【短編】ポスト(2)
2.竹ノ内町
「大丈夫かね?」
声の方に振り向くと、老婦が心配そうな顔で私を見ていた。私の何を案じているのか分からなかったが、
「ええ、大丈夫です」
と答えると、老婦は何かぶつぶつ呟きながら去って行った。
少し頭がぼーっとしているが、それもくそ暑いこの天候のせいだ。
――あれっ、さっきのコンビニは?
辺りには先ほど水を買ったはずのコンビニがない。焦って周りを探すが、やはりコンビニは見当たらない。
――ついに惚けが来たかな。
現役時代も運動らしい運動はしたこともなく、通勤時に駅から会社まで歩くだけだったが、それでも脳への幾ばくかの刺激にはなっていたらしい。退職して家でぼーっとしていることが多くなったせいか、このところ物忘れが酷くなった。それもあって妻は外に出ることを強く勧めたが、時すでに遅く脳の老化は確実に進んでいるようだ。現にこの体たらくだ。私は何とも情けない気になった。
――それは兎も角、何だか古めかしい町だな。
私は店並みを念入りに見渡した。おおよそ昭和を思わせる商店や民家が道の両側に軒を並べている。軒先テントに屋号を書いた商店がほとんどだが、中には屋根に看板を掲げた店もある。
今般、町興しの一環として、態々古い街並みを残して観光資源として再利用する動きが各地であるようだ。ここもそうした町なのだろうか。だが何となく違和感を覚える。
車が通り過ぎた。ピッカピカの青いブルーバードだった。
――おう、程度のいい旧車だな。
思わず独りごちながら見送る。振り返ると、私は雑貨店の前に立っていた。ガラス戸に白ペンキで書かれた屋号を見ると『まんぞく屋』とある。私は目を凝らした。
――今時こんな屋号があるとは……。
ふっと笑いそうになったが、屋号と文字の図案が私の記憶の淵に引っ掛かった。既視感がある。
――まさかとは思うが……。
左右の店に目を向ける。右隣がミスミ理髪店、左が八百政という八百屋で……。
あった。
――おい、ちょっと待てよ……。
その三軒隣に、学校帰りによく買い食いをした、名前は思い出せないが、駄菓子屋が……。
ある。
――ウソだろう……。
記憶の中の、高校卒業まで住んでいた竹ノ内町の駅前通りの並びと同じだった。おそらく個々の店の構えも寸部と違わないだろう。なぜか分からないが、それは疑うべきもないと確信した。
――でも、どういうことだ。
私は混乱してきた。いま目の前の光景が理解できない。
そもそも竹ノ内町とこの矢田町とは直線距離にして1000km以上離れている。それに先ほどから何台か車が通り過ぎたが、今では博物館でしか見ることができない昭和の車ばかりだ。
――瞬間移動……? タイムスリップ……?。
どちらも現実的ではない。
――そうか、これは夢だ。夢の中の出来事だ。
暑さで過熱気味の脳が絞り出したのが、その答えだった。夢の中で、今夢を見ていると思いつくものなのか不明だが、それが一番合理的な考えで、それなら十分あり得そうだ。
――そうか。もしかして、これが明晰夢というやつか。
何かの本で読んだことがある。
それは、睡眠中にみる夢のうち自分で夢であると自覚しながら見ている夢のことで、夢の状況を自分の思い通りに変化させられるそうだ。今までそんな経験はなかったが、どうもこれがそれらしい。
人は普段の生活で起きた出来事や脳に蓄積したあらゆる情報を整理するために夢を見るそうだ。これまでに見聞きしたことや経験したことや願望などが、脳の中で無作為に繋ぎ合わされて夢になるらしい。
それなら夢の中で夢を見ていると認識している自分を作り出すことも出来るだろう。夢の中で夢の分析をしている自分は滑稽だが、日頃妻から「理屈が服を着て歩いているようだわ」と揶揄されている私には、お似合いなのかも知れない。
六十年以上も生きていれば、これまでに一つや二つは腑に落ちないというか不可解なことがある。でもそれはよく分からない程度の、生きていく上では何の支障もなく、大抵は取るに足らないものだ。
おそらく先日、親戚の葬儀で帰省した際、竹ノ内町の駅前通りを五十余年ぶりに散策したことが大きな要因だろう。町並みはすっかり様変わりしていたが、当時のままの姿で残っている店や家屋もあり、それを足掛かりに、ここは何の店だった、ここには誰それの家があったなどと、当時の記憶を掘り起こしながら、ぶらぶら歩いたせいだろう。その最中、忘れていたはずの情景が記憶の縁から次から次へと鮮明に蘇ってきたのにはと驚いた。
おそらくそれらが、この夢の舞台を作り出している。
――それにしてもよくできたいるなあ。
まるでジオラマを見ているかのようだ。夢だと分かっていても、懐かしいなと口に出る。夢の中では現在の自分の感情も反映されるようだ。
さて、この夢はこれからどこに向かうのだろう?
