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Dive(5)【創作】

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【5話 藤の花と変えられない世界】

 あれはいつの頃だろう。
 春の宵。
 くたびれて、うなだれながら帰路につく。
 U字溝の水流が速い。
 あめんぼが水たまりをはっている。
 あたりは暗くなってきた。
 あの日、私は何かに傷ついていたように思う。
 足取りは重く、頭は冴えなかった。
 朝方、海は荒れて時化しけだった。
 この天候では漁師仕事に関われない。
 あきらめてパチンコに行くか
 家でふて寝しているか。
 そのような若者も多かった。

 とぼとぼと歩く。
 ふと見上げると、紫の藤の花が現れた。
 夫の辰之助が人差し指を立て、指さす。
 長くしな垂れる花房。高貴な淡い紫色。
 風でカーテンのようにゆらゆらと揺らめいた。
 夫はにこにこと振り返り「今日の一番」とつぶやいた後に「優美だなぁ」と一言私に告げた。


 送迎バスに乗車している。様々な風景が流れていく。遠景に魚市場があり、防波堤が海を囲う。緑の草木が国道沿いに大きくそびえ立っている。頂上にぽつんと立派な別荘の屋根がいくつか顔をのぞかせ、田植えをしたばかりの苗が一面に広がって、水面には青空が写し出されている。

 景色を何となく眺めていると、意識がぼんやりとした。その時に昔の記憶が何かと結びついて私の脳内に現れる。そして過ぎ去っていく。白昼夢のようにそれらはやってきて、私にとても心地がいいイメージを残していった。ざわざわとした人の話し声が耳に入り、現実にはっと戻される。

 今日はデイの日だ。毎週木曜日。私は施設へ向かう。

 ※

「お前がいけないんだろうがよっ!!」

 男性の怒声が聞こえてくる。けれども私たちは既にその声に聞き慣れていて、身じろぎもせずに自身の作業を続けている。
 私は、目の前の和代と、隣の華さんと三人で地元名物カルタの勝負をしていた。景品は筍。正次さんの自宅の裏庭になる筍が余って、行く末に困っていることを聞きつけ、カルタ札を一番多く取った人が受け取ることになっていた。

 「おぉおぉ、やっとるなぁ」

 正次さんはうちわを仰ぎながら、のんびりと騒ぎの方向を眺めた。今の時間は男性が入浴の番で、彼も先ほど浴室から出てきたばかりだった。カルタの読み上げ役を探していた私たちにタイミングよくつかまってしまった正次さんは、快くその役を引き受けてくれた。

 怒声の主は、アキラさん。私が通っているデイの中でも若者の男性だ。
 五十代半ばの脳ドックで動脈瘤が見つかり、不運にもその手術中に脳卒中を発症してしまった。数々の後遺症が残ったと聞いている。

 そのひとつが「失語」。彼は、自身の思った気持ちをうまくことばに表すことができなかった。その苛立ちや、ままならなさに、時々感情が爆発する。火山のようにドカンと怒りを相手にぶつけてしまう場面を、私たちは何度も目撃している。

「私、怒っているアキラさんの気持ちもわかる」
 和代は、残り少なくなったカルタを近くに寄せ集めながら話し始めた。

「アキラさんの言ってることは正論だと私も感じる時があるよ」
 私は和代に返事をした。

「二人ともさ......いつだって、誰にだってやさしいんだから。私はどんな理由があれど、ああやって人に怒鳴り散らすってのは、苦手。私も怒鳴られたことがあるけども、目の前でやられたら本当におっかないんだから」
 華さんは眉間に皺を寄せて指で目を釣り上げた。おそらくアキラさんのモノマネをしているのだろう。

「男ってのは、プライドとか期待みたいなもんがあるんだよ。邪険に扱われたと感じた時、期待通りにならなかった時、全ては裏返って怒りになる。彼は若いのに、突然病気になってしまって、誰にもどこにもぶつけられない思いが元々あるんだろう」
 正次さんは、ずれた丸い眼鏡を目元に戻しながら穏やかに話した。白いシャツとチノパンの組み合わせが大正時代の人のようだ。

「正次さんにはなさそうね」
「正次さんは『怒り』より『イカ』って感じ」
「くねくねして骨がないというか」
「ヤリイカかなぁ、それともケンサキイカか......」
「それとなくおだやかに人をあおっている時があるからアオリイカじゃない?」
「頭が丸いからコウイカっぽいわ」

 三人で勝手にわいわいと、終いには人の頭の話題で盛り上がっているのを見て、正次さんは苦笑しながら
「ほらほら読み上げるぞ〜聞き逃しても知らんからな!『陽射し浴び 色とりどりの 花畑』!ひ!だぞ、ひ!」とカルタを読み上げた。
 鋭く右手を差し出して華さんが「はい!」と言いながらカルタを押さえた。

