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アンチ世俗エヴァンジェリストの反射鏡:敵を布教する人々(1万文字)

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アンチ世俗エヴァンジェリストの反射鏡:敵を布教する人々

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【注釈】本稿は、筆者個人による調査・読解・考察をもとに構成されたものであり、筆者は本稿で扱う分野における専門家ではありません。内容の作成にあっては、公開されている資料の参照や、近年一般化しているAIを用いた情報収集・整理・ファクトチェックを活用していますが、それらはあくまで理解を助ける補助的な手段であり、記載内容の正確性・完全性・最新性を保証するものではありません。本稿には、事実として確認可能な情報の紹介に加え、比喩的表現、仮説的な推論、個人的な解釈や読み替えが含まれています。これらは特定の立場や結論を断定する意図によるものではなく、読者に思考の材料を提供することを目的としています。最終的な判断や解釈については、必ず一次資料や他の視点も参照したうえで、読者自身で行ってください。

1. 嫌いなもの

筆者はクリスチャンである。そして同じクリスチャンの中で、筆者には、長く引っかかっている種類の語りがある。誰かが何かを強く嫌う。その嫌悪を語る。その語りが熱を帯びていく。すると、いつのまにか話の中心が、その人の愛しているものから、憎んでいる対象へ移ってしまう。聞いている側に残るのは、その人が何を大切にしているかという印象よりも、その人が誰を嫌っているかという印象である。

人間には、どうしても受け入れられないものがある。見ているだけで不快になるものがある。自分が大切にしているものを踏みにじられたように感じる瞬間もある。そういう反応を、きれいごとで全部消そうとすると、むしろ別のところで歪む。

聖書も、人間の感情を表面だけ整えて済ませる書物として読むと、かなり読み誤る。詩篇には、怒り、嘆き、訴え、恐れ、憎しみと呼んでよいほど激しい感情が出てくる。詩篇13篇1節では、詩人は「主よ、いつまでなのですか」と訴える。詩篇22篇1節では、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ぶ。この詩篇22篇1節の言葉は、のちに十字架上のイエスの口からも語られる。マタイの福音書27章46節、マルコの福音書15章34節である。

信仰の言葉は、いつも穏やかで、いつも整っていて、いつも礼儀正しい言葉として現れるわけではない。人間の内側には、叫びがある。怒りがある。納得できなさがある。筆者が問題にしたいのは、感情の存在そのものより、その感情が言葉の中心を奪っていく瞬間である。

嫌いなものを嫌いだと言い続けることで、結果的にその嫌いなものを世界の中心にしてしまう態度がある。嫌いなものを批判しているつもりで、その嫌いなものを布教してしまう語りがある。

世俗をけなして、世俗を布教している人たち。資本主義をけなして、資本主義を布教している人たち。富裕層を批判して、富裕層を世界の主役にしている人たち。キリスト教を批判して、結果的にキリスト教の存在感を大きくしている人たち。構図としては同じである。

批判の対象が大きくなりすぎると、語り手の信仰や理想や愛しているものが見えなくなる。聞き手に届くのは、その人が何を大切にしているかということより、誰を憎んでいるかということだけになる。

この状態が、筆者にはどうしても気持ち悪い。

2. ブラッドベリ

レイ・ブラッドベリには、嫌いなものをただ憎むのではなく、それを短編や詩によって打ち砕け、という趣旨の言葉がある。

本稿では、この発想を「嫌悪を作品に変える態度」として借りる。嫌いなものを嫌いだと言い続けるだけでは、相手への反応に自分の言葉を支配される。けれど、嫌悪を観察し、比喩にし、仕組みとして描くなら、その対象は世界の中心ではなく、素材になる。

罵倒は敵を増幅する。創作は敵を素材化する。

ブラッドベリのこの発想については、別の記事で詳しく扱う。ここでは、本稿全体の補助線として、「嫌悪をそのまま布教せず、作品として打ち砕く」という基本概念だけを置いておく。

https://note.com/kuwaikei/n/n5b3ce5e11e78

3. アンチ使徒

町山智浩さんのチャンネルは好きで見ている。町山さんは映画評論家、コラムニストとして知られ、映画、アメリカ社会、政治、宗教、文化をつなげながら語る人である。町山さんは、アメリカ社会や政治を語る中で、宗教右派やキリスト教的価値観、あるいはそれが政治文化に与える影響を批判的に扱うことがある。

