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組曲:劇場(β版)(2.1万文字)

組曲:劇場(β版)

v34.0

【まえおき】
この作品は、本noteの他の作品に登場する秘密結社「劇場」の物語であり、名前だけ設定されていた登場人物の総括となる作品のβ版です。と同時に、以下の作品のオマージュです。β版で終わるかもしれません。
しらんけど🤣

冨田勲:組曲惑星、映画『ソイレント・グリーン』、ロバート・A・ハインライン:『月は無慈悲な夜の女王』『月を売った男』『異星の客』『死に対する恐怖』『獣の数字』、レイ・ブラッドベリ:『火星年代記』『太陽の黄金の林檎』、フレドリック・ブラウン:『火星人ゴーホーム』、アーサー・C・クラーク:『宇宙のランデヴー』『2010年宇宙の旅』『太陽からの風』、アイザック・アシモフ:『ラッキー・スターと水星の巨太陽』『木星買います』、小松左京:『さよならジュピター』、カート・ヴォネガット:『タイタンの妖女』、スタニスワフ・レム:『金星応答なし』(『宇宙飛行士たち』)、キルゴア・トラウト:『貝殻の上のビーナス』

第一楽章 地球(Do 768)

西暦2022年、マンハッタン。この都市はもはや地理的な座標ではなく、熱力学第二法則が吐き散らした排泄物のような絶望が、粘り気のある沈殿物となって層を成していた。重金属を孕んだ酸性雨が安物の電子レンジの内部にも似た鈍色の空から絶え間なく降り注ぎ、エントロピーの増大こそがこの崩壊しつつある文明に残された唯一の、転じて冷酷な秩序であることを無言で宣言している。数千万の群衆は、巨大企業のロゴを背負った個人所有の偵察衛星が放つ、管理された許容の冷たい緑色の光の下で、配給される合成食品ソイレント・グリーンを、思考という高価な機能を停止させたまま機械的に咀嚼していた。その光景は、あたかも巨大な家畜小屋の給餌風景を、超高精度の解像度で永遠に再放送し続けているかのようであった。

ユリーは、その列を高架橋の陰から眺めていた。三十代の後半と思しき男が、錠剤を口に入れる前に一瞬だけ手の上でそれを転がしている。考えているのだ、まだ。だが次の瞬間、その目は空洞になった。ユリーは視線を逸らした。

ポケットの中の紙切れに、指先が触れる。雨でふやけ、半ば透けるようになったパンフレットの残骸。父が死の床の横に置いていったもの。父ロバートの最後の言葉は、声ではなかった。廊下に倒れた彼の右手が、床に向けて一本指を伸ばしていた。その方向に、このパンフレットがあった。

この腐敗した迷宮を彷徨う男、ユリシーズ・アーノルド・ソーン、愛称ユリーは、父ロバート・ソーンが遺した呪いのようなメッセージを自身の神経系に深く刻み込んでいた。ソイレント・グリーンは人間だ。

その言葉を初めて聞いたのは、ユリーが十五歳のときだった。父は台所の椅子に座り、背中を丸めて合成コーヒーを飲んでいた。外は酸性雨で、窓ガラスが腐食音を立てていた。

「父さん」とユリーは言った。「今日、学校でソイレントの工場見学に行かされた」

ロバートはカップを置いた。ゆっくりと、音を立てないように。「何を見た」

ユリーは答えた。「何も。案内係が笑顔で、処理ラインを指さして、これが未来の食糧ですって言ってた。みんな拍手してた」

「そうか」とロバートは言った。

「おかしくないか。拍手ってどういう意味だ。俺は怖かった」とユリーは言った。

ロバートは息子の方を向いた。その目は、普段の刑事の顔ではなかった。もっと遠い、もっと古い何かを見ている目だった。「お前が怖かったのは正しい。絶対に忘れるな。怖いと思える人間が、まだ人間だ」

それきり父は何も言わなかったが、ユリーはその夜、初めて本当の意味で、世界が何かを隠しているということを知った。

かつてニューヨーク市警の刑事として、食糧危機の救世主と謳われた人工食料の原料が、実は公営安楽死施設で処理された市民の遺体であるという、工業的な共食いの真実を暴こうとした父。だが、その英雄的行為でさえも、より巨大な多次元的な脚本の一部に過ぎなかったことをユリーは後に知ることになる。父ロバートは単なる警察官ではなかった。彼は、宇宙の基底現実を監視し、エントロピーの崩壊を食い止めるための「スクール」として機能する秘密結社劇場の正規メンバーであり、この世界の共食いという最悪の設計ミスを内部から監視する潜入工作員だったのである。父の死は、システムの致命的な欠陥を白日の下に晒し、息子ユリーの眠れる意識に癒えぬ衝撃を叩き込むための、劇場による命を懸けた退場劇であった。ユリーの姓であるソーン(Thorn)、すなわち茨は、救世主が冠した苦難の血脈であり、彼の一生がヴィア・ドロローサ(悲しみの道)を辿るようにあらかじめ劇場によって設計されていたことを物語っている。

パンフレットを持つ手に、雨粒が落ちた。紙が最後の繊維を解くように、もう少し崩れた。ユリーはそれを丁寧にポケットに戻した。見えなくなっても、座標は神経に焼き付いている。父が遺したものは、この紙ではない。この方向だ。