 この年代の男性は、正次さんのように穏やかな方が稀なのかもしれない。どこかえらそうな態度であったり、若者や女性を見下したり、怒りの感情をむき出しにして圧をかけてくる人は、それほどめずらしくない。
 アキラさんの怒りの理由は、第三者から見ても明確であることが多い。配慮のなさや、雑な態度、デイでのルール無視といった理由が相手に見え隠れしている。だからと言って華さんが言うように大きな声で威嚇しなくともいいのかもしれない。

 勝負は私の勝ちだった。帰りの送迎バスで、正次さんのお家に寄った際に、筍を頂いた。

 週に一度デイに行く。デイサービス「なぎさ」は、一日二十人弱の利用者が通い、スタッフも多様なメンバーが在籍している。ゴルフが好きなデイ介護主任の半沢さん、さわやかでハンサムなリハビリの緒方さん、モノマネが得意な運転手さんの片山さんなど、様々な人たちの支援で、私たち高齢者の生活は成り立っている。

 デイに来ると『最後の審判』を思い出す。

 ルネサンス時代のキリスト教の宗教画の一つである最後の審判には、キリストによって裁かれた天国や地獄へ向かう人々を含めた四百人以上の人物が描かれている。私もあの絵画の一部で、デイの利用者もそこに描かれていそうだ、と思うことがある。
 バチカン市国のものが有名だが、以前テレビで見たルーマニアのフレスコ画の壁画の青が印象に残っている。

 ここでは神もいないし裁く者はいない。けれども皆に等しく「生」も「死」も降り注いでいる。そして、どのように私たちが日々生きているのかを、時々何かにジャッジされているのではないかという感覚に陥る。
 「おてんとうさまが見ているよ」と言われるが、かなり日本人らしい言い伝えだなと思う。太陽からは全て見えている。そして、徳を積んだり、振る舞いによって罰が当たったりしている。

 私はデイのトイレにいつも飾ってある「花」が気になっていた。季節に合わせたお花が深い青色の花瓶にいけてある。これは誰が用意しているのだろう。今日は白と薄紫のスカビオサだった。もこもことしていて可憐だが、楚々とした雰囲気も持ち合わせている。誰かの好意が、誰かの気持ちを緩ませ、ほぐし、押し上げる。

 私もそのようなことがささやかにできる人間で在りたいなと、願う。


 生姜を千切りにする。頂いた筍を食べやすい大きさにカットする。正次さんのおうちで下処理してくださったから調理が楽で助かった。砂抜きしたあさりをよく洗って鍋にお水とお酒を入れて、口が開くまで蒸す。殻から身を取って、炊飯器にお米とあさりを入れる。先ほどの生姜、筍、あさりの蒸し汁、カットしてあった油揚げ、みりん、塩、しょうゆで味付けして炊く。

 筍ご飯は良明にとても喜ばれた。翌る日の茂さんのお弁当にもおにぎりにして持って行った。旬のものを頂けることがありがたいなと思う。

 良明は、家でも狐の踊りの練習をしていた。本番で手にする榊の代わりにはたきを持っている姿にどことなくおかしみを感じるが、もしかして今年の夏にはデビューできるかもしれない。しなやかに動く身体、軽やかなステップ、鋭い目線に、思わず見惚れることも度々あった。
 笛の音も、少しずつ音ズレが修正されてきているようだ。そして「仕事のことで呼び出された」と言って、またアメリカへ飛び立って行った。

 静寂が訪れる。誰かがいることで緩んでいた気持ちを引き締め直す。一番は転倒しないことが目標だ。ケアマネさんとも月一度そんな話をする。もう入院生活は送りたくない。



「あのさ、正次さんが家に来たの」
 デイの日。華さんがこそっと私に話しかけた。
「めずらしいわね、どうしたのかしら」
「『私に謝ってほしい』って」
「え!?」
 思わず声が大きく出たので、口を押さえた。あの穏やかな正次さんがどうして......と疑問に思ったが、私たちは集団体操中であった。前方に座っている半沢主任が動かす真似をしながら、両手を上げたり、足を伸ばしたりしていた。首だけ華さんに向き合って話の続きを待つ。
「この前ね、昔話をしてたの。よく男たちだけで海外に旅行に行ったじゃない?昔はさ、そこで現地の女の子を買ったり......ひどいことだと思うんだけども、当時は普通にやっていた人も多かった。そこでね、正次さんが『僕はある女の子と仲良くなった』っていう話をし始めて。会社の上司や同僚がもうそれが当然みたいな感じで、正次さんのところにもタイの女の子がやってきた。けれども、正次さんはその子には一切手を出さずにお話だけして返したって言ってて」
 私は頷くのが精一杯だ。華さんは話し続ける。
「『仲良く話せた』『時々あの子がどうしているか思い出す』と言うから『そんなの嘘なんじゃないの?』『本当は誘惑に負けたんじゃないの?』って私もつい冗談っぽく口を出しちゃったのよ。その場では彼は笑ってはいたけども、その日の夕方にわざわざ私の家に来てさ......」

