見出し画像

声(2)

前回はこちら


「空気をまとう、透き通るような声の持ち主」


 国語の朗読の授業のあと、担任教師がさりげなくつぶやいたことばを、恵美子は自分自身のことだと全く気づかず、危うく聞き逃すところだった。そよ風のようにするりと通り過ぎようとしたことばのはしっこを、恵美子は急いでつかまえた。
 言われた当時は戸惑いがあった。それまで自分の声について考えたこともなかった。何の取り柄もない自分が、この世界で少しだけ認められた気持ちになった。ここにいていいよと言われた気がした。背中に小さな羽が生えて、空を自由にはばたけるかもしれない、そんな心情を抱いた。

 先生の発言がきっかけで、恵美子は発表会の司会に抜擢された。彼女は声が重要な役割を持つ係を、率先して引き受けるようになり、後に放送部にも所属した。内向的だった性格は、蕾が花開くように変化した。恵美子自身もそんな自分が嫌いではなかった。

 けれども、中学で事態は一変する。
 中学校でも放送部員であった恵美子は、何の問題もなく学校生活を送っていたが、ある日、給食の時間に放送スピーカーから流れる恵美子の声を聞いて、一人の男子生徒があることを言い始めた。
「乙顔の声って、お笑いのモッチーズのもちこの声に似てね?」
 男子たちはたちまちその話題でもちきりになった。モッチーズはお笑い番組に出てくる女性の芸人コンビだった。恵美子の声の話題は同じクラスにとどまらず、隣のクラスにも瞬く間に広まった。
「もちこのギャグを真似して言ってみろよ!!やべぇ、声超そっくりだよなー。ウケるんだけど」
 一部の男子生徒は、恵美子に物真似を強要し、嫌がる恵美子を無視してからかいの対象にした。


 恵美子はその日から変わった。


 放送委員もやめて、声に関する係も極力関わらないようになった。あれだけ活動に意欲を見せていた恵美子が、急に消極的な態度をとるようになったことに疑問を抱いた教員たちは、恵美子に理由を尋ねた。恵美子はそれに答えなかった。そんなことを気にしている自分がたまらなく嫌だった。とうとう卒業の最後まで理由を話すことはなかった。

 日常生活にも支障をきたした。発声することに、恐怖感を覚えた。

「お姉ちゃんは何も悪くない」
 奈津にだけ恵美子はこの件を打ち明けていた。
「お姉ちゃんがつらかったらお母さんやお父さんに言おうよ」
 奈津は心やさしく、瞳の中いっぱいに涙をためこみ、解決策を恵美子に提案した。
 恵美子はかぶりを振った。そして、ついには両親にも最後まで話さなかった。ただ母だけは、そんな元気のない恵美子に異変を感じ、勘づいているようだった。恵美子の好物のプリンを意識して買って来たり、好きな洋服屋さんに連れて行ったりと、気にかける様子が見られた。恵美子の母はそういう人だった。

 声を出すことがこわい。
「あ」
「あ」
「あ」
 一人になった時だけ。
 ためらいがちに発声する。
 たよりない私の声。
 歩みを早くする。

 吐息とともに吐き出した声は空中に浮かんで、後ろに流れて、行き場をなくした。

 自分が消えてしまいそうだった。
 消えてしまいたかった。
 何がいけないのだろう。
 何もいけなくはない。
 私が悪かった?
 もちこさんがいけなかった?
 からかう人たちは楽しそうだ。
 楽しいのかな……。
 私の声は何も変わっていないのに。
 私の世界は変わってしまった。
 羽はもう背中に生えていない気がする。
 このままカゲロウのように消えてしまいたい。
 私一人の世界に閉じこもりたい。


 恵美子は高校に入学した。恵美子の声は、以前と比べ物にならないくらい控えめだった。初対面の相手には「え?」と聞きなおされた。声が小さすぎて、自信がない印象を周囲に与えた。
 そしてそれは、今日まで続いている。業務中の会議は、恵美子にとっては苦痛以外の何者でもない。プレゼンテーションしていても、中学の頃にからかわれた場面がフラッシュバックする。恵美子は人前で堂々とした発声ができなくなっていた。

