。けれども、同じ高校でお互いに仲のいい友達ができたことも要因で、次第に二人の距離は遠のいた。その頃から疎遠となったが、同窓会などで会った際には、中学と変わらない二人の雰囲気に瞬時に戻ることができた。
「今日はね、私は、あなたのお母さんに謝りに来たの」
熊田はお茶を飲んで息をふーっと吐いた。まばたいて、どことなく寂しそうな表情をしていた。恵美子はそこでハッとした。
母親の若かりし頃の思い出を、母以外から始めて聞く体験に、恵美子は新鮮味を感じていた。彼女の話にすっかり入り込んでしまって、目の前にいる女性が何か目的があって訪れているであろうことをすっかりと忘れていた。熊田は単なる思い出話をしにここに来たわけではないようだ。
「あの時は、私もいろいろとよくなかったのよ」
熊田は結婚した後も、卒後から元々勤めていた福祉職の仕事を続けていた。しかし、職場で上司にパワハラにあったり、夫に肝臓の腫瘍が見つかったりと、様々な困難にぶつかっていた。
そんな折に、幸子から連絡が来た。会って話がしたいとの事だった。熊田は忙しい中で時間を作って幸子に会いに行った。幸子に会って活力をもらいたいと願った。街の外れのファミレスで二人は落ち合う。対面に座っている幸子に悩みをうち明け、こんがらがった結び目のような気持ちが、ほどけていくのがわかった。
しかし、ある話を幸子がしはじめてから、熊田は彼女がとたんに受け入れられなくなった。幸子は自身が勤めていた保険会社の保険のプランの話をし始めた。
「旦那さんの保険は今どうなっているの?」
熊田は思った。もしかして私に会いたいと言ったのは、私に保険加入を勧めたいからだったのかと。私を励まそうとしたのはおまけで、自分の営業成績をあげたいから、このような機会を作ったのではないか。
「私はそこで話を打ち切って『もう会わないにしよう』と幸子さんに伝えました。幸子……さっちゃんって私はずっと呼んでいたんだけどね、さっちゃんは私の態度に戸惑っていました。けれども、それ以上聞いてくることもなかった。私はあの頃、かなり気持ちが疲れていたのです。ささいなことで傷ついたり、人の好意がうまく受け取れず、とげとげとした感情を抱いていました。毎日の生活に必死だった」
わかりあえた気持ちも、ふとしたことですれ違う。傷つけあって血は流れた。疲弊した気持ちは思考を止めて、相手の存在を拒絶した。けれども疼くような思いは忘れることはできない。時が経っても爪痕のように後悔は残る。交わせなかった想い、伝えられなかったことばたちは、熊田の頭上に浮かんでは消え、そのうち霧散した。時々、薄くなった瘢痕をじっと見つめた。
郵便受けがカタンと小さな音を立てた。
すぐにバイクのエンジン音が鳴り響いた。 沈黙が訪れる。
熊田はことばを選び、言い淀んでいる。
仏壇の線香の煙が隣室でゆったりと揺蕩うのが恵美子の視界に入った。机の上で両手を祈るようにぎゅっと握って、自身の気持ちを確かめるように、熊田は会話を再開した。
「今考えれば、わかることだった。あなたのお母さんは営業のために私に会いに来たんじゃないって、やっとそう思えるようになった。私のことを本当に心配して聞いてくれていた。そして実際に保険のことは、その後すぐ考え直すことになった。さっちゃんは私のことを見通してわかっていたんだよね」
熊田はひといきに止まることなく話し続けた。そして話が終わると、羊羹を一切れ、口に運んだ。こくんと喉をならした後、話を再開した。その後の話に恵美子は驚きを隠せなかった。
「あなたのお母さんとは、そこから連絡を取らなくなった。けれども、ある日ね、聞き覚えのある声が不意に聞こえてきた」
どこかで、鳥の鳴いた声がした。カーテン越しの光は雲に遮られたのか、とたんに細く弱々しくなった。天気がうつろいやすいと、今朝、テレビのアナウンサーが言っていた事を、恵美子はふと思い出した。
熊田は話を続ける。
「それは地元のコミュニティラジオで、多くの人に聞かれているものではなかったけども、たまたま私は気づいた。確かにね、あれはさっちゃんの声だったし、話している内容もさっちゃんだった。私にはわかったの。さっちゃんは本名を隠して偽名で出演していた。自身のプライベートな話題も避けていた。けれども私は『さっちゃんだ』と確信して、そこからラジオを聴くようになった」
背筋の筋肉が固くなって、電気がびりっと走ったような感覚に陥った。
「母が……ラジオをですか……?」
