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あの日から、本を読まなくなった◇03

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あの日から、本を読まなくなった # 03

「まだ満開じゃないですけどね。四月に入ると綺麗な桜並木になるんですよ」
 
瞼を上げて、バックミラー越しに運転手の顔へ視線を向ける。
 
「へぇ……そうなんですか」
 
知っている。何度もこの並木道を通っていたのだから。三月も下旬になればほとんど満開に近くなるし、四月にはさっきの神社に出店が並んで賑わう通りになる。彼と綿飴を食べた思い出も、アメリカンドッグを食べて、互いに鼻や口にケチャップを付けて笑った思い出も、まだ思い出せる。
 
窓の外では、延々と続いていくような提灯の灯りが風で揺れていた。
 
その日の朝、彼の席は空いていた。誰もがきっと、なにかしらの病欠だと思っていたかもしれない。ホームルームの時間をずいぶん過ぎたころ、担任が教室に入ってくると、ちりじりになっていた生徒たちは席に着いた。そのとき、わたしは空席が彼の机だということに気が付いた。
 
いつもの調子で号令が終わると、担任は額に指を当てながら、教壇の前で口をひらいた。彼が今朝、倒れたという。一通り説明は受けたけれど、わたしには全てを理解できなかった。わかったことは、今朝、登校する前に嘔吐して、頭痛を訴えたこと。そのまま病院に運ばれたこと。なにかしらの重病であることだけはわかった。詳細な説明ではなかったし、子供のわたしたちには難しかったのかもしれないけど、おそらく、脳梗塞とか脳挫傷といった、脳に関わる病気だったのだろう。なんとなく薄っすら記憶しているのは、信じられなかったし、嫌だと単純に思った気がする。でも、それ以上に担任の次の言葉がわたしには衝撃的で、印象に残っている。
 
「そういうことだから、みんなも気をつけて」
 
なにに気をつけろというのだろうか。子供ながらに、気をつけてどうにか避けられる病なのかという疑問が頭に残ったのを覚えていて、急になぜだか担任が怖い人のように思えたのも記憶に残っている。
 
そこから彼が復帰するまでの期間がどれくらいだったのかは、あまり覚えていない。でも、想像しているより早かったような気もする。母はお見舞いに行ったようだけど、わたしを連れて行こうとはしなかった。その理由について尋ねたことはないけれど、彼、もしくは彼の両親への配慮だったのかもしれない。
 
彼はそれまでと変わらず、元気に登校してきた。右半身不随で。
 
松葉杖をつき、頭には網のような包帯が巻かれていた気もするし、帽子をかぶっていた気もする。ずいぶん太っていて、姿形はそれまでの彼とは別人だった。わたしはそれを見て、明確に気味が悪いと感じてしまった。
 
声も彼だし、しゃべり方も彼なのに。姿だけが別人で、走ることも歩くことさえままならず、それでも以前と変わらず元気に振る舞う彼を直視できなかった。きっと彼の家族は、命が助かったその一点に関しては安堵したはずだし、本人も悩んだ末に登校したかもしれないのに、わたしは彼の姿に嫌悪を抱いた。
 
その日から彼と下校することはなくなった。わたしが避けたわけでもなくて、彼は親が車で迎えにきていたから、今までのように一緒に下校はできなくなった。そのとき、わたしはほっとしたのかもしれない。それからわたしは卒業するまでひとりで下校した。
 
バレンタインも、親に持たされたチョコとは別のチョコをあげていたのに、その年からわたしは誰にもあげなくなった。変わったのはわたしだけではなかった。
 
クラスのみんながどう思ったのかはわからないけれど、最初は同情的だったことは、空気が教えてくれた。彼のできないことを手伝っていたし、特別扱いも確かにあった。いま考えるとつまらないことばかりだけれど、給食当番や掃除当番、日直は免除されていたし、帽子を被るのも早退も許可されていた。ある意味では、彼を中心に輪ができかける。けど、誰かがそれを負担だと言い出して、誰かが彼は調子に乗っているのではと疑った。たぶん、そのあたりからクラスの空気は彼に冷たく、鋭くなっていく。そして、教室にまたひとついじめが増えた。
 
それが原因かはわからないけれど、結局、彼は進級する前に学校から去っていった。取り繕うように催されたお別れ会で、みんな最後は笑顔で見送っていたけど、わたしは少し離れたところから彼を眺めるだけだったし、寄せ書きにも「がんばって」のひと言しか書けなかった。彼もまた、わたしに話しかけることはしなかった。
 
後日、彼の家族は引っ越しをして、どこへ行ったかわからない。たぶん、母に尋ねたら知っているだろうけど、わたしは尋ねない。そして、彼と一緒に下校しなくなったあの日から、バスの中で本を読まなくなった。
 
「お客さんは、花見などはしませんか」
 
信号で停車すると、運転手がそう尋ねてくる。
 
「したことないですね」
 
わたしが答えると、運転手は大げさな相槌を打ってから、フロントガラスを覗き込むように桜の木を見上げた。
 
「へえ、そうですか。若い人は花見なんてしないのかもしれないですねえ。でも、嫌いってわけじゃ、ないんでしょ?」
 
「桜が、ですか?」
 
「え?……ええ。まあ」
 
「嫌いじゃないですよ」
 
「ですよねえ」
 
嫌いなのはわたし自身だ。
 
特に鮮やかに咲き誇る桜の前では、醜さを嘲笑されているような気がするから。この通りを使いたくはない。
 
わたしは過去を後悔なんてしない。たとえ、その行いが間違っていたとしても、過去の判断は当時の自分にとっては正しいからだ。だけど、その判断の結果が、必ず正しいものとは限らない。ニーチェほど冷徹にはなれないけれど、キルケゴールほど後悔に意味を持たせたりしたくはない。わたしの人生は過去も未来も前向きなんかじゃないから。
 
バスを降りて鳥居の前を通ると、残像のように目に焼き付いた光景を思い出す。彼が手水舎までわたしの手を引いて連れていき、柄杓で水をかけてくる姿。怒るわたしを面白がって笑うあの憎たらしい笑顔。
 
少しずるいけど、わたしもきっと彼を好きだったんだと思う。


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