Dive(3)【創作】
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【3話 幸せな夢と黒い絵】
これは夢だとわかっている。
夢の中で、私と夫、娘二人、妹家族たちの八人で、海水浴場に来ていた。
よっちゃんが黄色の子供用シャベルで大きく砂を掘って、トンネルと砂山をせっせと作っている。彼の体つきはおそらく小学校低学年くらいの大きさだ。顔も上半身も砂だらけの状態でけらけらと笑い転げた。義弟の茂がバケツで水を運んできて、窪みにザザーっと水をこぼし、トンネルは見事開通した。
よっちゃんの妹の亜子ちゃんが「お兄ちゃん!」と言いながら、トンネルの片方からのぞき込む。よっちゃんと目が合ってお互いににんまりとしているのが微笑ましい。麦わら帽子を被った妹の陽子は、子供たちにかき氷を買ってきたようで、しゃきしゃきとスプーンで氷の山を崩しながら渡していた。
娘の咲はパラソルの下で日焼け止めを塗っていた。小学校高学年になると、女の子は少し大人びた行動をし始める。下の娘のさくらは、まだ日焼け止めの意味も理解していないのに、お姉ちゃんがやっている行動をマネしたそうにじっと眺めている。夫がにこにこしながら、娘たちが使うピンクのうきわを空気入れで膨らましていた。
七月。祭りが近くなると、この村のお店は一週間程度お休みになる。
釣り宿屋も同様で、私たちはつかの間のバカンスを地元の海水浴場で過ごした。
夏の海は色々な音がする。
ザザァザザァと打ち寄せる潮騒の音。
ジジッと鳴く蝉の声。
泡と共にプシュッとした音を立てるラムネ。
カランとアスファルトに転がるファンタオレンジの缶。
潜水した時にぽこぽことくぐもって聞こえる水中音。
監視員さんの注意喚起の放送。
みゃあみゃあと呼び合うウミネコたちの声。
スピーカーから音割れしているサザンオールスターズのヒット曲。
リンリンと風鈴が風に舞って
ブオーンと首を振る扇風機がある海の家で
焼かれたはまぐりや焼きもろこしがジュージューパチパチと網の上で立てるおいしそうな音を聞く。
秋になると、海は何事もなかったかのようにしんと静まり返る。
夏のひとときが夢であったかのように。
そこで目が覚めた。やはり夢であった。過去をなぞらえるような夢。二度と訪れないあの夏。じんわりと汗をかいていた。机の上の時計を眺める。針は午前5時17分を示していた。
起きて窓を開けた。どこかでサイレンが鳴っていて通り過ぎていく。今日は小雨のようだ。艶々としたやわらかい若葉に水滴が乗っている。サツキが勢いよく鮮やかに群生している。すずらんは控えめに後ろに隠れている。お湯を沸かし、ストレッチをする。毎日の習慣。仏壇に手を合わせる。
どこからか音楽が聴こえてきた。なんの曲だろう。テンポはゆるやか。聴いたことがある。夫のレコードを良明がかけているのかもしれない。
良明がしばらく自宅に住み込む。昨日まで茂の家に二週間ほどいたが、私の家にも滞在する。彼はいつもふらっと帰ってくる。そしてまたあちらに戻る。日本にいる間は、私たちが手入れができないような仕事を代わりにしてくれる。電球などの交換、神棚の掃除、修理が必要な箇所の日曜大工、草取り、畑の管理、受診の付き添い、肥料や電化製品などの重たい物の買い物、洋服の入れ替え、不用品の断捨離、私は頼んでいないが、パソコンや携帯電話のサービスを再確認したり、保険やお金の管理もしてくれると茂は話していた。
娘たちも気にして来てはくれるが、皆嫁に行った身だ。長居をさせないように配慮する。そして力仕事などはやはり男性に頼みたくなる。良明が独り身だからこそこうやって頼めるのだろうと思う。彼は心休めるパートナーはいないのだろうか。そういう話をしたことはない。
ほうれん草を湯がいておひたしにする。明太子をカットして一口サイズにする。目玉焼きを二つ作る。味噌汁はなめこと豆腐。ちりめんじゃこを油で炒めて少しだけしょうゆをたらした。ちぎってあったレタスの上にふりかける。昨日の残りの春巻きをあたためなおす。おにぎりは……油揚げと生姜のおにぎりにした。千切りにした生姜と油揚げを炒めて、みりんとめんつゆ、だしの素で味付け。しゃもじでよそって混ぜる。
「京子さん、おにぎりさ、俺の分も追加してくれない?」
