【短編】ポスト(3)
3.ケンちゃんの死
夢の中では、時間や空間の制限を受けることなく自由に移動できる。
私は、いつの間にか坂本商店の上空にいた。
ケンちゃんは両手でメガホンを作って、店の奥に向かって何か言っている。二、三度繰り返した。
しばらくして店の奥から女性が出てきた。ケンちゃんのお母さんだ。会話は聞こえないが、ケンちゃんはこれから出掛けると言っているようだ。
お母さんは、彼を止めようと説得している。自転車で行くのは危ないから駄目だと言っているようだ。ケンちゃんは承知しない。中々強情だった。
お母さんは力なく首を振っている。説得するのを諦めたようだ。ケンちゃんを待たせて、奥に引っ込んだ。再び出てきたお母さんは手に菓子折を携えていた。ケンちゃんはそれを受け取ると自転車の荷台にくくり付けた。
亮子さんのところへ行くらしい。
西田亮子はケンちゃんの家庭教師をやっていた。ケンちゃんは今年に入ってから体調が思わしくないらしく学校を休みがちになった。それで土曜日の午後と日曜日の午前中、授業の遅れた分を近くに住む亮子に教わっていた。
亮子は東京の某有名大学に入学したものの、環境の変化に付いていけず休学して自宅に戻って療養していた。それを知ったケンちゃんのお母さんが家庭教師を頼んだようだ。
だが、それも東京に引っ越すことで終わる。これまでのお礼を直接自分で言いたいと、ケンちゃんはごねたようだ。
ケンちゃんは、この数時間後に事故に遭ったのだった。
ケンチャンをはねた運転手は、警察に「男の子が、いきなり車の前に、倒れて来たんです」と述べたそうだ。
「道路の左側を、自転車を引いた男の子が、歩いているのは見ていました。危ないなと思いましたが、先を急いでいたので徐行はしませんでした。それは認めます。でも本当に男の子が倒れて来たんです。嘘じゃないです。信じてください。そうだ、あの時対向車線を通り掛かった運転手が見ていたはずです。事故の時、しばらく停まっていましたから。その人を探して下さい」
結局目撃者は見つからず、現場検証の結果、運転手の不注意によるものとされた。
その間にもいろんな憶測が飛んだ。事故現場は、急な上り坂ならまだしも、平坦な道だった。薄暗い道をライトも点けず歩いていたそうだ。なぜ自転車を引いていたのか。乗っていれば暗くなる前に家に着いていたかも知れないのに……。
真相は分からずじまいで、いつしか噂話は立ち消えになった。
――ケンちゃんの葬式の日は、とても暑かったなあ。
忘れもしない、今日と同じ七月二日の夜のことだった。
ケンちゃんの通夜は、事故の三日後、月曜日の夕方、坂本家の菩提寺である光円寺にてしめやかに執り行われた。
ケンちゃんの父親は県会議員だったこともあり、また商売上の付き合いも多かったことから、子供の葬儀にも関わらず参列者達が長蛇の列を作っていた。学校からは校長を始め全教員が参列した。僕らもクラス全員が揃って焼香した。
僕はやるせない思いを胸に、遺影に向かって「ごめんな」と心の中で謝った。僕らは焼香し終わった後も、境内に留まっていた。通夜が終わるまで残っておくよう高橋先生から指示があったからだ。僕らは三々五々集まったものの、騒ぐのも喋るのも憚られて、黙りこくったまま所在なく銘々が好き勝手な方向を見ていた。僕は祭壇の方を見ていた。
ケンちゃんの母親は俯いて腿に手を置いて、親族席に座っていた。遠目にも痛々しいほど打ちひしがれていた。
参列者の列が終わりかける頃、一際大きな泣き声が響いた。境内にいた全員の耳目が一点に集まった。女の人が焼香台に飾られた遺影の前で泣き崩れたのだった。西田亮子だった。
「健一君、ごめんなさい」
亮子は床に伏せたまま、泣きながらその言葉だけを繰り返すばかりだった。
「亮子、止めなさい」
ケンちゃんの母親は亮子に目を遣ることもなく、正面を凝視したままだった。腿の上で、握りつぶしたハンカチが小刻みに震えていた。
「立って! 立ちなさい!」
母親が叱咤するが、亮子は一人では立つことさえままならぬようだった。後ろに付き添っていた父親が、彼女を両脇から抱えるようにして立ち上がらせ、引き摺るようにしてその場を去った。