その語りが面白いのは、キリスト教を批判しているようで、結果的にキリスト教の存在感を強めているように見えるところである。

ここから、アンチ使徒という言葉を思いついた。

使徒という言葉は、もともと遣わされた者を意味する。新約聖書では、イエスによって遣わされた弟子たちを指す言葉として用いられる。マタイの福音書28章19節から20節では、復活したイエスが弟子たちに、あらゆる国の人々を弟子とし、イエスが命じたことを守るように教えなさいと命じる。これが、いわゆる大宣教命令である。

普通に考えれば、使徒とは、信じるものを広める人である。エヴァンジェリストとは、良い知らせを告げる人である。ところが、ある人は、信じていないもの、嫌っているもの、批判しているものを、結果的に広めてしまう。

その意味で、これはアンチ使徒であり、同時に、アンチ聖書エヴァンジェリストでもある。信じていない聖書を告げ知らせ、嫌っているキリスト教やその周辺文化の存在感を押し広げてしまう人である。

キリスト教やその周辺文化を批判している。けれど、批判するためには、聖書や教会やアメリカ社会や宗教右派や道徳観を語らなければならない。その語りが熱を持つほど、聞き手は聖書とキリスト教というものの巨大さを意識する。批判されている対象が、古い宗教という枠を超え、現代の政治や文化や倫理に深く入り込んでいるものとして立ち上がってくる。

否定しながら広めている。拒絶しながら、存在感を増幅している。

筆者はここに、ある種の祭りを感じる。祭りでは、完成した見解だけでなく、未熟な見解や途中の主張も場に置かれる。人はその場で平和的に対話し、一定のルールに従ってゲームに興じ、言葉と反応によって場を活性化していく。子どものすごろくから、大人の議論、国のまつりごと、そして神の国まで、人間は不完全な言葉を持ち寄りながら、ひとつの場を作っていく。

だから、町山さん本人がそう意図しているかどうかは別として、批判の熱によってキリスト教が別の角度から照らされる現象を、筆者は祭りとして見る。攻撃しているつもりの言葉が、対象の強度を可視化してしまう。そこには皮肉があるし、滑稽さもあるし、妙な豊かさもある。

町山さんのキリスト教批判そのものを、信仰の証しと同一視するつもりはない。ただ、批判や反対が、かえって対象の強さを浮かび上がらせることがある。批判は対象を消すどころか、対象の輪郭を濃くしてしまうことがある。アンチ聖書エヴァンジェリストというねじれは、その濃くなった輪郭を見ているところから生まれている。

だから、これは楽しめる。少なくとも筆者には、過渡期の祭りとして楽しめる。キリスト教やその周辺文化を批判する人が、結果的にキリスト教の存在感を押し広げている。未熟な見解も、反発も、誤解も、一定のルールの中で交わされるなら、場を動かす力になる。そういうねじれが、筆者には面白い。

4. 世俗批判

一方で、高原剛一郎さんの個人YouTubeチャンネルであるごうちゃんねるを見ていると、別の種類のしんどさを感じることがある。ごうちゃんねるは、聖書の視点から国際情勢、歴史、文学などを発信するチャンネルである。聖書の価値観の土台に創造主を置き、遺伝子や宇宙の成り立ち、ユダヤ入門、国際情勢なども扱っている。

筆者は、このチャンネルを福音への多大な共感と敬意をもって視聴している。高原剛一郎さんを批判できる立場にいるとは思っていないし、民主的な改善提案を差し出せる立場にいるとも思っていない。むしろ、福音について、信仰について、人間について、なるほどと思わされる話が多く、学ばされることのほうが圧倒的に多い。

だからこそ、本稿で触れているのは、ごうちゃんねる全体への評価ではない。筆者の感覚では、九割以上は賛同と敬意の側にある。それでもなお、筆者自身の性質として沈黙できない一点が残る。その一点について、ここでは「しんどい」という感想を表明している。もちろん、そのような感想を公に書くこと自体が越権行為だという批判はありうる。その批判は甘んじて受けるつもりでいる。不快に感じられた方がいるなら、ここでお詫びしたい。