気づけば後ろに良明が立っていた。黒のカットソーにデニムパンツ姿で長い髪の毛をハーフアップにしていた。細身だが、薄手になると腕の筋肉のたくましさが目につく。先ほど夢でけらけらと笑っていた幼い姿とのギャップを感じた。
「オヤジに毎日お弁当作ってくれて感謝してる。あの人、健康とか気にしてないし、俺と同じで酒もけっこう好きだからさ。一食だけでもバランスのいいご飯が食べられるのはありがたいね」
「いいのよ、一人分作るのって、けっこう難しくって。茂さんが食べてくれるからこそ、私もちゃんと作らなきゃって思うの。おにぎりね、いいわよ。そしたらおかずも入れとく」
背伸びして戸棚からわっぱの弁当箱を一つ出した。昔娘に使っていたやつだ。洗いなおすと良明が水滴を拭きとってくれた。
朝ご飯を共にする。誰かと久しぶりの朝ご飯。手を合わせる。
「アクロス・ザ・ユニバース」
良明がつぶやいた。先ほど流していた音楽の曲名らしい。ビートルズは知っている。音楽に詳しくない私でもメロディは聞いたことはある。
「おじさんいい趣味してたよね。レコードプレーヤー捨てなかったの、京子さん大正解」
目玉焼きを二つに分けて、醤油を垂らしながら、私は意を決したように良明に話しかけた。
「あのさ、私は自分が死ぬ時。『あなたは何をしてきましたか?』って聞かれると思っているの」
良明は明太子をご飯茶碗に乗せ、海苔でくるっと包んで口に入れた。片方の頬が膨らみもぐもぐと咀嚼しながらこちらを見つめている。
「天国か地獄かはわからないけど……番人みたいな人がいて、帳簿みたいなのを持っていて。その時に『夫のことがよくわからないままここに来ちゃいました』って申告するのが、なんというか……うーん、癪っていうか」
飲んでいたお茶を吹きこぼしそうになった良明は、少しむせこんで、そのあと大笑いした。胸をとんとんと叩いている。
「『癪』って!…….ははははは、京子さんらしいな。番人の前でむくれて怒ってんのが想像できる」
私もつられて笑う。そう、いつも私は「何となく」だ。七十五年も生きてきて何となくでここまで来てしまった。人の行動の全てに説明はできない。私は自分が何を考えて何のために生きているのかいまだによくわからない。ただただ目の前のことをずっとこなしてきただけだ。
他人事にしたくないことは、首を突っ込んでおきたい。それは良明の言う通り、私の性質であるのかもしれない。
「いいんじゃない、そういう理由で。答えてくれてありがとう」
雨は気づいたら止んでいた。日差しがカーテン越しに差し込む。
※
午後は茂さんの家に出かけた。
今日は娘の亜子ちゃん家族が遊びに来ていた。茂さんは釣り客の対応で忙しかったので、相手役として私に声がかかった。亜子ちゃんは旦那さんとお墓参りに行きたいとのことで、亜子ちゃんの娘の鈴ちゃんと二人で過ごす。鈴ちゃんは保育園に通っていて、私の妹の孫にあたる。私の目の前で、おやつのチロルチョコをもてあそびながら、五味太郎さんや長新太さんの絵本を興味深そうにめくっている。
「『キャベツくん』読んでー」
鈴ちゃんに読み聞かせをする。字が見えにくいので、釣り宿屋の受付カウンターにあった老眼鏡をかりてきた。老眼鏡を持ってこなかったことを後悔したが、これでも何とか間に合いそうだ。
「キャベツ、おまえをたべる!」「ブギャ!」とセリフを言う度に、鈴ちゃんは大きな口を開けて笑い転げる。今朝見た夢の亜子ちゃんを思い出した。親子共に顔がそっくりだ。こうやって妹も孫と過ごしたかっただろうなと想いを馳せる。良明が「時間ができたら一緒に施設へ面会に行こう」と言っていたのをふと思い出した。
幼子と過ごすと、ただ生きていることがこんなにも美しいのかと驚くことがある。感情のままに笑い泣き飛び跳ねる。彼女は、生命そのものの塊のようで、つやつやの肌から今にも虹色のエネルギーがはじけそうだ。尊い。
味噌汁の灰汁をすくうように。何か不調があるたびに検査や治療をしたりして、自分の身体を維持してきた。けれども寄せる年波には勝てない。灰汁をすくってもすくってもこの身体に不純物のようなものが少しずつたまっていく。七十を超えてからなお顕著に感じる。