 正次さんは華さんに謝罪を求めた。「傷ついたから謝って欲しい」と。華さんはとても驚いたが、彼に素直に「ごめんなさい」と謝った。正次さんは納得しながらも悲しそうな表情で出て行ったとのこと。

 彼にとっては美しい思い出の一つでもあり、自分のアイデンティティに関わる大事な出来事であったのだと想像する。それを踏みにじられたような気持ちになったのだろうか。
 けれども、華さんは華さんで、男性に対する失望と諦めと怒りのような想いがあることを私は知っている。彼女は夫と離婚したが、酒癖の悪い夫から長年暴力を受けたり、若い頃も見知らぬ人から性加害にあったりと、ひどい経験を積み重ねている。華さんのようなケースは、私たちの年代には珍しくない。時代によるものは大きいし、声に出さない人も多いのは知っている。女性側もむしろそれが当然だと思い込んでいる人もいるのだ。女性を物のように扱うこと。華さんが信じられない気持ちを持つのも当然だと思う。

 華さんは私に話してやや気持ちがすっきりしたようで、また体操に向き合った。そのあと今度は廊下でアキラさんが半沢主任と話し込んでいる姿を見かけた。会話の内容が途切れ途切れに聞こえてきたが「このままじゃ、デイに来るのが難しくなっちゃうよ、アキラさん」と半沢主任が困惑した表情で彼に告げていた。

 どうやら、また他の利用者さんに怒鳴ってしまったらしい。混雑しているトイレの順番を抜かした人に怒鳴っていたようだよ、と。和代さんが後から成り行きを教えてくれた。抜かした人は認知症のある利用者さんだった。


 様々な怒り、かなしみ、よろこびがこの狭い空間の中でも巻き起こっている。ここは、世界の縮図のように感じる。夫がいれば、おそらく私は帰って話しただろう。今日はこんなことがあった、この人はこんな考えで生きているようだ、と。
 レコードをかけた。「アクロス・ザ・ユニバース」のレコード盤が、以前良明がかけたままになっていたので、夫のよく座っていたシングルソファにもたれて聴く。

Nothing's gonna change my world

(何ものも私の世界は変えられない)

 一匹の蜘蛛が壁をはって、窓にはりついた。繰り返されるメロディとフレーズに耳を傾けながら、蜘蛛の行く末をぼんやりと眺める。いつのまにか私はうとうとと眠りの世界に入り込んだ。


 その翌週のデイ。私はリハビリの緒方さんに、自主トレの方法を確認してもらっていた。時々緒方さんは、一人暮らしの私のことを気にして声をかけてくれる。私はいつも朝に行っているルーティンの体操と、関節の痛みと、日々の体調について彼に伝えた。皆、陰で「ハンサム先生」とあだ名をつけている。先生は小顔で手足も長く背も高い。目の前でさわやかな空気を充分に味わったまま、席に戻ろうとした。

 けれども、私の後にリハを受けたアキラさんの様子に思わず目を奪われてしまった。緒方さんは洗面台で藤の花をアキラさんにカットするように促した。左手でハサミを使うアキラさんを緒方さんがサポートし、藤の花を花瓶にさして、アキラさんは左手で花瓶を持ったまま、トイレに向かった。

 普段、アキラさんは杖を使っている。杖を使わないと少しよろよろはするものの、懸命に一歩一歩踏み出して歩いている様子がこちらにも伝わってくる。

 アキラさんの後ろ姿を息を呑んで見守っていると、そんな私に気づいたのか、緒方さんが話しかけてきた。

「ずっと杖を使わないで歩く練習をリハビリでやってたんですよ。少しずつ様になってきてね。アキラさんはいつもお家から綺麗なお花を持ってきてくれてるのを僕は見て知っていたので、せっかくだから、自分でいけて飾ってみたらどうかなって提案してみたんです」

 しばらくして戻ってきたアキラさんに「ちゃんとできたじゃないですか。僕の言ったとおりでしょ」と、緒方さんは賞賛のことばを投げかけた。

 アキラさんは照れくさそうな顔をして、自身の席へと戻って行った。

 トイレに向かうと藤の花が鮮やかに飾られていた。心がやさしくあたたかくなった。けれども、また一波乱、今度は私の身に降り注いだ出来事があった。


 華さんがまたあることを話しかけてきた。それは、私の夫の話だった。
「あなたがこの前、辰之助さんについての印象や思い出す出来事を教えてって言ってたでしょ」
 彼女は言い出したものの私に伝えることについて最後まで躊躇っていた。けれども意を決したようで私に話し始めた。

「辰之助さんがね、女の子といる姿を見かけたの」

 制服を着た学生とその時期、度々歩いているのを見かけたと。

 真新しい情報が来たよ、と。心の中で良明に答えた。あわいから飛び出した私を待っていたのは、私が知らなかった、見えていなかった世界だった。



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