チャンネル全体を一言で括ることはできない。筆者が見た範囲の一部の語りに限って言えば、キリスト教伝道として、深く届く言葉がある。だから、ここで問題にしているのは高原さん個人ではなく、福音を語る言葉の中に、世俗への反応が強く入り込んでしまう瞬間である。

本稿でいう福音は、神がイエス・キリストを通して人間を赦し、回復し、新しく生かすという知らせである。ルカの福音書4章18節から19節では、イエスがイザヤ書61章1節から2節を読み、貧しい人に良い知らせを伝え、捕らわれ人に解放を告げる使命を語る。ローマ人への手紙1章16節では、パウロが福音を「信じるすべての人に救いをもたらす神の力」と呼ぶ。

福音は、本来、敵を見下すための言葉として与えられていない。むしろ、見失われた人間に向けられる知らせである。ルカの福音書15章では、失われた羊、失われた銀貨、放蕩息子のたとえが語られる。そこでは、失われたものが見つかることの喜びが中心にある。

ところが、世俗への罵倒が強くなる瞬間があり、そこで急に見ていられなくなることがある。世俗は分かっていない。世俗は浅い。世俗は真理を受け入れない。そういう方向に語りが寄っていくと、福音よりも世俗への怨念のほうが前に出てくる。

そうなると、これはアンチ世俗エヴァンジェリストである。

本稿では、エヴァンジェリストという言葉を、語源に近い意味で「良い知らせを告げる人」として用いている。エヴァンジェリストとは、福音を告げる人である。ところが、福音を告げているはずの人が、世俗批判に熱を奪われると、聞き手に届くのは良い知らせではなく、世俗への怒りになる。

世俗を批判しているはずなのに、語りの中心にあるのは福音よりも世俗になる。神を語っているようで、実際には世俗に拒絶された自分を語っているように聞こえる。キリストを伝えるはずが、世俗の鈍さ、世俗の冷たさ、世俗の愚かさを伝えてしまう。

これは福音という観点では逆効果だと思う。敵に塩を送っている。世俗を批判すればするほど、世俗の存在感が大きくなる。福音の魅力よりも、世俗という敵の輪郭が強くなる。

つまり、世俗の側にいる人々に「どっちもどっち」という印象を持たれることが、最大の福音の阻害要因になるのだと思う。福音を語っているはずの人が、相手と同じ種類の怒りや罵倒や優越感に見えてしまえば、聞き手には福音の違いが見えなくなる。キリストを伝える言葉が、ただの陣営争いの片側として受け取られてしまう。

イエス自身は、世を迎合する対象として語っていない。ヨハネの福音書15章18節から19節では、世が弟子たちを憎むことについて語られる。また、ローマ人への手紙12章2節では、「この世と調子を合わせてはいけません」と教えられる。だから、世俗批判そのものをすべて退けたいわけではない。

しかし、ヨハネの福音書3章17節では、神が御子を世に遣わしたのは、世を裁くためではなく、世が救われるためであると語られる。この緊張を忘れると、世を批判する言葉は、簡単に世俗への怨念になる。

筆者が楽しめないのは、たぶんこの地点である。町山さんのアンチ使徒性とアンチ聖書エヴァンジェリスト性は、批判が対象の存在感を広げ、場を動かすという意味で、ある種の祭りとして見える。けれど、世俗をけなして世俗を布教する態度は、祭りの活性から離れ、怨念の反復に近づいて見える。そこには、自分が卒業したいものが含まれているからだと思う。

5. 富裕層批判

この構図は、宗教だけの話に収まらない。政治思想や社会批判にも同じことが起きる。

現実の不正義や制度の歪みに対する批判には、必要な役割がある。反資本主義、保守批判、リベラル批判、社会運動の言葉も、本来はそれぞれの理念や現実認識を支えるためにある。筆者が見ているのは、それらの批判が理念を支える言葉から、敵への反応だけで自分を保つ言葉へ変わってしまう瞬間である。

たとえば、社会主義や共産主義の立場から反資本主義を掲げる人、あるいはリベラルの立場から新自由主義、格差、富の集中、大企業や富裕層の政治的影響力を批判する人がいる。本来なら、そこには理論がある。労働、所有、生産手段、階級、疎外、共同体、分配、国家、革命、改革。あるいは、格差是正、社会保障、再分配、人権、環境、反差別、市民運動という言葉がある。

