Dive(2)【創作】
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【2話 音ズレ、訪れ】
目が覚める。
明るい室内に戸惑う。
自分が一瞬、どこにいるのかわからなかった。
ふわふわと行き場のない海月のように揺れる頭を抱えながら、次第に焦点が定まる。見慣れた天井の木目が見えた。めずらしく午睡をしてしまったのかもしれない。
深呼吸をすると、ひゅるひゅるりと軽やかな音がどこからともなく聴こえる。
鳥の声に似ているが、春告鳥ではない。
窓を少しだけ開けると、庭に小米花が淡く健気にしなだれていた。地面の赤い桜蕊が桜の季節の終焉を伝えている。影が長い。日差しは傾き始めているようだ。
音は何度も同じ箇所をいったりきたりしている。奏者の迷いが見えた。これは横笛の音色だ。私はどのように音階がすすめばいいのかを理解している。次の音と指のはこびが自然と頭に浮かんでくる。若かりし頃、今吹いている笛の音の主と同じように、何度も何度も練習を繰り返した。ある時から何も考えずとも自然に指が動くようになった。
寝室から八畳間の和室に行くと、良明がいた。あぐらをかいて、畳の上に置いた譜面を覗き込んでいた。そして、両脇をぐっと開き、脊椎をまっすぐ立て、姿勢良く笛をかまえた。笛は竹でできており、作られてから年月が経っているせいか、竹独特の艶感は失われていた。おそるおそるひゅるひゅると音を出す。
音がズレる。
「よっちゃん、私、寝てた」
良明はゆっくりと振り返り、私をまなざした。黒目が深い。その瞳の力強さに微かに身じろぎする。「目は口ほどにものを言う」と言うが、良明は「そんなことはわかってる」と言いたげな表情でペットボトルのお茶をごくごくと飲み干した。
「何......?神楽、練習してる?」
「めっちゃ、むずい。もっと簡単かと思って正直なめてた。京子さん教えて」
良明は持っている笛を笑顔で私に差し出した。
「もう、私も忘れたわ。何年も吹いてない」
かぶりを振って笑顔で返す。良明が口にした笛を吹くのは躊躇われた。彼は時々そういう一面がある。元々の性格なのか、それとも外国住まいが長すぎて観念がおおらかになってしまったのかはわからない。こちらが意識しすぎなのか......いや、そんなことはないと自分の気持ちを小さく確かめる。
「ガキの頃も思ったけど、譜面、これ、理解不能すぎない?『ヒューヒューヒャヒャローヒューヒャヒャロー』ってこれでみんなやってきたんだよな。すごいな。呪文みたい」
新型コロナウイルス感染症で一時期休止していた夏の祭礼も、数年前から再開された。大神輿、子供神輿と、獅子舞。そして神楽。お囃子と共に演舞が披露される。お囃子は大太鼓、小太鼓、あたり鉦、そして横笛もとい篠笛で構成される。
良明は横笛の練習をしていた。この子は若い頃から海外に住みはじめ、一時帰国したタイミングで法被を着て祭りに参加することはあっても、お囃子の楽器に決して手を出すことはなかった。
「久しぶりに海に出て疲れたでしょ。少しは休めた?」
彼は私を心配している。
本日、私はプランBを決行した。
プランBの内容は「夫に縁のあるものをたずねる」こと。
夫の生活していた場所をあらためて体感し、夫に関係する人たちに聞き込みをする。
プランAのイタコ作戦より、地味で当たり前みたいな内容だが、もうこうなったらやるしかない。何度目の「もうこうなったらやるしかない」なんだろう。普通の人はプランBを先に思いつくはずだ、と和代さんあたりに話せばけらけらと笑ってくれそうな予感がする。持つべきものは笑ってくれる友と湿布である。歳を重ねると座右の銘にも余分なものがついてくる。
停留しているより、進んだ方が気持ちも安定する。沼地でじっとしていても水は流れない。流れることで水は入れ替わり、見えてくる景色もきっと変わるはずだ。そうやって生きてきた。結局はそうするしかなかった。四十代の頃、待つことも大事と気づいたが、一周まわって動くことも大事だと気づく。歳を重ねて軽快に動けなくなり頭も身体も制限も増えたが、動けないからこそ動ける部分は動きたい。