「……ですから、声が発声できない方、話したくても声を出せない方たちにも選べる声の種類はたくさんあります。今月はあの有名な声優さんが素敵な声を提供してくれています。あなたの声を相手に届けましょう。今日のラジオのお相手は椎木でした」

 扉が開き、個室から出てきた椎木と目が合う。デスクの上のお茶を飲んで彼はひと息つき、肩のストレッチをし始めた。ラジオ収録は無事に終了したようだ。

 いくら尊敬している椎木さんの頼みでも、私にはとても無理なことだ。

 恵美子はため息を小さくついて、モニターの資料に視線を戻した。




 その夜、恵美子はベッドに寝転んで母にメッセージを送った。
「お母さん、誕生日、昨日だったでしょう。遅ればせながらおめでとう」
 恵美子の母はすぐに気づいたようで、吹き出しが既読になって返信がきた。
「ありがとう。もう、この年じゃおめでたくないけどね。仕事はどう?順調?」
「仕事はまぁまぁ。今日はお昼ご飯にコロッケを食べた。近くにおいしい定食屋さんがあるの。椎木さんが教えてくれた」
「それは良かったね。東京はおいしいお店がたくさんあっていいわね」
 ネコがにこにこしているスタンプが添えられていた。かわいくこちらに手を振っている。
「お母さんのコロッケを思い出した。それで誕生日だって気づいたの。あのシンプルなじゃがいもがメインのコロッケが私は好きだった」
「あぁ、えみちゃんはコロッケ好きだったもんね」
「余ったコロッケを冷凍してお弁当に入れてくれたでしょ。お母さんが昔歌ってくれたおべんとうばこの歌。たまに思いだすんだ」
「あなた、そんな昔のこと、覚えてるの。お母さんびっくりしたわ」
 下にびっくりしているうさぎのスタンプがジャンプをして跳び上がっていた。
 おべんとうばこの歌。

〝これくらいの おべんとばこに おにぎり おにぎり ちょっとつめて〟

 恵美子は母が歌う姿を覚えている。
 おにぎりを握って海苔を巻いたり、四角いフライパンに卵を流し込む姿だって思いだせる。

 しかし唯一、はっきりと思いだせないことがある。


 それは母の『声』

 恵美子は、母の声をはっきりと思いだすことができなかった。

 時はさかのぼる。

 恵美子が小学生の頃、母は交通事故にあった。

 自転車で走行していた母を、左折したトラックが巻き込んだ。さいわいにして奇跡的に命は助かったが、救急搬送されしばらく入院した。胸を強く打った影響で反回神経が麻痺し、彼女の声帯に後遺症を残した。

 恵美子の母は、以後、発声が困難となった。

 保険会社の営業職であった母は転職を余儀なくされた。話せない営業職は、甘いものが苦手なパティシエや、高所恐怖症のビル建設員と同じくらいありえなかった。嚥下障害も軽度ではあるが残った。誤嚥しやすい「いも」の料理を作る頻度は自然と少なくなり、そこには恵美子の好きなコロッケも含まれていた。恵美子はそれをさみしく思ったが、母の心境を考えると、コロッケを作ってほしいとは言えなくなってしまった。

 母は退院後、逆境にもめげずに新しい仕事に就職し懸命に働きはじめた。工場の生産ライン業務であれば、話す機会も少ない。発声が不可能な自分でもなんとか勤まるのではないかと恵美子の母は考えた。けれども、声がでないハンディキャップは、想像以上に大きいものであり、母は定年まで仕事につくことは叶わなかった。

 恵美子がパルス社に就職した一番の理由。
 それは母の声をとりもどすことだった。

 恵美子は母の声が好きだった。ハイトーンのはつらつとした発声は、聞く人の心を自然と前向きにさせるものだった。雨上がりの虹のように、晴れやかな気持ちになれるような、ひかりの粒のような声。

 夕刻の日が落ちかけていく公園。ブランコの風を切る感覚に夢中になったあの日。帰宅を促す母の慈愛に満ちた私を呼ぶ声。緋色の西日がまぶしく母の背中を照らす。いつまでもいつまでもここにいたい。母を独占したい。小さくてわがままな私の心。やさしく諭す母の声色のやわらかさ。