けれど、今となっては、主義主張が混濁しているように見えることがある。資本主義を批判しているのか。新自由主義を批判しているのか。格差を批判しているのか。金持ちを批判しているのか。成功者を批判しているのか。あるいは、自分が報われないことへの怒りをぶつけているのか。その境界が曖昧になっている。

これは保守の側にも起きている。保守を名乗っていても、実際には伝統、共同体、家族、宗教、国柄、歴史の継承を語っているのか、リベラルや左派への反発を語っているのか、境界が曖昧になっていることがある。自由を語る保守もいる。反権威を語る保守もいる。庶民感覚を語る保守もいる。弱者救済や福祉を語る保守もいる。そうなると、保守とリベラルは政策の細部では対立していても、語りの形式としてはかなり似てくる。どちらも、自分たちが何を守り、何を作り、何を愛しているのかより、誰に反発しているのかによって輪郭を得るようになる。

保守の中にリベラル的な要素が混じり、リベラルの中に保守的な要素が混じること自体は、必ずしも悪いことではない。現実の政治思想は、教科書の分類のようにきれいには分かれない。問題は、その混ざり方が豊かさではなく、敵への反応としてしか現れないときである。反リベラルの保守、反保守のリベラル、反資本主義の左派、反左派の保守。そういう名乗り方ばかりが強くなると、思想は中身ではなく反射神経になる。

富裕層批判も同じである。格差の固定化、機会の不平等、労働の買いたたき、資産による権力集中、政治への影響力、世代間格差。これらは真剣に考えるべき問題である。聖書にも、富や貧しさについての厳しい言葉は多い。アモス書5章11節から12節では、貧しい者を踏みつけ、賄賂を取り、乏しい者を退ける者たちが責められる。ミカ書6章8節では、主が求めていることとして、公正を行い、誠実を愛し、へりくだって神とともに歩むことが語られる。ヤコブの手紙5章1節から6節では、富んでいる者たちへの厳しい警告がある。

イエスもまた、富に対して厳しい言葉を語っている。マタイの福音書6章24節では、神と富とに仕えることはできないと語られる。マルコの福音書10章25節では、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうが易しいと語られる。ルカの福音書12章15節では、あらゆる貪欲に気をつけるように警告される。

つまり、富裕層批判そのものには十分な根拠がありうる。聖書的にも社会的にも、富の集中や貧しい者への抑圧は重大な問題である。しかし、それが富裕層が憎いという感情に縮んでしまうと、批判の精度が落ちる。精度が落ちると、批判された側も痛くない。むしろ、嫉妬でしょ、と処理されて終わる。そうやって、また敵に塩を送る。

富裕層を批判しているのに、富裕層を中心にしてしまう。資本主義を否定しているのに、資本主義的成功を最大の基準にしてしまう。金がすべてではないと言いながら、金を持っている人間の話ばかりしている。この状態になると、聞き手には、この人たちは何を作りたいのかではなく、この人たちは誰を憎んでいるのかだけが伝わる。

筆者自身にも、社会運動の側に近い見解はある。原発には反対しているし、辺野古を代表とする沖縄基地問題にも課題があると考えている。けれど、理念に賛同することと、その理念を掲げる団体運営を信頼することは別である。原発に反対することと、反原発団体の運営を信頼することは同じではない。基地問題に課題を見ることと、反基地運動のすべてに同意することも同じではない。理念が正しく見えるほど、組織の陶酔、劣化、敵への依存は見落とされやすい。

このとき、思想は痩せる。批判は必要である。ただし、批判が対象への執着に変わると、批判は相手の力を増幅する。富を批判しているはずの言葉が、富を人生の中心に置いてしまう。そのとき、思想は貧しくなる。

6. 救済思想

キリスト教伝道と、社会主義、共産主義、そして新自由主義、格差、富の集中を批判するリベラル系の運動は、思想内容としてはかなり違う。筆者が比べているのは教義や制度ではなく、救済を語る運動が失敗するときの語りの型である。

どちらも、現実の世界はこのままではだめだと言う。どちらも、別の世界の可能性を語る。どちらも、いま支配的な価値観への批判を持つ。どちらも、抑圧されている人、迷っている人、救われるべき人を想定する。どちらも、ある種の改心や覚醒や転向を求める。

だからこそ、失敗するときも似る。希望を語るはずが、敵意を語ってしまう。解放を語るはずが、憎悪を再生産してしまう。新しい世界を語るはずが、古い世界への執着を強化してしまう。