水掻きし続けないと深く溺れてしまいそうだ。
海に出るのが怖かった。夫が亡くなってから船に乗ることをやめていた。元々女性たちは海に出ず陸での仕事が大半ではあった。夫が沖に出て、収穫してきたものを加工して、整えて、市場へ渡す。また男たちが沖に出られるように道具を作成し、手入れする。
夫の水野辰之助と結婚してから、数十年。私はその間、魚の下処理をして、貝を剥き続けた。
白ミルが獲れるのは冬場の十二月から四月の寒い頃。潜水服を身にまとった男たちが水深十mの深さに潜り、ひとつひとつ丁寧に漁獲する。朝収穫した白ミルはその日のうちに出荷される。白ミルはコリコリとした歯ごたえがあり、甘みのある濃厚な味わいがする。表面を少し炙れば、生とは違う香ばしい味も楽しめる。
トリ貝は小型の船で海底を曳いて、漁獲する。三月から六月頃が旬で、わさび醤油で食べるのが一番おいしい。近年は取れ高が減少していてかなり希少になってしまった。剥き身の作業はコツがいる。やっとのことで貝を開けても、今度はぬめぬめとした身をはがすのに一苦労する。私たちは慣れた手つきで数秒で貝殻と身を引きはがしていく。
ずっと海と共に生きてきた。
浜の人たちは海に恩恵をもらい、海に生かされた。
男は海に出て、女は陸で帰りを待った。
けれども海は夫を返さず、私は海と随分と長く仲たがいしていた。
夫の船に乗って沖に出たいと、近所で釣り宿を営む義理の弟に頼んだ。
「良明が近々帰ってくるから、良明に連れてってもらいな」
義理の弟の茂は、なぜ私がそんなことを言いだしたのか理由も訊ねずに、軽い調子で返事をした。私は意を決して伝えたつもりだったが、茂の様子に拍子抜けしてしまった。彼は午前中のテレビ体操と一緒に腰を曲げたり、腕をぐるぐるとまわしていた。この時間に居間にいるということは、今日は釣り客は来ていないようだ。
彼は私の妹の陽子と結婚し、長年釣り宿を営んでいた。先代から続く「紅屋」を継いで繁盛していたが、妹がパーキンソン病を患って介護が必要となり、宿泊サービスの経営が困難となった。今は日帰り客のみ受け入れている。
茂が言う通り、良明は数日後に帰国した。
私が話したことを伝えてくれたようで、彼は電話で連絡をくれた。
「京子さん、どうしたの?」
訊ねられてやっと答えることができた。
「夫がどうして死んでしまったのかを知りたい」
言い放ってから思った。その声はまるで、自分の声ではないような響きを持っていて、ひやりとした空気をまとっていた。
※
波頭が白くきらめく。とぷんとぷんと波が船体にぶつかる音がする。空が白んできて、朝靄も晴れ、視界が良くなってきた。
無風ではあるが、船体は揺れないわけではない。久しぶりの船独特の揺れに戸惑う。以前乗った時は、膝を骨折する前だった。骨折は完治したと言えども、膝周りの筋力は衰え、左足の踏ん張りがきかなくなった。左舷で船べりにもたれていると、銀色の光のきらめきが視界の端にうつった。
きらきらと細長く伸びたそれは、ヘビの動きとは違った。波打たずにまっすぐと推進する。白と銀色の光沢がてらてらと存在を露わにする。長い太刀のようなフォルム。長さは二mほどあった。
「……リュウグウノツカイ?」
私が見惚れて立ちすくんでいると、横から声がした。良明は驚いた表情で、私と同じくきらきらと光る生き物から視線を外さずに、スマホをかざして写真を撮った。
「深海にいるやつがめずらしいな」
「私……初めて見た……。いるんだね」
「外湾は水深五十mくらいはあるだろうし、その先はもっと深いところがあるから、まぁ……いてもおかしくはないだろうけども。それにしても俺も初めて見たわ」
「誰につかわれて私たちのところにきたのかな……」
「ただ単に迷子になってるだけだったりして。ほら!こんなところで油売ってないで、とっととお前の住処へ帰りな」
会話をしている最中、ふと、立ちくらみがした。倒れないようにふらふらと操舵室に戻ると、波の揺れと共にふらつき、足元にある船舶用の消火器に足を引っかけた。消火器はごろっと倒れ、その後ろ側の死角になっているスペースに袋が置かれているのが見える。