 仕事の繁忙期。母の保育園のお迎えは毎回遅くなる。
「いつも、ごめんね」と、駆け寄りながら投げかけられる、切ない想いが込められた湿り気のある母の声。セットした髪型が朝の出勤時と比べて少し乱れている。パッと広げた手のひらには、メモ書きのボールペン文字が見えた。「帰ろう」とため息と同時に耳元で聞こえる母の声に安堵した。

 パルス社の取り組みを初めて知った時。大きな希望の光が見えた。

「これでお母さんも会話ができるかもしれない」

 アプリを使った様々な事例に、恵美子は感銘を受けた。
 難病で声が失われる可能性のある患者さん。自分の声を発声できるうちに入力し、妻や子供とコミュニケーションをはかっていた。
 遠い地にいる祖父母のために、見守り機能として自らの声を入力し、毎朝自分の声で元気な挨拶を届けるお孫さん。
 アプリに登録されている自分が好きなアイドルの声を目覚ましにし、起床がスムーズになって遅刻が減ったユーザーの話も、椎木から教えてもらったことがある。

 声が安心を届ける。
 声で繋がれる。
 声から元気をもらえる。

 アプリが可能にした各々の希望に満ちたエピソードに、恵美子は期待を寄せた。しかし、結果としては、恵美子は母の声を作り出すことができなかった。

「元になるお母さんの声の情報が足りないかなぁ」

 椎木はそのように述べた。入社してから数ヶ月。恵美子は椎木に母の声についての相談を持ちかけたが、彼にも成す術がなかった。なるべく本人に近い音声を生成するためには、元の音声情報を一定の量まで入力する必要があった。

 母の音声データは足りなかった。家族のホームビデオなどの動画なども探したが、充分な量は残っておらず、恵美子はこの事実に落胆の表情を浮かべた。

「まぁ、これからまた解決策が見つかるかもしれない。開発部も日々新しい取り組みを頑張ってるから、今の情報量でも、もしかしてお母さんの声を蘇らせることができるかもしれない」

 肩をぽんと叩かれた。椎木はいつだってやさしい。社内でひそかに人気があることを風の噂で耳にする恵美子は「確かにそうだよな」と近くで実感できる立場であることを、あらためて感謝していた。

 母の声が聞けなくてなってからしばらく経つ。

 忘却のプロセス。

 恵美子は以前どこかで耳にしたことがある。

〝人間は『声』から忘れる〟

 聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚の順番で、人は相手の情報を忘れてしまう。恵美子が母の声を最後に聞いたのは小学の頃で、すでに十年以上は生身の声を聞いていない。それは霞がかった湖畔の向こう岸のようにぼんやりとしていて、昔のアルバムの写真のように解像度は低く、不透明で、不鮮明だった。

 アプリのサービス自体は、母も活用しているようであった。アプリに登録されている女性の声を使用し、手話と同時に日々のコミュニケーションの手助けとして利用していた。

「これ便利よね。えみちゃんはいい仕事を見つけたわね。お母さんは嬉しいわ」



 母とやりとりした翌日。会社が休みであった恵美子は、掃除をしたり、たまった書類を整理したり、ゆったりとした時間を過ごしていた。作業をひと休みしようと、あたたかいお茶を入れたその時、玄関でピンポーンとチャイムがなった。

「お待ちくださーい」
 玄関に向かうと、そこには見慣れぬ女性が立っていた。
 女性は母と同年代の印象を受けた。どことなく表情は不安そうである。

「乙顔さんの......お宅ですか?」

 恵美子は記憶を手繰り寄せたが、やはり彼女に見覚えがなかった。しかし、この先彼女から告げられる話が、恵美子の運命の歯車を大きく動かすものになろうとは、この時の恵美子には想像もつかないことであった。


3話へ

いいなと思ったら応援しよう!

くま サポートは読んでくれただけで充分です。あなたの資源はぜひ他のことにお使い下さい。それでもいただけるのであれば、私も他の方に渡していきたいです。