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Dive (1)【創作】

《あらすじ》
 5年前に、船の上で亡くなった夫の水野辰之助は、なぜ死に至ったのか。その理由を知りたい妻の京子は、恐山のイタコに会って夫の魂を呼び寄せ、その想いを語らせようとした。青森旅行から帰宅し、今度はプランBを実行に移そうと、甥の良明と共に夫の船に乗船し海原に出たが、そこで睡眠薬の瓶と奇妙なメモを見つける。そして夫と一緒にいた女の子の目撃情報を知る。釣り宿屋の亭主である義理の弟の茂、認知症を患い施設入所している妹の陽子、都内に住んでいる面倒見の良い娘の咲、アメリカから帰国した甥の良明、京子が通うデイサービスの仲間たちを交えながら、夫と出会い直していく物語。


《リンク》

2話

https://note.com/kuma_san_note/n/n9edc4148d7d0

3話

https://note.com/kuma_san_note/n/nbd820723642a

4話

https://note.com/kuma_san_note/n/nf5846072b25d

5話

https://note.com/kuma_san_note/n/nb10d8f19f1d0

6話

https://note.com/kuma_san_note/n/n42918ffc1781

7話

https://note.com/kuma_san_note/n/n367bc3b9a6b3

8話

https://note.com/kuma_san_note/n/nd4a9a1aeb786

9話

https://note.com/kuma_san_note/n/n7a19ec9de002

10話

https://note.com/kuma_san_note/n/nc3817c9a6592



【1話 イタコからプランBへ】

 そろそろ決着をつけようと思い立ったのは、春の匂いのするおだやかな一日だった。

 早朝の静けさに包まれた港は、船体も海面も倉庫も紫黒色しこくしょくに彩られ、物体の境目が溶けて大きな塊のように連なった。沈黙の塊は、冬眠から目覚めた熊のように、微かな息づかいを携える。内側で蠢くものたちは徐々に外界へと姿を現す。春は生き物たちが眠りから一斉に目覚める。草萌を迎えた草木が芽吹き、光を浴びるため、我先にと葉を伸ばす。

 漁師町の朝は早く、日の出前から準備が始まる。防波堤で囲まれた停泊場から、船のエンジン音が響き渡り、出航の時間を迎える。

 海原はおどろくほど無風だった。打ち寄せる波の細やかなうねりは、どの隆起も等しさを保つ。波は黒色と金色の線形を描き続け、きらきらと瞬いている。意思を持つ生き物のように揺れる水面を眺める。
 四月初旬まで海中に打ち立てられた海苔漁の支柱は漁師たちによって全て取り払われ、見晴らしの良い景観が目の前に広がっていた。
 海に出たのは何年ぶりだろうか。

「京子さん。今ならまだ帰れるよ」

 後方から声が聞こえて振り向く。声の主は、くわえタバコを燻らせ、黒いニット帽の下から「心配」を含んだまなざしをこちらに向けている。

「よっちゃん、大丈夫。大丈夫だから」

 大丈夫は良明ヨシアキにではなく、むしろ自分に言い聞かせていた。不安と恐れが体を覆い尽くさないように必死に耐える。指先がぶるぶると震えているのは、寒さのせいばかりではない。ブラックコーヒーにミルクを溶かし込むように、己の気持ちが黒色に染まらないイメージを保ちながら、なんとかその場に立っていた。

「春の海 ひねもすのたりのたりかな」

 与謝蕪村が詠んだ句がふと思い浮かんだ。

 春の海は大きく荒ぶることなくゆったりとしている。霞んだ空に芳雲が浮かび、その隙間からオレンジ色の朝日が海に差し込んだ。広い海原で佇み、ウミネコの鳴き声が聞こえてくると、どこか眠気に誘われてしまうのだと、網の手入れをしている夫がつぶやいていたことを思い出す。

 季節が移ろう時。特に冬から春は手に負えず、身体も心もリズムが崩れる。世界は混沌としながら、さまざまなものが生まれ死んでいく。

 築三十年になる自宅は川沿いのすぐそばにあった。西側の窓を開放すると、淡水と海水が入り混じる気水域が眼前に広がる。
 朝と夜。家と外。温と冷。高と低。子供と大人。光と影。

 そして、生と死。

 二つが混ざる場所。どちらの要素も含め持ち、かつ、どちらでもない揺らぎが耐えずせめぎ合っている場。人はそれを「あわい」と名づけ、私たちはその世界で生きていて、どっちつかずで右往左往を繰り返しているのだなと、毎朝景色を眺めながら思う。
 私たちは、ほぼ毎日、同じ場所で同じラインを引き続けていたはずだった。当たり前の日常や、穏やかな日々が、突如、向こう側に消え去ってしまうことを、大きな痛みと共に知ることになった。