通りを歩いていると、店先に男の子が立っているのが見えた。白い半袖の開襟シャツに紺の半ズボン。生っちょろい足と針金のような白い腕が覗く。顔に見覚えがある。店の屋号を確認すると『坂本商店』とある。
――あれはケンちゃんだ。ケンちゃんは小学五年生の夏、交通事故で死んだはずだ。
ということは、これは五十年以上前の世界ということになる。
ケンちゃんとは、当時同級生だった坂本健一君のことである。ケンちゃんは体が弱く学校を休みがちだったが、とても頭の良い子だった。私と特別仲が良いというわけではなかったが、彼とは席が隣だったから、欠席の時は配布物を自宅に届ける役だった。
尤も自分から買って出た役じゃない。担任の高橋先生に「坂本君の家は通り道だろう」と頼まれて、嫌と言えなかっただけだ。だから決して友達と呼べるほどの関係ではなかったはずだ。
ケンちゃんは私が行くと、必ずと言っていい程ノートを見せてくれと言う。彼の方が私なんかよりずっと成績がよかったので必要ないと思うし、退屈凌ぎにノートの空きに書いた落書きを見られるのが恥ずかしかったが、なぜか断れなかった。
――そう言えば、あの手紙はどうしたんだろう?
そう思った途端、私は小学校の上空にいた。
眼下に学校の俯瞰図が広がる。校舎を上空から見たことはないが、夢の中ではそんなことも可能なようだ。
西側の正門から真っ直ぐ東に延びた石畳の通路を挟んで、南側に校庭、北側に校舎と講堂兼体育館があった。校舎は木造平屋建てで、東西に三棟並んでいた。道に面した棟には、職員室と六年生と五年生の教室があった。その次の棟が一年生と二年生、一番奥が三年生と四年生の教室だった。それぞれの棟は、中央を貫く廊下と左右の廊下の三カ所で繋がれていた。上空から見ると丁度漢字の『田』という字になる。
私は急降下する。校舎を横から見る。下見板張りされた外壁に塗られたレンガ色のペンキが色褪せて、ひび割れ、至る所で小さく剥げてめくれ、下塗りの白いペンキが覗いている。その壁に設けられた窓をすり抜け、五年三組の教室内に入る。
担任の高橋先生が見える。帰りのクラス会が間もなく終わるようだ。退屈そうな顔をした小学生時代の私もいる。クラス委員の富田君が締めに入った。
「では最後に先生から、ひと言、お願いします」
「みんなも知っている通り、坂本健一君が二学期から、東京に引っ越すことになりました。残念だけど、病気治療のためで仕方がないことです。坂本君は引っ越しの準備や入院前の検査などで、もう学校には来られないと、お母さんから連絡がありました。坂本君はみんなにお礼を言っていたそうです」
高橋先生はそこで一旦言葉を切って、みんなが理解したどうかを確かめた。
「そこで先生からの提案ですが、各自坂本君に手紙を書いたらどうだろうか。そのことについて、これからみんなで話し合って決めて下さい」
富田がみんなに意見を求めた。これと言った意見もなく、直に賛否を問うた。全員賛成だった。
「じゃあ取り纏めはクラス委員の富田君と石川さんにお願いします。みんなの気持ちを書いて届けましょう」
ケンちゃんは一学期の終業式の前日に東京に行くことになっていた。その前に手紙を渡すことになった。
「それでは七月の十日までに書いて、僕か石川さんの所に持ってきて下さい。集まり次第、届けることにします」
――結局僕の手紙は渡せなかったな。
