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ウッディ・アレンの映画は、ADHDの脳の設計図だった

映画『アニー・ホール』『マンハッタン』『スターダスト・メモリー』『人生万歳!』まで——止まらぬ脳を抱えた前代未聞の自己発見

ウッディ・アレン監督作は、なぜあれほど「頭の中が、そのまま外にこぼれ出ている」感じがするのか。AuDHD当事者の私が、神経発達特性という奇妙な眼鏡をかけてアレンの代表作を覗いたとき、スクリーンの向こうに見えたのは——遺憾ながら、ADHDの脳の、あまりに精巧な設計図であった。映画考察と脳科学と、過剰な自意識を煮込んだエッセイである。
※本記事はウッディ・アレン監督の作品を神経発達特性の観点から考察する映画エッセイであり、監督個人の診断に関する断定ではない。

AuDHD(ASD×ADHD)とは、自閉スペクトラム症と注意欠如・多動症を併せ持つ神経発達特性のこと。くらっくらはその当事者である。

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序章:ウッディ・アレンという「現象」と、暗がりの私

私がウッディ・アレンの映画と出会ったのは、まだ「ADHD」という四文字を、自分という阿呆に結びつけてもよいのだと知らなかった頃である。

最初に観たのは『アニー・ホール』(1977年公開)をDVDで10代の時に鑑賞した。

正直に白状する。最初の感想は「なんと落ち着きのなく独善的で自分よがりな映画であろうか」というものだった。時系列は前後に飛び、主人公はおもむろにカメラへ語りかけ、子供時代の回想が割り込み、いつのまにかアニメーションになり、字幕で「本当はこう思っている」という心の声まで暴露される。要するに、てんやわんやなのである。

それから30年。
40歳を過ぎたある晩、寝床の中でふいに気づいてしまった。気づかなければよかったのに、気づいてしまったのだ。

「ウッディ・アレンの作品は私の頭の中と、寸分たがわぬ構造ではないか」

時系列の崩壊。脈絡のない記憶の乱入。目の前で起きている出来事より、脳内の独り言のほうが大声で喋っている、あの感覚。

すなわち、ウッディ・アレンの映画の「形式」そのものが、ADHDの脳の「動作様式」と、不気味なほど似通っているのではないか——。

かくして私は、この仮説をひとつの松明のように掲げ、彼の作品群を改めて巡礼することにしたのである。我ながら、暇である。

なお、アレン監督が何らかの神経発達特性の診断を受けているか否かは、公にされていない。以下はあくまで「作品の特徴と神経発達特性の類似点を眺める」という、一当事者の手すさびとしてお読みいただきたい。

そして願わくば——溢れて止まらぬこの脳内の洪水を、私もまた、noteという小さな水路に流し込めたなら。そう思いながら、この巡礼は始まったのである。


第一章:『アニー・ホール』——時間が、行儀よく並んでくれない

『アニー・ホール』のアルヴィ・シンガー(アレン演)は、作中で過去・現在・未来を、まるで近所を散歩するように自由に行き来する。

恋人アニーとのやりとりを振り返っていたかと思えば、唐突に子供時代の教室へ舞い戻り、当時の自分と大人の自分が肩を並べて会話し、そこからまたアニーとの別れの場面へと飛んでゆく。

この「非線形ナラティブ」は、映画技法としての革新性として語られることが多い。けれども私の目には——

ADHDの時間認識そのものに見えてしまうのである。

ADHDの脳は「時間盲(Time Blindness)」と呼ばれる特性を示すことが多いとされている。「今」と「今以外(過去・未来)」という、ずいぶん大雑把な二分法で時間を体験する傾向のことだ。定型発達の人が「5年前」「来年」と具体的な目盛りで時間を感じるとき、ADHDの傾向がある人は、過去も未来もまとめて「なんとなく遠いところ」として処理されやすいという考え方がある。