恵美子は絶句し、やっとのことでたどたどしく熊田に質問を投げかけた。
熊田は、しばらくラジオ番組を聞くようになった。リスナーからのお便りコーナーにも投稿したこともあると照れくさそうに告白をした。幸子が便りを読み上げた時に、何とも言えない気持ちになったと感慨深い表情で物語った。
「さっちゃんの声ってね、聞いていると元気が出るの。太陽みたいに照らしてくれる明るい声を、つらい時、悲しい時に聞くと、心がぽかぽかとあたたかくなって、また頑張ろうってはげまされた。他のリスナーさんからもそのようなお便りが寄せられていた」
ラジオにはもう一人男性のパーソナリティがいた。二人のコンビはとても息が合っていた。好評のまま数年続いていたが、突如番組は終了してしまった。ラジオの番組名は忘れてしまったが、それ以来、幸子とのことがずっと心残りであった。なかなか踏ん切りがつかなく、今日まで至ってしまった。母親と和解したいと願って、思い切って今日は尋ねてみた。
話したいことを全て話し切ったのか、熊田は最後に満足げな表情を浮かべた。
「娘さんに今日は会えて良かった。長いお話を聞いて下さってありがとう。お母さんによろしくお伝えください。声のことは非常に残念だけども、でも、私はラジオのさっちゃんの声はこれからも忘れないと思う」
気温が下がり、廊下は冷えていた。しとしとと小雨の音が聞こえてくる。玄関で別れの挨拶をしながら、折り畳み傘をカバンから取り出した際に、熊田は大事な何かを思いだしたように、笑顔で恵美子に一言伝えた。
「娘さんの声……お母さんとは少し違うけれども、聞いているとどこか安心するような気持ちになりました。やっぱり親子だね。さっちゃんと会えたようで嬉しかったです。ありがとう」
コンプレックスである声のことを褒められて、恵美子は驚いた。今起きた出来事が全てうまく飲み込めずに、しばらく余韻にひたっていたが、恵美子は我にかえった。そして、いてもたってもいられず、すぐさま母にメッセージを送った。熊田が家を訪ねてきたこと。熊田が話したこと。そして母がラジオのパーソナリティをやっていたかもしれないこと。恵美子はにわかに信じがたかった。母は一切家族にはそのような事実を話していなかったからだ。そしてそんな素振りも見せなかった。母は本当にラジオ番組に関わっていたのだろうか。
と、同時に恵美子はこんな事も考えていた。もし、ラジオの件が事実で、その音源が残っていれば、懐かしい母の声をこの耳で聞くことができる。そして、その音声を合成音声に入力することで、母が今話したいことを、母の声で再現できるかもしれない。
母の「声にならない声」を聞きたい。
母は、熊田の件についてはとても喜んでいた。懐かしい気持ちを抑えきれないのか、返事もテンポ良く返ってきた。母も熊田のことがずっと心の奥底で気になっていたようだ。母と熊田の雪解けを恵美子も喜んだ。何十年経っても、絆が繋がりなおすことがあるのだと、恵美子は両者の強い想いに感銘を受けた。
しかし、コミュニティラジオの話になった途端に、母の返事の速度が急激に遅くなった。しばらく返事を待っていると、吹き出しが重々しく浮かんできた。
「確かにお母さんはラジオをやっていたことがある」
母はその事実を認めた。恵美子はすかさず返事をした。
「その番組名と時期を教えてほしいの。音源があれば、またお母さんの声が聞ける。そして音声情報からお母さんの声が作れるかもしれない」
母はこのように返した。
「恵美子、お母さんはもう声のことはいいのよ。ラジオのことも昔の話で忘れちゃったから思いだせないし、このことはここまでにしましょう。いつまでも過去のことをひきずっていても仕方ないもの。熊田さん……しげちゃんには恵美子が聞いたメールの連絡先にお母さんから連絡しておきます。じゃあね」
恵美子の母はそれ以降、頑なにラジオのことは話してくれなかった。
恵美子は途方に暮れた。なぜ……チャンスは巡ってきたのに、母は乗り気になれないんだろう。私が母の声にこだわっていることに母は良い気持ちを抱いていないようだった。
その後、奈津にも連絡をした。奈津も当然ラジオのことには気づいていなかった。
「お母さん、そんなことやってたんだ!」と驚きを露わにした。奈津からも母に話を切り出したようだったが、恵美子に対する態度と変わらず、母親は多くを語りたがらなかった。
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