救済思想は、何かを変えようとする。現実をそのまま肯定しない。だから必ず、批判対象を持つ。世俗、資本主義、富裕層、支配階級、リベラル、保守、無神論、宗教、国家、制度。何であれ、そこには敵が設定される。問題は、その敵が中心になってしまうことである。愛しているものより、憎んでいるもののほうが語られるようになる。救いたいものより、裁きたいもののほうが前に出る。

少数政党や運動体も、この罠から自由ではない。政策や理念より敵の可視化によって支持や寄付を集めるようになると、運動は自分が掲げた理想よりも敵の存在によって生きるようになる。海洋保護を掲げるシーシェパードのような団体にも、その危うさを見ることがある。批判活動と寄付によって運動が成立し、敵を可視化することで支持を集める構図は、理念を伝える運動と、敵を燃料にする運動の境界を曖昧にする。

聖書の中でも、預言者たちは社会の罪を厳しく責める。紀元前8世紀頃に活動したとされるアモスは、北イスラエルの繁栄の裏にある不正を告発した。イザヤもまた、形式的な礼拝と社会的不正を鋭く批判した。イザヤ書1章17節では、善を行うことを学び、公正を求め、虐げる者を正し、みなしごのために正しい裁きをなし、やもめを弁護せよと語られる。

預言者の批判には、神の義と憐れみへの呼び戻しがある。批判の目的は、相手を見下すことではなく、悔い改めと回復である。エゼキエル書18章23節では、神は悪しき者の死を喜ぶのではなく、その者が道から立ち返って生きることを喜ぶと語られる。

この観点から見ると、救済思想が敵意に堕ちるとき、それは自分の本来の目的からずれている。愛しているものが見えない運動は、怨念の共同体になる。救いの言葉が見えない信仰は、裁きの共同体になる。

7. 陶酔

さらに厄介なのは、正しさへの陶酔である。

人は、自分が正しいと思っているとき、ただ正しいと思っているだけでは済まないことがある。正しい自分を感じて気持ちよくなっていることがある。論破して気持ちいい。相手の未熟さを見つけて高揚する。自分は見抜いているという感覚に酔う。冷笑によって、自我が膨らむ。

この陶酔が混ざった瞬間、正しさは濁る。たとえ言っている内容が正しくても、優越感、処罰欲、嘲笑、相手を下に置く快感が入れば、その言葉はもう純粋な批判としては働きにくい。

イエスは、偽善に対して非常に厳しい。マタイの福音書7章3節から5節では、兄弟の目にあるちりを見る前に、自分の目にある梁を取り除くように語る。これは、他者を裁く姿勢の中に、自分自身の見えない罪が潜むことを指摘している。

また、ルカの福音書18章9節から14節には、パリサイ人と取税人のたとえがある。自分はほかの人たちのようではないと祈るパリサイ人と、神に憐れみを求める取税人が対比される。イエスは、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされると語る。

そこで問題になっているのは、宗教的に正しい行為だけでは済まない。正しい自分に酔う心である。自分は分かっている側にいる。自分は清い側にいる。自分は目覚めた側にいる。そう思った瞬間、人は簡単に他者を下に見る。

見解の問題は、態度や口調にも出る。何を言っているかだけではなく、どう言っているかが問題になる。相手を潰す形で言う。勝ち負けに変換して言う。嘲笑を混ぜる。分かっていない奴として扱う。そういう出力が入ると、たとえ中身に一理あっても、言葉全体が別のものになる。

これは他人だけの話で終わらない。筆者自身の中にもある。むしろ、自分の中にも同じ反応があるからこそ、他人の語りの中にそれを見つけてしまう。嫌いなものを見ているとき、そこには自分が卒業したいものが映っている。

だから、単に誰かを批判して終わりにしたくない。そうしたら、同じ穴に落ちる。私が打ち砕きたいのは、誰か個人ではない。敵を憎むことでしか自分の正義や信仰や理想を語れなくなる仕組みである。