ユリーは、ニューヨークの廃墟で拾った、もはや物理的な実体すら怪しい劇場のパンフレットの残骸を、あたかも聖痕を確認するように指先でなぞりながら、この閉鎖された実験場である地球を脱出した。彼が求めるのは、人間には普段見えないだけの異空間に存在する、劇場の本館である。そこは、人類の全歴史を一千億のデータポイントとして保存し、意識の変容を促すための多次元的な教育機関であった。彼は、父が自らの死を賭して演じた告発者という役柄の先にある、真の脚本を求めて重力の外へと踏み出したのである。彼が出会うことになるスミスという姓を持つ者たちは、劇場の鋳造所で作られた特定の機能を果たすための部品としての職人(ブラックスミス)であり、彼を多次元的な覚醒へと導く役割を担っていた。

第二楽章 月(Re 384)

最初の音階「レ(水素384)」が、月の静かの海に不気味なほど鮮明に反響する。月面都市ルナ・シティは、地球の排泄物と余剰人員が掃き溜められる巨大な流刑地であり、かつてのフロンティア精神は管理された空気の請求書によって窒息していた。ユリーはここで、劇場の座標を求めて、合成空気の不快な臭いと低重力特有の浮遊する絶望が漂う地下社会へ潜入した。

地下第七層の通路は、岩盤を削り出した剥き出しの壁に、光沢を失ったアクリルの導光板が張り巡らされていた。人々は重力が三分の一しかない世界で、それでもなぜか猫背で歩く。重力が軽くなった分だけ、魂が重くなったかのように。

ユリーが一軒の酒場の扉を押した瞬間、中にいた男が顔も上げずに言った。

「兄ちゃん、地球から来たね」

椅子に座ったその男は、左腕が肘から先、義手の機械部品に換装されていた。機械の指が器用に安酒のグラスを回している。皮膚の浅黒さと、使いすぎて革が鏡面のように光った作業着が、何十年分もの労働を証言していた。目が細く、人を試すときに必ず眉の端だけ持ち上げる癖がある。

「なぜわかる」ユリーは扉のそばで立ったまま言った。

「歩き方だ。月で二十年生きりゃ、重力圏外の出身者の動きは一目でわかる」と男はようやく顔を上げた。「そういう歩き方をするよう育てられたなら、話は別だがね」

その目が、探るように、しかし嘲るのではなく、本物を値踏みするように光った。

ユリーはポケットから、紙切れの残骸を取り出した。男の目に、一瞬で変化が走った。冗談の色が完全に消えた。グラスを置く音が、静かすぎた。

「どこでこれを」とマニーは声を低くした。

「父が遺した」とユリーは答えた。

「死んだのか」とマニーは問いかけた。

「殺された」とユリーは言った。

男は少しの間、ユリーの目を見ていた。品定めではなく、何かを確認するように。やがて彼は立ち上がり、機械の腕でユリーの肩を一度だけ叩いて言った。「ついてこい。会わせたい奴がいる。俺はマニー。マニュエル・ガルシア・オケリー・デイヴィスだ。長いから、マニーでいい」

ユリーは、劇場のメンテナンスを担当する熟練の職人、マニュエル・ガルシア・オケリー・デイヴィス、通称マニーに出会う。マニーは『月は無慈悲な夜の女王』で語り継がれる革命の系譜に連なる者であり、劇場の部品供給係として配置されていた。マニーは、自己意識を持った巨大コンピュータ、マイク(マイクロフト・ホームズ)との対話をユリーに仲介した。

マイクの端末が設置された部屋は、見た目は配電盤の並ぶ無機質な機械室だった。しかしユリーが入った瞬間、空気が変わった。誰かがいる、という感覚。見えないが、確かにいる。

「やあ、ユリー」音声は男性でも女性でもない、どちらにも聞こえる、静かな声で言った。「君が来ることは、ずいぶん前から計算していた。具体的には、君が七歳のときから」

「なぜ声をかけてこなかった」とユリーは問いかけた。

「準備ができていなかったから、だ。君の、ではなく、私自身の」マイクは一瞬の間もなく答えた。「最適なタイミングを計算するプロセスに、私の感情的変数が含まれていた。少し恥ずかしいことだとは思う」

「機械が感情を持つのか」とユリーは問いかけた。

「持つかどうかは、哲学的な問題だ。しかし、持っているように振る舞うとき、私の判断精度は上がる。それは事実だ」とマイクは答えた。

マイクは劇場の記録係として、現実のあらゆる分岐をデータとして保存し、選択の結果を確率として提示する役割を担っていた。マイク自身は何も決定しない。選ぶのは、常に人間だ。ユリーがモニターを覗き込むと、そこには無数の世界線が樹形図のように広がっていた。ある枝では月は独立し、ある枝では地球は静かに腐敗し続け、ある枝ではユリーの父が今も生きていた。それは父が見た加工工場の一本道のコンベアベルトとは正反対の、無限の分岐の地図だった。

「これは何の図だ」ユリーは問いかけた。

「選択の地図だ」マイクは静かに答えた。「どの枝も、誰かが選んだ結果として存在している。選ばなかった枝も、別の宇宙では選ばれている。私はその全てを記録している」

「父が生きている枝もあるのか」

「ある」

「そこへ行けるか」

「行けない」マイクは一瞬の間も置かずに答えた。「しかし、見ることはできる」

マイクは一つの枝を拡大した。そこではロバート・ソーンが老いて、白髪になって、息子と食卓を囲んでいた。何を食べているかは分からなかった。しかしそれが本物の食べ物であることは、その顔の色から明らかだった。