その代わり、「今ふいに思い出したこと」だけは、異様に鮮明な実感をもって体験される。

アルヴィが子供時代の教室に「今まさに」戻っているあの感覚——あれは映画的な嘘ではなく、ADHDの脳にとっての、まぎれもない「本当」なのかもしれない。

過去は、思い出した瞬間に、ずうずうしく「今」になる。

かく言う私も、約束の時間に遅れて平謝りすることが、人生において数え切れぬほどある。時間という奴は、私の中でも、ついぞ行儀よく一列に並んではくれなかった。アレンはその不行儀を、映画という形式で堂々と視覚化したのである。


第二章:第四の壁の崩壊——「今すぐ出力せよ」という脳内の暴君

アレン作品の最も愛すべき悪癖の一つが、「第四の壁(Fourth Wall)」の破壊である。

『アニー・ホール』では、路上の見知らぬ人に意見を求め、行列で蘊蓄を垂れる男に勝つためにマクルーハン本人を画面に連れてきて論破させ、挙句の果てにはカメラへ直接「ね、分かるでしょう?」と語りかける。

これは映画的実験として称賛される。けれども——

ADHDの脳内では、これが、年中無休で起きているのである。

ADHDの特性として「内から外への衝動性(Inside-Out Impulsivity)」というものが語られることがある。脳内で考えたことが、「内なる検閲官」の審査を通過する前に、ぽろりと口から転がり出てしまう傾向だ。

アルヴィがカメラへ話しかけるとき、彼は「今ここにいる観客( = 脳内のもう一人の自分)」に向かって、思考を惜しげもなく垂れ流している。物語と並行して、脳内会議が常時開催されているのだ。

自分の思考を観察しながら、同時に、その思考を実演する。この並列処理こそ、アレンの世界観の根っこにあるように見える。

ちなみに私は、会議の最中に思いついたことを我慢できず口走り、場の空気を凍らせた経験が、両手の指では到底足りぬほどある。脳内の暴君は「今すぐ出力せよ」と命じる。遺憾ながら、私の口は、いつもその命令に忠実なのである。


第三章:『マンハッタン』——過集中と理想化の、華麗なる暴走

1979年の『マンハッタン』では、アレン演じる42歳のアイザックが、17歳の少女トレイシー(マリエル・ヘミングウェイ)と関係を持ちながら、より知的に対等な女性メアリー(ダイアン・キートン)へ乗り換え、最終的にはまた少女の純粋さへ立ち返る——という物語が展開する。

この作品が現代の価値観で厳しく問われる側面は、ここで改めて言うまでもない。私が注目したいのは、ただ一点、「理想化」のパターンである。

ADHDの傾向がある人は、新しい対象を過剰に「完璧なもの」として認識してしまう、軽躁的な理想化を起こしやすいとする見解がある。

新しい人・物・アイデアに出会った瞬間、脳の報酬系がお祭り騒ぎを始め、現実の凸凹がきれいに見えなくなる。

アイザックはマンハッタンという街そのものを理想化し、愛する人を理想化し、その理想が崩れるたびに、せっせと次の理想を探しに出かける。

これは「ADHD的な飽き」と、表裏一体の現象である。理想化の段階では、過集中と情熱とエネルギーが盛大に爆発する。ところが「現実」が顔を出した途端、報酬系の花火が消え、それは静かな「飽き」として体験される。

アレンの主人公たちが繰り返す「乗り換え」は、この理想化と脱理想化のサイクルを、ずいぶん正直に描いているように見える。

——告白すれば、私の本棚には「これさえあれば人生が変わる」と確信して買った手帳・ガジェット・自己啓発書が、うずたかく積まれている。三日後には、もう次の理想を物色しているのだから、我が脳の報酬系の移り気には、いっそ感心するほかない。


第四章:『スターダスト・メモリー』——褒められても、なぜか足りない

1980年の『スターダスト・メモリー』は、アレンの最も自己参照的な作品の一つである。これはフェリーニの自伝的作品『8½』を下敷きにしており、「映画監督が自身の人生を再考する」という入れ子構造そのものを借りている点が、まず示唆的だ。