 夫が五年前に亡くなった。


 漁業に携わる夫は、その日もいつものように早朝から沖に出た。

 帰りが遅く、午後になり夕刻になった。
 警察に届け、捜索依頼をしたが、手がかりは見つからなかった。

 翌日、漁船で息絶えていたのを仲間の船が発見した。

 齢七十五歳。

 死因は不明。

 夫がいなくなってからは一人暮らしとなった。二人の子供たちは、近隣の市と都内で家庭を持ちながら、各々過ごしている。同居という選択肢は、自分にも子供たちにもなかった。「子供たちに迷惑をかけたくない」と、同級生たちが口にしていたセリフを、まさか自分が子供たちに発するなんて思いもよらなかった。

 長き闘病生活や施設生活を経て先立たれてしまうことと、今まで元気だった人が忽然と姿を消すように亡くなることは、決定的な違いがある。

 ピンピンコロリで逝きたい。伴侶にもそのように逝ってほしいと、皆揃えたように口に出していたし、自分もあの日まで当然のことだと思っていた。

 あぁ、いない。
 もう、いないんだ。

 これほどまでに夫の喪失が身体や心に突き刺さるものなのか。当事者となり、引き裂かれるような身を持って思い知った。

 亡くなる前の前日。庭先の紫陽花の葉に乗るナメクジに「おまえさんは、かたつむりと違って裸のままで頼りなくて大変だな」と、やわらかな横顔で夫は話しかけていた。そういう人だった。人以外のもの、草木や動物によく話しかけていた。

 生きていた手触りはこんなにもあたたかく生々しい。今だって思い出すことができる。けれども、あの日帰ってきた夫は、氷のように冷たく固く、私は声をあげることすらできなかった。



「は?イタコ?」

 咲は牛乳寒天をスプーンで大きくすくってほおばりながら、喉がしゃがれたカラスみたいな情けない声を出した。

 遡ること、半年前。
 自宅で娘と他愛のない話をしていた。娘は都内に家族と住んでいたが、夫が亡くなり一人暮らしとなった我が身を心配していた。その前の年に膝蓋骨を骨折した。庭の大きな盆栽を運ぶ際によろめいて、そのまま膝を石に打ちつけた。手術、入院を経て、退院してから、週に一度、咲は自家用車で海を渡って様子を見に来てくれていた。

 疑わしく表情を歪めた彼女の目尻や口元にはうっすらと小皺が見えた。童顔で比較的若さを保っていた我が娘も、気づけば四十代後半に突入していた。

「イカでもないタコでもない、イタコ」

 咲は、抑揚をつけず、呪文を唱えるように言葉を繰り返した。
 私は急須からお茶を注ぎ込み、湯呑み茶碗を娘の前に差し出し、節目がちに静かにうなづいた。

「口寄せ。かっこよく言うと『シャーマン』」

 咲は、空になった牛乳寒天の器を横にはけて、湯呑み茶碗を手に取り、ふーふーと息を吹きかけ、お茶を口にふくんだ。

「今年の町内会の旅行地は青森なのはわかった。コロナで旅行もしばらくお預けだったものね。けれども、イタコって……。大体さ、死んだ人を憑依させて話させるなんてそんなことあるわけないじゃん。でたらめだよ」

 テーブルの上の回覧板を手に取る。赤い羽根の募金や、近くの小学校の運動会の様子などが掲載された広報誌を眺めた。そして、目の前のあきれた表情の娘をなだめるように話し始めた。

「いや、もちろん、半信半疑よお母さんも。でもね、こうなったら神頼みよ」


 何が「こうなったら」なのかはわからないが、とにかく青森の地に降り立った。硫黄臭さが鼻をつく。
 恐山。
 比叡山・高野山と並ぶ日本三大霊山。
 恐山は「人は死ねば恐山に行く」と古くから地元で言い伝えられている。秋の町内旅行の観光コースに恐山が入っているのを目にした時に、心は決まった。

 夫はなぜ死んでしまったのか。

 イタコに夫をおろしてもらう。

 聞きたいことはそれだけだった。

 六地蔵に頭を下げ、殺風景な風景を見渡す。霊場は火山ガスの影響で草木が生えてこず動物も少数しか生息していないと、化粧の濃い年配のバスガイドが先ほど説明していた。霞がかった遠景にそびえ立つはおそらく恐山菩提寺だろう。
 地獄めぐり内の無間地獄、風車が飾ってある大師堂、三途の川、水子供養、六角堂、血の池地獄、世界一強酸性の美しい湖である極楽浜、無縁仏、重罪地獄、金堀地獄、奪衣婆、太鼓橋。