後には騒めきだけが残された。亮子の後ろに並んでいた参列者は決まり悪そうに、そそくさと焼香を済ませて帰って行った。
田舎の暮らしは変化に乏しい。この椿事は、噂好き達に格好のネタを与えたようだった。
焼香を済ませた参列者達が、境内の隅に設けられた通夜振る舞いの席に集う。
「まだ若いのに。可哀想にな」
「ダンプにひかれたんだろう」
「即死だったらしいよ」
早逝した健一に同情的な話ばかりではない。多分に無責任な噂話の方が盛り上がる。
「でも何であんな所にいたんだ」
「西田さんの所から帰る途中だったらしいよ」
「何で?」
「あそこの長女が、健一の家庭教師をしていたそうだ」
そのことは、僕らも知っていた。
「それくらいで、あんなに号泣するもんかい」
「教師以上の関係があったりしてな」
「まさか。相手は小学生だぞ」
「年の差なんて関係ないさ。まあ何が起こるか分からないのが、男女の仲さね」
「へっ。お前から、色恋談義を聞かされるとはね」
「あんた達、不謹慎だよ」
「しーっ。静かに」
「声を落とせ。聞こえるぞ」
「何、構うもんか」
声を潜めてはいるのだろうが、それでも色々な憶測が耳に飛び込んできた。
狭い町だ。心ない誹謗や中傷が、亮子を更に追い詰めた。一時は平癒しかけていた亮子の心の病は、一気に逆戻りした。
それから間もなくして、西田一家は逃げるようにして、隣町に越してしまった。
――なぜ亮子さんはケンちゃんの家庭教師をしていたのだろう。
亮子は、最初に健一の母親から家庭教師の依頼を受けた時、自信が無いからと一旦は断った。
と言うのも、亮子が休学して戻ってきた理由は、外聞が悪いので「水が合わなくて……」と環境の変化に付いていけなかったということにしてあるが、その実は失恋が原因で精神的に不安定になったからだった。
亮子は睡眠薬を多量に飲んで倒れている所を、偶々遊びに来た友人が発見した。もう少し発見が遅れていたら命に関わる大事だった。警察から知らせを受けて両親が駆け付けた時、亮子は軽い錯乱状態にあった。どう見ても自殺未遂だった。
実家に戻って少しは落ち着いてきたものの、まだ時折理由もなく涙することがある。亮子には健一と同い年の妹がいたが、傷心の身では家族以外と接したくはなかったはずだ。
亮子の母親は、「少しずつ外の人にも馴れるように」とか、「気分転換しないと、もっと気が鬱いじゃうわよ」とか、もっともらしい理由を付けて一方的に決めてしまった。
「どうしても駄目だったら、その時は断っていいから」
とは言ったものの、その舌の根が乾かないうちに、
「坂本さんには、日頃から何かとお世話になっているの。狭い田舎町なんだから、今後の私達のことも考えてちょうだいね」
と釘を刺されては断れるはずはなかった。
健一の病気のことは、事前に聞かされた。亮子は自分の心さえ儘ならないのに、そんな自分が他人の人生に関わるなんて、到底許されるものではないと思った。亮子は、母の顔を立てて一度だけ会ってみるが、どうしても駄目だったら、その時は母が何と言おうと断ろうと思っていた。
だが亮子は健一に会って驚いた。別れた恋人を彷彿させたからだ。顔立ちが似てると云う訳ではなく、持っている雰囲気がそっくりだと感じたのだった。どこか刹那主義的な匂いがした。
あの時断ってさえいれば、と亮子は悔やむ。だが、恋人に対する未練が、亮子の決断を鈍らせた。
健一は聡い子で、一回説明すれば理解してくれるので、亮子は勉強を教えるのに何の苦労もなかった。
健一は一時間の授業が終わっても直ぐには帰らず、東京の話を聞きたがった。亮子が東京で暮らしたのは半年ほどで、大した話はできなかったが、健一はそれでも構わなかった。いや東京のことなどどうでもよかった。それより亮子の話が聞きたかった。亮子の声を聞きたかった。
健一は自分の中に亮子が住んでいた東京の街を築いていく。そしてもし手術が成功して元気になったら、その街でまたこんなふうに話をしたいと願っていただけだった。
<続く>
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