成功した映画監督サンディ・ベイツが回顧上映に招かれ、ファンや批評家、昔の恋人たちと交わる中で、自分の芸術の意味と人生の価値を問い続ける——という物語である。

だがこの映画の真の主題は、私には「承認飢餓」に見えてならない。

主人公は成功している。評価されている。愛されてもいる。それでも、彼の周囲のファンは口を揃えてこう言うのだ。「昔の、もっと面白かった映画のほうが好きだったな」と。

褒められているはずなのに、刺さる。称賛のたびに、なぜか傷つく。

これは、慢性的な承認飢餓を抱えた人間の、実に典型的な振る舞いである。

外部の承認が、どれほど積み上がっても、内側の「まだ認められていない」という穴を、ついぞ埋めることができない。なぜなら、本当に飢えているのは「外からの評価」ではなく「内なる自己肯定」だからである。

アレンはこの「いくら称賛されても満たされぬ感覚」を、映画の中で映画監督を演じるという自己参照的な形式で表現してみせた。内側の空虚は、外側の成功では埋まらないのである。

——ここで一つ、白状せねばなるまい。私はこの記事を公開したのち、スキの数を一日に何度確認するであろうか。嗚呼、考えるだに恥ずかしい。私の中にも、サンディ・ベイツが小さく座っているのだ。


第五章:『人生万歳!』——ボリスのモノローグは脳内放送である

2009年の『人生万歳!』は、「これはADHDの脳の一人称ナレーションを、そのまま映画化したものだ」と最も強く膝を打った作品である。

ラリー・デヴィッド演じるボリスは、ほぼノーベル賞候補だったと自称する物理学者であり、冒頭からカメラに向かって、自らの哲学を延々と垂れ流す。世界がいかに不合理か、人間がいかに愚かか、自分がいかに正しいかを、圧倒的な知識量と論理の速度で語り続けるのだ。

しかし、彼のモノローグの真骨頂は——脱線が、おそろしく多いことにある。

生きる意味を語ろうとして、なぜか量子力学に飛び、そこからニーチェへ跳躍し、気づけば隣人の食事の不作法へと着地している。

これは、ADHDの「連想的思考(Associative Thinking)」の、完璧な映像化ではないか。一つの思考が次の思考を呼び、その思考がさらに次を呼ぶ——この連想の鎖が、ADHDの脳では非常に高速で起きやすいとされている。定型発達の直線的な思考に対し、ADHDの思考は「ネットワーク型」に広がる傾向があると述べる研究者もいる。

ボリスのモノローグとは、そのネットワーク型思考が、「喋る」という出力チャンネルを通って、外界へ漏れ出したものなのだ。

彼は止まれない。脳のネットワークが、止まることを断固として許可しないのである。

私はボリスを見るたびに、親しみと憐憫の入り混じった、なんとも複雑な感情を覚える。すなわち、「分かる。痛いほど分かる。でも、頼むから外でやるな」という感情だ。

——そして、ここで私は一つの天啓を得るのである。ボリスが街角でやってしまうことを、私はnoteの中でやればよいのではないか、と。脳内放送を垂れ流す場所さえ正しければ、それは奇行ではなく、エッセイと呼ばれるのだ。願わくば、私もこの止まらぬ独白を、noteという暗がりで存分に発散できていたなら、どれほど救われることか。


第六章:アレンの「不安」は、退屈に耐えられぬ脳の自家発電である

ウッディ・アレンの映画を貫く、最も一貫した通奏低音は「不安」である。死への不安、無意味への不安、愛されぬことへの不安、自分の価値への不安。これらは彼のほぼ全作品に、形を変えて流れている。

神経科学的に見ると、ADHDの脳は「覚醒の調節」に課題を抱えることがあるとされている。

ADHDの傾向がある人の脳は、刺激の乏しい状況に置かれると、内側から「不安」という形の覚醒を、せっせと自家発電することがあるという考え方がある。「何も起きていない」という凪の状態への耐性が低く、脳が自ら心配の種を蒔くことで、覚醒のレベルを保とうとする——というわけだ。