目も見えづらい。体力もない。朝起きた時にすっきりと目覚めることもないし、少し身体を動かしてからじゃないと思うように動かない。夜はトイレに頻回に起きてしまうこともある。関節の節々が痛む時もあるし、特に骨折した左膝は、季節や気温や気圧の変化をもろに受けやすい。遠出をする時は杖がないと不安だ。
砂嵐の中で立っているようだ。
年々風は強くなっていく。視界も悪くなり、過去も未来も現在も、見通しが悪くなる。頭もぼんやりとしていて、これからさらに記憶は砂嵐の忘却の彼方に過ぎ去ってしまうだろう。
けれども……そんな自分を愛おしくも時々思う。そして私には家族もいて友人もいる。チロルチョコを開けて渡すと鈴ちゃんは口いっぱいに頬張ってあっちむいてほいをし始めた。首を勢いよく傾けすぎると首の関節を痛めそうなので、ゆっくりと応じる。
※
夜、夕食後に洗い物をして、しばらくほったらかしにしていた刺し子手芸をした。白い布巾に紺色の糸が波のように進んでいく。紺色が好きだ。気高く孤独な色。海とは違う、深い青。黒のようににごっていない、白のようにやわらかくも、潔白でもない。深く存在感のある色。
良明が飲み物を取りにやってきた。湯から上がったばかりのようで髪の毛がややしっとりしている。肩にかけたタオルをがしがしと頭にあてがっている。
亜子ちゃんたちの様子を聞かれた。兄として気になるのだろう。私はある話を良明にし始めた。
夕方になって亜子ちゃんと旦那さんが茂さんの家に戻ってきた。道の駅で買ってきたにんじんと蓮根を、私へのお土産と言って渡してくれた。お茶を入れてひと段落してもらう。茂さんもそこに加わる。
「京子さん、今日は鈴の面倒をみてくれてありがとう、助かっちゃった」
「こちらこそお墓参りに行ってくれて助かるわ。鈴ちゃんはいい子だったよ。そんなに手はかからないし。ただ公園に行ってジャングルジムに上りたいっていうのだけは『京子おばちゃんは何かあったら助けてあげられないからやめて』って必死に止めたけどね」
「そりゃいけないな、俺らは転んで下手したらあの世に逝っちまうからな」と茂さんが道の駅のお土産の味噌ピーナッツをつまみながら言った。
こういう自虐ギャグを言うようになったら年寄りの証拠だと重ねて私が言うと、亜子ちゃんたちはくすくすと笑い始める。
「ねぇ京子さん、鈴のことで悩みというか……ひとつ聞いてもらっていいかな?この前、保育園で『この子は心に何か問題を抱えているんじゃないか』って保育士さんから話があったの」
少し離れた和室で、鈴ちゃんは昼寝をしていた。すやすやと寝息を立てて幸せそうだ。この子のどこに問題があるのだろうか。
「それで理由を聞いてみたの。市の子供の心を扱っている心理士さんが見るって言うから。『私の好きなもの』っていう課題でね、みんなでお絵描きをしたんだって」
続けて亜子ちゃんの旦那さんが話し始めた。普段おっとりしている彼もこの件については黙っていられないようだった。
「みんな、お花の絵とか、ハンバーグとか、お母さんとか、任天堂スイッチとか、そんな感じの絵を描いていたらしいんですよ。そんな中で、鈴はただ一人、画用紙を真っ黒に塗りつぶしたらしい」
「真っ黒?」
私は問い直す。
「そう真っ黒。画面いっぱい黒のクレヨンで塗りつぶして……。保育士さんが驚いて『どうしてこんな風に塗ったの?』って鈴に聞いたんだけど、鈴は何にも答えなかったみたいで。僕が訊ねても黙って下を向いて答えてくれないんです」
ふぅとひと息つく。どこかで、犬の鳴き声がする。近所の犬が吠えているようだ。壁にかかっている絵を眺める。友達が描いてくれた雄大なくじらの絵。尾ひれと共にはねるしぶきの力強さ。
冷蔵庫に麦茶の容器を戻した良明は
「過剰じゃない?」と一言つぶやいた。
「そんなことで心理士出てくるのってどうなの?俺は過剰だと思うけどね」
白熱灯を見てある記憶が蘇った。青ざめたような透明な月の色。かなしみや痛みが村中に沁み渡ったあの日。取り返しのつかない時間。刻まれた記憶。
「あの子が亡くなってからなのよ」
良明の動きがピタっと止まった。
「あの女の子が海で亡くなってから、この村は変わってしまったように思う」
光が時間の中を流れていくのを感じた。
みぞおちの辺りが重くなる。
雪の中。
帰ってこなかったひとつのぬくもりが
静けさの中で呼んでいるような気がした。
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