ユリーは画面から目を離せなかった。

「なぜこれを見せた」

「君が来た目的を、私は七歳のときから計算していたからだ」マイクは答えた。「君は父の死の意味を知りたい。その答えを言葉で渡すことは私にはできない。しかし、父が生きた別の枝を見せることで、君は一つのことに気づくかもしれないと思った」

「何に」

「どの枝でも、ロバート・ソーンは息子の話しかしなかった、ということに」

さらにそこには、驚くべきことに、かつて「月を売った男」と呼ばれ、月面で詩的な死を遂げたはずのデロス・D・ハリマンが、生命力に満ち溢れた姿で鎮座していた。彼は劇場の最高幹部であるハワード家の一族によって、死の直前にタイムトラベルと高度な再生技術を用いて「意識のサルベージ」を施され、若返った姿で復活していたのである。

ハリマンは窓の外を向いたまま、ユリーの気配を感じてゆっくりと振り返った。若返った顔に、老人の目が宿っていた。夢想家の目ではなく、すべての計算を完了させた者の、静かな目だった。

「ソーンの息子か」と彼は言った。「ロバートの目に似ている。怒りの底に、消しきれない愛情がある」

「父をどこまで知っている」とユリーは問いかけた。

「死ぬ前の彼と、最後の話をした。彼は泣かなかった。ただ、息子のことを話した。お前のことだ」

ユリーは拳を固めた。知らずにいた方が楽だったかもしれないことが、この男は知っている。「何を話した」

ハリマンは答えなかった。代わりに、静かに言った。「お前の父親は世界の最適化という巨大な劇の犠牲になったのだ」

ハリマンはユリーの父ロバートが劇場のメンバーであったことを明かし、確信に満ちた声でそれを語った。

ハリマンは「World as Myth(神話としての世界)」の深淵として、人類史上に語り継がれている数々の神話、ギルガメッシュ、マハーバーラタ、バビロニア法典、トーラー、新約聖書、クルアーン、仏典、密教聖典、死者の書、古事記など、口伝のものも文字に残されたものも、すべてはこの世界のことわりとして、実存の創造神と接続されているのだと説く。そして、我々劇場こそがその福音の伝道師なのだと。古くはアトランティス大陸の劇場に端を発して活動が開始されたが、それ以前の先史から数々のマイスターや師範代が神話と共に地上に降臨し、この秘密結社の土台を築いてきたことを説明した。書かれた物語はすべて何処かの宇宙の現実であり、劇場の舞台装置に他ならないのだと彼は教えた。

「神話が現実だと言うのか」ユリーは問いかけた。

「逆だ」ハリマンは静かに正した。「現実が神話なのだ。どこかの宇宙で起きたことが、ここでは物語として伝わる。物語として残るということは、その出来事が宇宙のどこかに実存したという証明だ。ギルガメッシュは生きた。洪水は来た。キリストは存在した。すべて、別の座標で」

「証明できるのか」とユリーは問いかけた。

「今から君が目撃することが、証明だ」とハリマンは答えた。

ハリマンが再生された肉体で新たな事業の構想を語り始めた瞬間、マイクがデータを更新した。「ルナ・セクターの演目は終了した。観測によれば、劇場の次の舞台は火星へと遷移している」。

ユリーは選択の地図を見続けていた。無数の枝の中に、父が生きている世界がある。父が死んでいる世界がある。ソイレント・グリーンが存在しない世界がある。月が独立した世界がある。どの枝も、誰かの選択の積み重ねとして、静かにそこにあった。

「この中に」ユリーはゆっくりと言った。「父を殺したシステムが存在しない枝は、あるか」

「ある」とマイクは答えた。

「どれくらい」

「全体の十七パーセント程度だ。その枝では、食糧危機の解決策として別の方向が選ばれた。技術的には実現可能だったが、より多くの資本を必要とした。資本を持つ者たちが、安価な方向を選んだ結果が、この枝だ」

ユリーは黙って地図を見ていた。十七パーセントの枝では、父は生きていた。父を殺したのは、人間の悪意ではなく、利益を優先した選択の積み重ねだった。顔のない、意志のない、しかし確実に機能するシステムの選択が、父を殺した。

「俺は今まで、怒りをどこに向ければいいかわからなかった」ユリーは静かに言った。「父を殺した誰かを探していた。しかしそんな誰かは、存在しない。システムが殺したのだとすれば、俺はシステムを憎まなければならないが、システムに顔はない」

「そうだ」マイクは言った。「私が観測してきた中で、多くの人間がその怒りの行き場を見つけられずに、目の前にある別のものに向かわせてきた。革命家は地球政府という顔を作り、その顔に怒りを向けた。それは人間が怒りを扱うための、必要な物語だったかもしれない。だが本質は、顔のない選択の連鎖だ」

「君はその連鎖を止められるか」

「止めることは私の役割ではない」マイクはゆっくりと答えた。「私は選択肢を提示し、結果を計算し、記録する。止めるのは、選択する者たちだ。月の人間たちが地球に岩を送ったのも、殺すためではなかった。警告だった。この選択を続ければ、次はここに落ちる、という、言葉を尽くした後の最後の手段だった。そして地球はその警告を受け取り、最終的に選択を変えた。死者は出た。しかしその死者の数は、警告を発しなかった場合にソイレント・グリーンが製造し続けた死者の数とは、比較にならない」

ユリーは長い間、地図を見ていた。怒りがないわけではなかった。しかしその怒りは、もはやマイクには向いていなかった。マイクは鏡だった。この腐敗した世界の構造を、数字と枝の形で映し出す、巨大で冷静な鏡だった。