アレンの主人公たちが「何の問題もない平和な時でさえ、何かを心配している」のは、この「不安は覚醒の別名である」という仕組みを、正確に描き出しているように見える。

不安とは、ADHDの脳が、自分自身を叩き起こすための自動機能なのである。

これを知ったとき、私はアレンの主人公たちに、いささか親しみを覚えてしまった。なにしろ私の脳にも、まったく同じ機能が、ご丁寧に標準搭載されているのだから。穏やかな休日の午後にこそ、なぜか胸騒ぎがするのは、退屈に耐えられぬ脳の、健気な空回りなのだ。


第七章:「脳のバグ」が芸術になる、その一点について

ウッディ・アレンが映画監督として成し遂げたこと。それは煎じ詰めれば、「ADHDの脳の動作様式を、映画という芸術の言語へ翻訳した」ことではないか、と私は考えている。

  • 時系列の崩壊 → 非線形ナラティブ。

  • 今すぐ出力せよ → 第四の壁の破壊。

  • 連想的思考 → 脱線するモノローグ。

  • 時間盲 → 現在と過去の渾然一体。

  • 承認飢餓 → 自己参照的な作品群。

  • 慢性的な不安 → 哲学という普遍のテーマ。

これらはすべて、「バグ」として処理すれば、ただの生きづらさで終わる。

しかし「特性」として認め、それを表現の媒体へ翻訳できたとき——個人の奇癖は、普遍の芸術に化けるのである。

脳の仕様は、置かれた文脈によって、バグにも強みにもなる。

アレンはそれを、映画という壮大な文脈の中で証明してみせた。そして私は、noteという、比べるのもおこがましいほどささやかなスクリーンの上で、同じことを試みている。規模は天と地ほど違う。方向だけが、かろうじて似ているかもしれない。

(——と、ここまで書いて、世界的な映画監督と自分を同じ俎上に載せている己の図々しさに気づき、頬が熱くなる。自惚れと知りながら書いてしまうこの厚顔こそ、ADHDの特性かもしれぬ。諸君、平にご容赦を)


終章:スクリーンの向こうの、止まらない脳へ

ウッディ・アレンは「私の映画は、すべて失敗作だ」と言い続けているとされる。どれほど評価されても、どれほど賞を受けても、内側の「まだ足りない」が、ついに消えない。

これは承認飢餓の、典型的な症状である。

だが同時に——その「まだ足りない」こそが、次の作品を、そのまた次の作品を生み続けた。不満足とは、創造のエンジンなのだ。

ADHD脳が抱える「今のままでは終われない」という衝動は、正しいチャンネルさえ見つけたとき、驚くほどのエネルギーを、ただ一点に集中させることができる。

止まれない脳は、正しい方角を見つけたとき、誰よりも遠くまで走ってゆく。

私も、止まれない。言いたいことが常に溢れ、関係ない記憶が会話に乱入し、脳内では今この瞬間も、四つの思考が同時に全力疾走している。

しかし今、私はそのエネルギーを、noteという一本の水路に向けている。

ボリスが街角で垂れ流したモノローグを、私はこの暗がりで文字にする。
アルヴィが時系列を崩したように、私も思い出を順不同のまま差し出す。
サンディが承認に飢えたように、私もスキの数を数えてしまう。
——それでよい。発散する場所さえあれば、それは奇行ではなく、エッセイになるのだから。

願わくば、いつかこの脳内の洪水を、noteという小さなスクリーンの上で、心ゆくまで発散できていたなら。そう思えるだけで、今日の私は、少しだけ救われる。

スクリーンの向こうで、止まらぬ脳を抱えて映画を作り続けた人へ。あなたの映画は、阿呆な私に「この脳は、芸術になりうる」と教えてくれた。ありがとう、と言わせてほしい。

そしてボリスの長広舌を聞きながら「分かる、でも外でやるな」と呟いていた方々へも。

私たちはみな、少しずつ、ベシャクシャと喋り散らす側でもあり、無言でぐっと耐える側でもある。それで、よいのである。

今日もスクリーンの向こうで、誰かの止まらない脳が、何かを必死に翻訳している。私もまた、この水路の前で、もうしばらく、止まらずにいようと思う。


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