僕は父から便箋をもらって机に広げたものの、いざ書こうとすると何と書けばいいのか分からなかった。なかなか言葉が浮かんでこない。一時間程便箋を睨んでいたが、やっと書いたのが「元気になったら、またいっしょに遊ぼうな」の一文だけだった。何とも凡庸な文章に自分が情けなかった。もっとも、それくらいの関係だったんだから致し方ない。時間が経てば、もう少し書けるかも知れない。期日ぎりぎりまで提出するのを待つことにした。
でも結局僕の手紙は健一君に届くことはなかった。〆切期日の前にケンちゃんが交通事故で亡くなったからだ。
告別式までに集まっていた手紙はケンちゃんの棺に入れたと、後になって、高橋先生から聞かされた。
訃報は、月曜日の全体朝礼で教頭先生からもたらされた。
金曜日の夕方、ケンちゃんは大型トラックにはねられて自転車ごと10メートルも飛ばされたそうだ。即死だったらしい。
その頃の僕は、いや僕に限らず大抵の子どもはそうだろうが、死ぬってことがどういうことか理解できなかった。
親に連れられて何度か親戚の葬式に出たことはあったが、決まって老人ばかりだった。年寄りになると死ぬ、その程度の認識しかなかった。
だから教頭先生の言葉は僕の周りをぐるぐる回ってばかりで、一向に頭の中に入ってこなかった。悲しいとか、寂しいとか、そんな感情はちっとも湧いてこなかった。
――ケンちゃんにケンカのことを謝れなかったな。
それは事故の二週間ほど前のことだ。
いや、思い出した。あれはケンカなんかじゃない。
その日、ケンちゃんは二限目は体育の授業を休んで、三時限目から出て来た。僕らは休み時間中で、体操服を着替えていた。
ケンちゃんは心臓が悪い。体もクラスで一番小さく、手足も細い。だから、体育の時間はいつも見学している。激しい運動は医者から禁止されているのだそうだ。それに僕らも、日頃から先生に健一君を興奮させないよう注意されている。
だからといって、ケンちゃんはいつもじっと大人しくしているわけじゃない。得てしてケンちゃんは、手を出したり、悪ふざけしたりする。
その対象は特に決まっているわけではない。僕らが囃したりしなければ大抵はすぐ止めるのだが、その日のケンちゃんは違った。何かに取り憑かれたみたいに、僕にちょっかいを出してきた。どうにも自分で自分を抑えられなくなっているように見えた。
段々度が過ぎていく。
「いい加減にしろよ」
僕は軽く肩を押したつもりだったが、それでもケンちゃんは体勢を崩して尻餅をついた。一瞬にして周りの音が消えた。ケンちゃんは青い顔をして大きく肩で息をしていた。
「大丈夫か?」
僕が尋ねると、ケンちゃんはうつろな目で頷いた。
いつだったか「中学生になったら東京の大学病院で手術を受けるんだ」とケンちゃんがぽつりと漏らすのを、僕は聞いたことがある。
手術を受けなければ数年の命だが、例え手術したとしても成功する確率は30パーセント以下という難病だそうだ。
だが今のケンちゃんの症状は、そこまで待てないほど悪化していて、手術を受けるという選択肢しかなくなったらしい。
ケンちゃんの傍らには、常に死が付き纏っていた。その恐怖がどんなものか、どれ程のものか、毎日をのほほんと過ごしていた僕らには推し計れなかった。
自分ではどうすることもできない八方塞がりへの苛立ちが、あの日ケンちゃんをあんな行動に駆り立てたのだと、今の私なら気遣ってやれたはずだが、11才の少年では望むべくもなかった。
<続く>
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