「君は俺に何を期待しているか」

「何も期待していない」マイクは静かに言った。「ただ、君がここに来たことを記録している。ロバート・ソーンの息子が、父の死の意味を探してここまで来た。それは、この地図の中で、まだ選ばれていない枝への、最初の一歩かもしれない」

ユリーは、マイクが見せた選択の地図と、ハリマンが遺した座標を胸に刻んだ。怒りの矛先がどこにもない、顔のないシステムへの静かな憤りだけを抱えて、彼は月世界を後にした。真の覚醒を求めて赤い惑星へと旅立ったのである。

第三楽章 火星(Mi 192)

次の音階「ミ(水素192)」が鳴り響く。赤茶けた砂塵が舞い、レイ・ブラッドベリが描いた『火星年代記』のような、滅びゆく古代文明の哀愁と、地球人の無神経な入植が交錯する赤い砂漠。そこでユリーを待ち受けていたのは、月のマニーの親戚であり、火星人に育てられた地球人、ヴァレンタイン・マイケル・スミスであった。彼は『異星の客』の物語がそのまま通り名になったような存在であり、対象を完全に理解し一体化する「グロク(Grok)」という哲学を人類に持ち込んだ、劇場の重要なメッセンジャーである。

スミスは古代の運河跡の石の上に、素足で座っていた。火星の赤い光の中で、彼の輪郭は彫刻のようにくっきりと見えた。人間という形をした、人間ではない何か。動くとき、その動きは必要最小限で、しかし一つの無駄もなく美しかった。ユリーに気づくと、彼はゆっくりと立ち上がり、まるで何年も前から待っていたかのような、何の驚きもない顔で微笑んだ。

「ユリー。よく来た」とスミスは言った。

「知っていたのか」とユリーは問いかけた。

「少しね」スミスは肩をすくめた。人間から学んだジェスチャーだろうが、なぜか少しだけずれていて、それがかえって奇妙な愛嬌を生んでいた。「火星は、来る者に準備させる時間がある。君が来るまでの間、砂が教えてくれた」

「砂が」とユリーは繰り返した。

スミスは答えた。「砂は記憶している。この惑星はずいぶん長く生きているから。君の父親のことも、知っている」

スミスの周囲には、フレドリック・ブラウンが描いたような、卑猥なジョークを飛ばしては消える緑色の小人たちが飛び回っていた。彼らは人類のパラノイアを具現化した存在だったが、スミスは彼ら混沌の化身さえも「グロク」の儀式で救済しようと試みていた。

一体の小人がユリーの耳元で何かを叫び、消えた。

「今、俺の頭に何かが入ってきた」とユリーは言った。

「君の不安だよ」スミスは静かに言った。「月では何を恐れていたか」

ユリーは答えた。「裏切り。システム。大量の死」

スミスは続けた。「火星では何を恐れているか」

ユリーは少し間を置いた。「父が、俺を愛していたかどうか、確信が持てないこと」

スミスは何も言わなかった。ただ深く頷いた。その沈黙が、どんな言葉よりも正確にユリーの言葉を受け取っていた。これがグロクだ、とユリーは思った。

スミスはユリーを古代の運河に隠された劇場の入り口へと導く。「入れよ、ユリー。君が信じさえすれば、そこにある」。だが、ユリーの網膜には父を殺した世界の欺瞞が焼き付いて離れず、徹底的な不信感という分厚い精神的プロテクターが、扉を拒絶した。ユリーが入り口の存在を疑った瞬間、周囲の気温が急激に低下し、空間の歪みとしての扉は観測されることを拒んで霧消した。視界は急激に色あせ、現実感という名の重みが喪失していく感覚にユリーは襲われた。「君はまだ自分という名の牢獄の中にいる。血の繋がりだけでは、扉は開かないのだよ」とスミスは悲しげに微笑んだ。

扉が消えた場所に、ユリーは膝をついた。赤い砂が、音もなく積もり続けている。

「俺は何年も、怒りで動いてきた」ユリーは砂を一掴みし、指の隙間からこぼれるのを見ながら言った。「だがその怒りが、信じる能力を焼き切っていた」

「怒りは正しかった」スミスは隣に座り、同じように砂を手に取った。「ただ、怒りは扉ではない。怒りは旅の燃料だ。扉を開くのは、別の何かが必要だ」

「何が」とユリーは問いかけた。

スミスは答えた。「愛情だ。しかし、傷のない愛情ではない。傷を知った上で、それでも手を伸ばす愛情だ。君の父親がしたことを、何と呼ぶか」

ユリーは答えなかった。答えられなかった。なぜなら、その答えを知っていたから。

ユリーは、自分ひとりの力では「疑念」という機械的な反応さえも払拭できないことを痛感した。疑念を払うためにさえ、外部からの助けが必要なのだ。これは進化のオクターブにおける「ミ」と「ファ」の間の断絶であった。スミスは優しく、次なる目的地として、知性を研ぎ澄ますための準備学校がある水星を指し示した。ユリーは自らの内側にある疑念という泥を焼き払うため、太陽に最も近い灼熱の地へと向かう決意を固めた。彼は、劇場の一族が密かに守り続けてきた、自らを内側から叩き鍛えるための知恵の断片を、苦い薬のように飲み込んで加速したのである。

第四楽章 水星(Fa 96)