 観光は十分堪能できた。
 しかし、肝心のイタコは、願いを叶えてもらうことができなかった。

 恐山のイタコは、以前は土日や連休でも姿を見せていた。現在はお祭りの時期にしか現れないようで、イタコの受付は長蛇の列だった。

「水野京子と申します。申し込みをしたいのですが」 
 受付の女性はにこっと笑顔を見せながら、受付表をめくってずらっと書き記された名前を指で追った。

「今から予約すると三時間待ちになります」

 観光バスは一時間後に出発の予定だった。


 無念。


「あなた、あの時、鬼の形相みたいな顔してたわよ」

 隣に座っている和代さんが、笑いながら編み物をしている。今はひ孫にかぶせる帽子を作っているそうだ。毛糸は陽だまりのような黄色で淡くやわらかい色をしていた。午後のデイサービスは自由時間もあり、のんびりとしている。午前中はバイタル測定や入浴、嚥下体操、リハビリなどで忙しい。デイは退院後より、週一度通っていた。娘の強いすすめもあった。近所に住む友人の和代さんも通っていたので、比較的場に早くなじむことができた。

「地獄を見てまわって、振り向いたらここに鬼がいた!ってくらい、すごい表情してた。京子さん史上、ナンバーワンよ。あの顔は忘れられないね」

「だって、私はイタコに夫をおろしてもらって話ができるって、あの時まで思い込んでいたから…….あのがっかり感といったらないわ」

 和代さんは、一年前の町内旅行に同行していた。時々、彼女は、あの時の私を笑い話として思い出すようだ。彼女の記憶に強く残るような、鬼気迫る顔をしていたことを私は覚えていない。呆然とした気持ちでバスの座席に座っているのがやっとで、その後の美味しい旅館のご馳走や温泉のことは記憶にない。



※ 



「こうなったら、プランBだわ」

 窓を開ける。
 南からの潮風がわずかな隙間から吹き込んでくる。
 少しずつ窓を全開にした。

「骨身に応える」

 夫がよくそのように言っていた。彼の後ろ姿を思い出す。

 やかんでお湯をわかし、鍋にも弱火をつける。

 軽くストレッチをする。座位で足を伸ばし、膝上を押す。そして膝を曲げたり伸ばしたりぶらぶら振り子のようにする。特に左膝は念入りに動かさないと、一日うまくいうことを聞いてくれない。

 白湯をゆっくり飲んで、お仏壇に手を合わせる。

 三つ葉入りの卵焼き、大根の葉の炒め物、カレー味のきんぴらごぼう、そしてわかめご飯のおにぎり。わかめは、ごま油とみりんと白だし、砂糖で炒めてから、ご飯と白ごまと混ぜ合わせる。ふっくらしたご飯にしゃもじを入れ込んで、さくさくっと切るように混ぜる。ごま油のにおいがほんのりただよってくる。
 しばらくおかずを冷ましている間、昨日から鶏手羽と煮込んでいた朝粥を鍋からよそる。細ネギをちらし、食べるラー油の瓶詰からほんの少し中身を垂らして、頂く。

 おかずをタッパにつめて、家を出た。徒歩二分。

 古めかしい旅館の前に辿り着く。そして、大きな郵便箱を開いてタッパを入れ込む。

 来た道を戻る。

 川沿いを歩き、家に戻ると良明がいた。ハチワレの野良猫の頭をなでている。

「京子さん、入れ違いになったね」

「ほんとだわ」

 良明の髪の毛は、以前会った時より伸びていた。肩まで伸びた髪は軽くパーマがかかっている。顎には髭が生えていて白髪混じりではあるが、体型は歳を重ねても崩れず、黒いフードつきの防風パーカーがよく似合っていた。

 そして、相変わらず目に力があった。表情は穏やかではあるが、黒豹のような目つきをしている。幼少の頃は同じ獣でも猫のようにあどけなさがあったが、成長するにつれてその瞳は野生味を帯びた。

「本当に行くの?用意はしちゃったけども」

「やるわ。こうなったらやるしかないの」


 生まれた気持ちをどこに埋めよう。

 埋めても埋めても生えてくる。にょきにょき芽が出てきて、土をかぶせても、蓋をしても、だめだった。生まれてしまった気持ちはなかったことにはならなかった。
 いっそ、心ごと氷柱花のようにきれいにとどめておけばいいのに。いつまでも眺めておけばいいのに。頭ではわかっている。

 けれども、波の鼓が私を呼んでいる。

 あの日から海に出るのが怖くなった。

 夫をさらった海。

 夫を遠くへ連れ去ってしまった海。

 かえして、ここにかえして。

 憎いほどにあの日からも変わらない

 美しい海と美しい夜明け。

 もう一度、夫の船で沖に出てみようと思った。

 甥の良明に頼んで、私は再び海に出た。

 恐怖に打ち勝つようにただ「神様」と諳んじていた。

 神様なんて、何も信じてもいないくせに。

 確信はない。手がかりも何もない。けれども、そうしないとつぶれたトマトの様に、固まってしまったはちみつのように、不快感だけがただそこに残っていた。迷子の子猫のように彷徨っても、犬のおまわりさんは来ない。グーグルマップとやらに聞いても、行き先を教えてくれない。

 だったら自分で動くしかない。

 深く深く潜る。

 いつも眺めている汽水域、あわいから、私はこの日、新しい世界へ飛び込んだ。



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