8. 打ち砕くこと

ブラッドベリの言う、嫌いなものを作品で打ち砕け、という言葉はここに戻ってくる。

打ち砕くとは、相手を罵倒することではない。相手を黙らせることでもない。敵を打ち負かして、自分の正しさに酔うことでもない。

打ち砕くとは、自分の中で対象を別の形に変えることだと思う。怒りを、そのまま怒鳴り声にしない。嫌悪を、そのまま人格攻撃にしない。軽蔑を、そのまま冷笑にしない。対象に反応して熱くなる自分を観察し、その熱を文章や物語や比喩や分析に変える。

そのとき、敵は世界の中心ではなくなる。敵は素材になる。素材になった瞬間、こちらは少しだけ自由になる。

この自由は、聖書の言葉で言えば、反応からの自由でもある。ローマ人への手紙12章17節から21節では、だれに対しても悪に悪を返さず、自分で復讐せず、悪に負けることなく、善をもって悪に勝つように語られる。ここで求められているのは、悪を見ないふりをすることではない。悪に反応して、同じ種類の悪に変わってしまわないことである。

エペソ人への手紙4章26節から27節では、怒っても罪を犯してはならず、怒ったままで日が暮れるようであってはならないと語られる。怒りがあること自体よりも、怒りを足場として別の力に明け渡してしまうことが問題にされている。

世俗を打ち砕くのではない。世俗をけなして世俗を布教してしまう態度を打ち砕く。資本主義を打ち砕くのではない。資本主義を憎みながら資本主義の勝者を見上げ続ける態度を打ち砕く。富裕層を打ち砕くのではない。富裕層を批判することで富裕層を世界の中心にしてしまう態度を打ち砕く。

もっと言えば、自分の中のアンチ使徒を打ち砕く。敵を語ることでしか、自分が何を愛しているのかを語れなくなる自分を打ち砕く。

嫌悪は捨てなくていい。けれど、嫌悪に酔ってはいけない。敵を語ってもいい。けれど、敵を太陽にしてはいけない。批判してもいい。けれど、批判によって敵を布教してはいけない。

9. 何を愛するか

結局、問われるのは、何を憎むかではなく、何を愛するかである。

キリスト教を語るなら、世俗の愚かさよりも、福音の魅力が見えなければならない。反資本主義を語るなら、富裕層への怨念よりも、どんな社会を作りたいのかが見えなければならない。格差を批判するなら、金持ちへの怒りよりも、どんな公正さを求めているのかを語らなければならない。

現実には簡単ではない。愛しているものを語るより、憎んでいるものを語るほうが楽である。敵を叩くほうが、仲間は集まりやすい。怒りは伝播しやすい。軽蔑は共同体を作りやすい。分かっていない奴らを設定すると、自分たちが分かっている側に立てる。

しかし、それは危ない。憎しみで結束した運動は、結局その憎んでいる対象の影になる。敵が消えたら、自分たちも語ることがなくなる。対象に依存しているからである。

第一コリント13章は、愛について語る有名な章である。そこでは、たとえ人々の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じだと語られる。さらに、預言の賜物があり、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じ、山を動かすほどの完全な信仰があっても、愛がなければ無に等しいと語られる。第一コリント13章1節から3節である。この箇所は、結婚式で読まれる美しい愛の言葉に収まりきらない厳しさを持っている。正しい知識、強い信仰、立派な行為でさえ、愛がなければ空洞化するという言葉である。

第一ヨハネ4章18節では、愛には恐れがなく、全き愛は恐れを締め出すと語られる。恐れや憎しみを燃料にした言葉は、長く人を生かすことができない。人を動員することはできるかもしれないが、人を救うことは難しい。

だから、本当に打ち砕くべきものは、世俗でも、資本主義でも、富裕層でも、キリスト教でもない。敵を憎むことでしか、自分の信仰や理想や正義を語れなくなる仕組みである。

筆者の嫌いなことは、世俗をけなして世俗を布教している人たちである。資本主義をけなして資本主義を布教している人たちである。富裕層を批判して富裕層を世界の主役にしている人たちである。

けれど、その人たちをさらに罵倒するだけでは、筆者も同じ仕組みに落ちる。だから、記事にする。嫌悪をそのまま撒くのではなく、文章にして打ち砕く。完全にできているとは思わない。むしろ、書いている最中にも、正しさへの陶酔は入り込む。それでも、ただ罵倒するよりはましだと思っている。

嫌いなものを嫌いと言うだけでは足りない。

嫌いなものを観察し、出来事のつながりとして見直し、言葉にし、作品にして、打ち砕く必要がある。

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