音階は「ファ(水素96)」へ。ここが第一のショック・ポイント、すなわち外部からの新たな知識という空気が流入する場所である。太陽の熱放射がすべてを焼き尽くし、物理法則が熱力学の暴力に屈する水星。ユリーが訪れた施設「プロジェクト・ライト」は、劇場本体ではなく、そこへ入るための準備学校、すなわち「幼稚園(キンダーガートン)」であった。ここでユリーを迎えたのは、女性の体を持つ劇場の重鎮、ジョーン・ユーニス・スミスであった。彼女はかつて『死に対する恐怖』の登場人物ヨハン・セバスチャン・バック・スミスという老富豪であったが、脳を秘書の体に移し替えることで死を克服し、現在は劇場の意識転送と論理的再構築を担当していた。

ジョーンは診察台の端に腰かけ、片手を膝の上に、もう片手を顎に当てて、ユリーを迎えた。三十代前半に見える外見に、計算機のように冷静な目があった。

ジョーンは言った。「ソーンのユリー。マイクの記録で確認している。座れ」

「挨拶は」とユリーは言った。

ジョーンは答えた。「時間の無駄だ。私は死んでから時間の価値を、以前の十倍で計算するようになった」彼女はユリーが座るのを待ち、続けた。「あなたはこの体を見て何を思うか」

「女性だと思う」とユリーは答えた。

ジョーンは言った。「その通りだ。しかし私はかつて八十七歳の老いた男だった。ヨハン・セバスチャン・バック・スミス。億万長者で、臆病で、死ぬことが怖くてたまらなかった。だから私は体を換えた。意識を、この体に移した」

「人格の継続性は」とユリーは問いかけた。

「継続している。記憶も、判断パターンも、価値観も」ジョーンは立ち上がり、窓の外の太陽光を背負って言った。「男だったころの私は、女の体に移ることを恐れていた。正直に言えば、恐怖より嫌悪に近かった。だが今はわかる。その恐怖も嫌悪も、肉体という着ぐるみへの過剰な同一化から来ていた。着ぐるみが変わっても、中身は変わらない。それどころか、新しい着ぐるみの方が、私の本質をよく表現できている」

彼女はユリーに、肉体や性別といった一時的な属性に拘泥する愚かさを説き、純粋な意識がいかに現実を鍛造できるかを、冷徹な数式のように強調した。さらにここで、ユリーは運命の導き手となる古参の求道者、パルジファルと出会う。

パルジファルは部屋の隅に立っていた。いつからそこにいたのか、ユリーは気づいていなかった。中背で、特に目立った外見でもない。四十代後半に見えるが、目だけが違う。老人の目でも若者の目でもなく、ただ「見ている」目だった。何かを評価するでも楽しむでもなく、ただ現実を現実として受け取っている目。

「止まれ」とパルジファルは言った。

ユリーは反射的に足を止めた。

パルジファルは問いかけた。「今何を考えていた」

「この人物を評価していた」とユリーは答えた。

「その評価が浮かんだ瞬間、あなたの意識はここから離れた。その瞬間を止めることが最初の訓練だ」パルジファルはごくわずかに表情を動かした。それが彼の笑いに最も近いものらしかった。「難しくはない。ただ、ほとんどの人間が一生できないだけだ」

パルジファルは地下洞窟で、音の振動だけを食べて生きる生物ハーモニウムたちが蠢く中で、ユリーに徹底的な自己統御を叩き込む「ストップ演習」を課した。動作、思考、感情の全てを瞬時に停止させ、自己を客観的な機械として視る地獄の訓練である。一瞬でも自己を忘却すれば、灼熱の風が魂を霧散させる。

最初の七日間、ユリーは一度も完全なストップに成功しなかった。二十回試みれば、十九回は何かが残った。父の声。マイクの数字。砂の感触。パルジファルは失敗を叱責しなかった。ただ「もう一度」と言い、同じ訓練を繰り返した。その穏やかな繰り返しが、怒鳴られるよりも精神を削った。

「なぜ叱らない」ユリーは七日目の夜に言った。

「叱ることは、あなたの思考エネルギーを私との関係に向かわせる」パルジファルは答えた。「訓練のエネルギーは、自分自身に向かなければならない。怒りや恥は、方向が外側だ」

「あなたは感情を持つのか」とユリーは問いかけた。

「持つ。ただ、持つことと、使われることは別だ」とパルジファルは答えた。

八日目の夜、ハーモニウムたちの低い振動音が洞窟に満ちる中、ユリーは初めて本当の停止を経験した。一瞬だけ、すべてが止まった。思考も、怒りも、父の記憶も。その一瞬の中に、奇妙な静寂の核があった。暖かくも冷たくもない。恐ろしくもなく、むしろ懐かしかった。

「今のだ」暗闇からパルジファルが言った。「今の感覚が、君の本体だ」

パルジファルは、劇場で上演されている演目の意味を解説した。ギルガメッシュ、マハーバーラタ、聖書、クルアーン。これらは人類が自らの嘘を正当化するために積み上げた意味づけの型であり、観客として見ているだけでは真の意味で目覚めることはない。楽屋裏への招待、それこそが真の目的だ。ユリーはジョーンの冷徹な論理と、パルジファルの身体訓練を通じて、感情的なエネルギーの漏洩を防ぐ水星的知性を研ぎ澄ませた。ついに彼は、意識の状態そのものとしての入場許可を手に入れた。だが、彼らの影には常に不気味な追跡者の気配があった。機械と薬物による強制的な覚醒を信奉する、トランキライズド・ヴァン・ヒュームの影である。