なんの変哲もないただの袋が何となく自分を呼んでいるような気になった。そのまま手を伸ばして、開けてみると大量の貝殻が入っていた。貝をかき分けると、手のひらサイズの瓶が出てきた。
ラベルがところどころ破れている。気分が悪く、そのあたりから記憶が定かではないが、私は瓶を握りしめたまま、良明と共に家路に着いた。
※
アスパラガスをトントンと切る。
ヤングコーンを取り出して同じような長さでカットする。にんじんを沖縄で買ったしりしり器にかけて細かくする。あくの抜いたたけのこも同様に細くして、全て春巻きの皮に丁寧に包んだ。温めていた油に静かに落とし込む。じゅわっと泡と音を立てながら、春巻きが徐々にきつね色になっていく様子をぼんやりと眺めた。お行儀よく並んだ春巻きたちを、順にすくいあげる。パチパチジュージューと音を立てているが、次第におとなしくなった。
千切りにしてあったかぶの葉と、鰹節としらす、しょうゆ、みりん、少しだけ練り辛子を足して、和える。最後に白炒りごまを豪快にぱらぱらとふった。
春キャベツと新玉ねぎのお味噌汁をよそうと、良明が横で手を出しているので、お盆に置いて、食卓へ運んでもらった。
「しばらくいる?」
「うん、今回は長くいようかなと思っていて。夏くらいまでは。まぁ途中であっちに戻る時もあるかもだけども」
良明は春巻きに塩をかけてかぶりついていた。さくっと音を立てながら美味しそうに食べる。たくさん食べる人は見ていて気持ちがいい。
「会社はまかせる人もいるからもういいんだよ。シーグラスの加工や輸出やら、牡蠣の養殖やら、仕組みを作ってあとは、欲しがっているところに届ければいい。親父は俺が釣宿屋も継がずに出て行って、結局あっちで海の仕事をしていることに、不満があるみたいだけどね」
「茂さんはああ見えても一人で心細いのよ。あなたも、亜子ちゃんもけっこう気にして顔出してるとは思うけども、それでもね。やっぱり陽子が施設に入ってから元気が今一つないわよね」
「これ、なんにもつけなくても美味しいと思う」
良明はヤングコーンの春巻きを片手にこちらを見据えた。
「京子さんによく作ってもらった野菜の春巻き。久しぶりに食べられて、俺、幸せを感じてる」
「ねえ」
満足そうな良明を見て、私の中の何かのスイッチが入った。ことばがこぼれてしまうように流れ出る。声はか細く震えていた。
「あれ。どういう意味があると思う?」
持ち帰った瓶は、よく見ると睡眠薬の瓶だった。中に紙切れが入っていて広げると短い文章が書かれていた。
"明日、晴れていたらあちらにいきます。今までありがとう"
良明は黙々とかぶの葉の和え物を白米の上に乗せて、かき込むように食事を続けた。
そして、一息ふぅとため息をつくと
「ねえ、おじさんが死んだ理由を知りたいのはどうして?」
と、言いながらビールをごくごくと飲み干して、机の上にグラスをコトンと置いた。
静まり返った。
夜風が窓から入り込んできた。水蒸気を含んだ空気は南から流れ込み、星の光も和やかでやさしい顔をしている。
訪れは春にやってくることが多い。
出会いも別れも慌ただしく過ぎていく。若い頃は無我夢中だった。その転機の波に乗り遅れまいと自分をなんとかごまかして、形を無理にでも合わせながら生きてきた。今はそのようなレールに乗ることもなく過ごしているが、やはり、春は訪れるのだ。
それは待ち望んでいたものも、避けていた出来事も、むくむくと土から生まれてしまうような、大きなエネルギーの変換があり、ひょっこりと姿を現す。
どこからか入り込んだ紋白蝶がテーブルの上の灯りにひらりとたどり着いた。
自分の身体につまった感覚を、到底言い尽くせないことは理解しながら。
辿々しくもズレていく感覚をおそれない心を持ちたい。
朝に見た、リュウグウノツカイのきらめきがイメージに浮かんだ。
美しい銀と白のひかり。
あの子は深い深い海の底からやって来て、そしてどんな世界にかえるのだろう。
深く深く沈んだ見たことのない海の底を、私はただひたすら思い浮かべていた。
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