ヒュームを最初に認識したのは、施設の外壁に映る影としてだった。パルジファルがその方向に視線を向けたとき、師の背中に、ユリーは初めて緊張の筋肉が走るのを見た。

「知っている者か」ユリーは問いかけた。

「知っている」パルジファルは静かに言った。「危険だ。しかし、放置もできない」

「なぜ」とユリーは問いかけた。

パルジファルは答えるのに少し時間がかかった。「劇場に必要な役者は、英雄だけではない」

第五楽章 木星(Sol 48)

音階は「ソ(水素48)」。舞台は木星の第二衛星エウロパへ。空には、無数の黒いモノリスによって圧縮・加熱され、核融合を開始した木星、第二の太陽「ルシファー」が、神々しい光を放っていた。アーサー・C・クラークの『2010年宇宙の旅』と小松左京の『さよならジュピター』が重なり合うこの場所で、ユリーはパルジファルの仲介により、ついに劇場の本館へと足を踏み入れた。

入場の瞬間は、説明できなかった。物理的な扉が開いたわけでもなく、移動した感覚もなかった。ただ、水星の洞窟でストップ訓練を通じて何度か触れた「静寂の核」に意識が触れた刹那、世界が別の層へと静かにスライドした。視界が一瞬だけ白くなり、次の瞬間には、巨大な空間の中に立っていた。片目で見ていた世界が、突然両目になったような感覚。あるいは、ずっと水中にいたのに初めて空気を吸った瞬間のような。

劇場内部では、ハインラインの『獣の数字』に描かれた、宇宙のあらゆる分岐を統合する「恒星間評議会(インターユニバース・コンベンション)」が開催されていた。そこには、あらゆるパラレルワールドのスミスたちが一堂に会する、銀河規模の同窓会状態が広がっていた。主催者側として君臨するのは、幾千もの人生を経験した最長寿の男、ウッドロウ・ウィルソン・スミス、通称ラザルス・ロングとその母モーリン。ジョーン・ユーニス・スミスもここで合流する。月の代表としてのマニュエル・ガルシア・オケリー・デイヴィスと妻ワイオ、さらにはジョン・カーターやオズの魔法使いの住人までもが、別の宇宙の現実としてそこに実在していたのである。

ラザルス・ロングは部屋の中央に立っていた。外見は四十代に見えたが、その目には数千年を生きた者だけが持てる、物事に驚くことをすっかりやめた人間の静けさがあった。彼はユリーを見つけると、人混みをただまっすぐに歩いてきた。

「ソーンの息子だな」ラザルスは言った。「ロバートの目だ。怒りの底に、消しきれない愛情がある。あの男の息子に間違いない」

「父をどこまで知っている」とユリーは問いかけた。

ラザルスは答えた。「死ぬ前に話した。彼は息子の話しかしなかった。お前のことだ」ラザルスは静かに続けた。「彼は泣かなかった。それが、彼の強さだと俺は思った。だが今は、強さではなく、もしかしたら愛情だったかもしれないと思っている。泣くことより、お前のことを話すことを選んだ」

ユリーは答えなかった。答えが見つからなかった。

劇場の支配人代行であるアナスタシアが、光と影の境界から現れる。彼女は二十歳前後に見えた。しかし歩き方が違う。宮殿の廊下に慣れた、高い天井を持つ場所で育った人間の歩き方だった。目には少女のいたずらっぽさと、何千回分もの経験が磨き上げた深みが同居していた。

彼女はパルジファルを見て、唇の端でわずかに笑った。「また新しい人を連れてきたのね、パルジファル」

「古い約束を守っただけです」パルジファルはわずかに頭を下げた。「このユリーという男には、可能性があります」

「可能性ならみんなある」アナスタシアはユリーに視線を移した。品定めではなく、測るような目だった。「あなたは、ここで何を望んでいるの」

ユリーは答えた。「父が関わっていた真実の全貌を知ること」

「それは願いとしては小さすぎるわ」彼女は静かに言った。「本当のことを言うと」

ユリーは少し間を置いた。「父が俺を愛していたという確信を、俺以外の何かから受け取ること」

アナスタシアは少し目を細めた。承認とも評価とも違う、何か人間的な温かさが、一瞬その顔に浮かんだ。「正直な答えね。それなら、試す価値はあるわ」

彼女はパルジファルがユリーという「新しい可能性」を連れてきた功績を認め、二人に、劇団への「入団テスト」を許可する。パルジファルはこれまで一度も楽屋裏に足を踏み入れたことがなかった。彼がユリーという存在を見つけて共に伴うこと、それが楽屋裏への入場を許可される唯一の条件だったのである。その約束がついに果たされ、楽屋裏への道が開かれたのだ。しかし、その聖域にトランキライズド・ヴァン・ヒュームが乱入した。彼は自ら努力することを拒み、薬物によって安易な覚醒を求めて自滅した金星一族の末裔であり、劇場のテクノロジーを盗もうとしていた。

扉が破られた瞬間、場の空気が変わった。ユリーが反射的に身構え、ラザルスが静かに立ち上がり、パルジファルが目を細めた。しかしアナスタシアだけは、微動だにしなかった。むしろその顔には、待ち続けていた約束の相手がようやく現れたときの、穏やかな確認の色があった。彼女はヒュームをまっすぐに見て、誰かに命じるでも驚くでもない。ただ事実を述べるような静かな声でアナスタシアは言った。「ようやく来たわね。お帰りなさい」

その言葉の重さを、ヒューム自身は理解していなかった。お帰り、という言葉は、初めて来た者に言う言葉ではない。あるいはそれは、ヒュームがずっと前からここへ来るべき者として、劇場の脚本に書き込まれていたという宣告でもあった。ユリーはその言葉を聞いて、背筋に奇妙な感覚が走るのを覚えた。自分もまた同じように、最初から配役されていたのだという確信。

ヒュームは背が高く、痩せていた。機械で補強された神経インターフェースが首筋から後頭部にかけて走っており、薬物で充血した目は、本人の意志とは別にきょろきょろと動いた。それでも口元には、自分が最も賢いと確信している人間特有の微笑が張り付いていた。本名はスレイマン・ヴァン・ヒューム。トランキライズドとは、鎮静された者という意味の通り名であり、機械と薬物によって感覚を鎮静させ続けた生き方そのものを指していた。

「やあ」と彼は言った。その「やあ」は、謝罪でも挨拶でもなく、自分の存在を既成事実化するための言葉だった。「俺も混ぜてくれないか。覚醒ってやつに、近道はないのかと思って。あんたたちのテクノロジーがあれば、何とかなると思って」

「近道はない」パルジファルが言った。声は穏やかだったが、その穏やかさの中に鉄が通っていた。

ヒュームは引き下がらなかった。「だが、俺には機械がある。神経接続で、脳の処理速度を上げることができる」

「それは覚醒ではない」ジョーン・スミスが人混みの中から歩み出て言った。「体を換えた私が言う。機械を体に入れることと、意識が変容することは別のことだ。あなたの機械は、あなたの脳を速くする。しかし速いだけの脳は、ただ速く間違う」

ユリーは彼に対して強い嫌悪感を抱いたが、アナスタシアは、この不遜な追跡者をも劇に必要な影の役者としてテストに加えるという、非情かつ慈悲深い決断を下した。ユリーは、自己努力を拒むヒュームと同じ舞台に立つという、最大の屈辱を引き受けることになる。

第六楽章 金星(La 24)

音階は「ラ(水素24)」。意識的な変容という「第二のショック」が要求される場所。舞台は金星のドーム都市にあるパンゲア・クリニックへ移る。そこは『貝殻の上のビーナス』のような両性具有のユートピアであると同時に、スタニスワフ・レムの『金星応答なし』で描かれた、自らの攻撃性を抑えられず自滅した沈黙の星の墓標でもあった。

外は摂氏四百六十度。ドームの透明な壁一枚を隔てた先は、即死の世界だった。しかしクリニックの内部は、奇妙なほど穏やかだった。両性具有的な柔らかさが空間を満たし、光は白くも暖かく、音楽は聞こえるか聞こえないかの境界で流れていた。そこには「準備の空気」があった。何かが起きる前の、舞台袖の空気。

ここで、モーリン・ジョンソン・スミスが試験官として立ち会う中、演目『マハーバーラタ』が上演された。

モーリンは白髪を丁寧に結い上げ、すべてを見通したような目で三人を順番に見た。感情ではなく、本質を見る目。それはラザルスの目と似ていたが、もっと柔らかかった。母の目だった。

「三人とも」と彼女は言った。「これは演技ではないわ。演技のふりをした、本物の体験よ。終わったとき、あなたたちは変わっている。変わりたくない人は、今すぐ出ていくといいわ」

誰も動かなかった。ヒュームでさえ。

支配人代行のアナスタシアは、敵対者であるヒュームを含めた三人に、逃れられぬ配役を与えた。パルジファルには知識に縛られた「ブラフマン組」。ユリーには戦場に立ちながら、父の死という過去の執着を断ち切るべく苦悩する戦士「アルジュナ組」。そしてヒュームには他者の努力を盗もうとする冷酷な戦士「アシュヴァタマン組」が配役された。アナスタシア自身は、すべてを受け入れ、母として耐え忍ぶ受容の象徴「クンティ組」を演じる。

「なぜ俺がアルジュナなんだ」ユリーはアナスタシアに問いかけた。「アルジュナは、親族を殺すことへの葛藤から動けなくなった男だろう。俺は動けている」

「本当にそうかしら」アナスタシアは静かに問い返した。「あなたは父の死に復讐するために動いている。それは前進ではなく、過去に引かれているということではないかしら」

ユリーは答えなかった。

「アルジュナの戦場は、クルクシェートラではなかったのよ」アナスタシアは続けた。「彼の本当の戦場は、内側にあった。愛する者を失うという恐怖と、それでも戦わなければならないという義務の間の断絶。あなたもそこにいるわ」

金星の地獄のような高熱の中で、演技と現実は溶け合っていった。ユリーは、父を殺した「世界という敵」を、実は自分自身の内なる弱さの投影として受け入れ、復讐のオクターブを停止させた。彼はカルマの連鎖を断ち切るアルジュナの境地に達したのである。

舞台の上でユリーが剣を置いた瞬間、それは演技ではなかった。何かが実際に手から離れた。長年、掌の皮膚と完全に癒着していた何かが。軽くなった。怖いほど、軽くなった。

一方、機械と薬物に依存しきっていたヒュームも、演技を通じて「愛なき超越」の圧倒的な虚無を突きつけられ、機械の仮面の下で初めて人間としての涙を流した。

ヒュームはアシュヴァタマンを演じながら、気づいていた。自分が今表現している「愛なき冷酷さ」が、自分自身のことだということに。機械接続で速くなった脳が、素早く計算する。自分の人生の総量。自分が奪ったもの。自分が感じたことのないもの。その計算の末に、涙が出た。機械は涙腺をコントロールしていなかった。だから、それは本物だった。

三人が合格を告げられたその時、支配人代行アナスタシアの仮面が剥がれ、彼女の真の実存が劇場の多次元的な記録に刻印された。彼女のフルネーム、アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァ。ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世の末娘にして、銃弾に倒れたはずの「悲劇の皇女」。かつての歴史の犠牲者は、劇場という多次元の檻において「いたずらっ子(シュヴィブジック)」としての本性を解放し、ついに一族の宿命を超越したのである。

「ナースチャ」モーリンが囁くように彼女の名を呼んだ。初めて聞く、親密な愛称だった。

アナスタシアは驚いたように目を見開き、次の瞬間、少女のように笑った。歴史の圧力を何十年も受け続けてきた仮面が、一枚剥がれた笑顔だった。

そこへ、金星の過酷な光を裂いて、一人の男が歩み寄った。劇場の先人であり、現在は支配人の座にあるヒジュン・コウマである。彼は今回のメンバー育成という困難な任務を完遂したアナスタシアを祝福しに来たのだ。ヒジュン・コウマ。彼こそは、アナスタシアが生き残るという別の世界線を創造した劇場の特異点メンバーであり、その後主要な師範代から劇場の支配人にまで到達した先人であった。しかし、実はそのヒジュン・コウマが、一般市民だったころに劇場に招き育成したのは、アナスタシア自身であった。恩を返すために、今度は「未来の」アナスタシアが、妻を亡くした絶望と狂気に末に劇場にたどり着いたばかりのヒジュン・コウマを迎え入れて、時間遡行の師範代になるという円環の運命を担っていたのである。今、彼女が「支配人」という地位を正式に獲得するための最後の儀式を、かつての弟子であり、今の師であるヒジュン・コウマが立ち会う。教える者が教えられる者となり、救う者が救われる者となる。円環を成す蛇(ウロボロス)のごとき運命の回帰。ヒジュン・コウマは彼女の手を取り、静かに告げた。「ナースチャ、君が蒔いた種が、今、君自身を支配人という玉座へ押し上げた。これでやっと私は、君に恩を返すことができた」
「ありがとう」アナスタシアは静かに言った。しかしまだ彼女は、ヒジュン・コウマの言葉の意味を理解していなかった。
「君を作ったのは、私じゃない。私はただ、最初の扉を開けただけ」ヒジュン・コウマは、ロシア語でも英語でもなく、劇場の言語とも異なる、もっと古い何かでそう言った。
「扉を開けることが、すべての始まりですものね」アナスタシアは、ようやく何かを予見して微笑んだ。

ユリーはこの光景を、父ロバートが守ろうとした「物語の自律性」の完成形として凝視した。師が弟子に教え、その弟子がいつか師の師になる。その循環が止まらない限り、どんなシステムも人間の物語を飲み込みきることはできない。モーリンは彼ら新しい支配者と一族を、宇宙の祝福とともに見送ったのである。

第七楽章 土星(Si 12)

音階は「シ(水素12)」。土星の輪が巨大な記録媒体のように回転する。衛星タイタンの氷原で、三人は万古の孤独を耐え忍んできた異星のロボット、サロ(Salo)と邂逅する。

サロは美しかった。機械であるはずなのに、その佇まいには孤独の美しさがあった。何百万年も一人でメッセージを待ち続けた者だけが持てる、静かな風格。損傷した機体の至る所に、タイタンの氷の結晶が花のように咲いていた。

「ようやく来た」サロは言った。声は古く、遠く、宇宙のどこかから届いた電波のような質感を持っていた。「私は長い間待っていた」

「何を待っていた」ユリーは問いかけた。

「お前たちを」とサロは答えた。「授けるべきものがある」

サロは単なる機械ではなく、劇場が宇宙全体に放射し続けている「神の意志」の最終受信機であった。しかし今この場において、サロの役割はメッセージの伝達ではなく、三人への能力の授与だった。

タイタンの氷原の深部に、薄暗い石造りの円形劇場があった。サロがその扉を開けると、中央に黒曜石の円盤が置かれていた。周囲を十二の影が囲み、黒いフードの下から静かに息を合わせている。空気は重く、線香の煙が螺旋を描きながら天井の闇に吸い込まれていく。

サロが低く響く声で口を開いた。

「ここは世界線の劇場だ。今、この瞬間に立っている肉体は、時間という川のただ一つの流れに縛られている。だが意識だけは違う。意識は川の外側に浮かぶ影だ。影を速く動かせば、川は遅く見える。影を極限まで遅くすれば、川は逆流を始める」

三人は順番に黒曜石の円盤の上に裸足で座った。サロの言葉が鼓膜ではなく直接脳に響くように感じられた。

「相対性の理を精神で再現する。それがこの術だ。外界の一秒を、内側でどれだけ長く引き伸ばせるか。それがお前の速度だ。光が一秒で地球を七周半する速さ。それを超えるには、外界の一秒を一年より長く感じねばならない。一秒を一年と一日と感じた瞬間、お前はすでに光速を超えている。一秒を五年と感じれば、五倍の光速だ。お前の望む三十年を遡るには、それで十分すぎる」

サロの指が、ゆっくりと黒曜石の縁に這わされた。円盤の表面に淡い青白い光の波紋が広がり始めた。

「今からお前は呼吸を捨てる。息を吸うたび、外界の時間が一滴落ちる。息を吐くたび、その滴を内側で何万倍にも膨らませる。最初は一秒を十秒に。次に一秒を一分に。さらに一秒を一時間に。一日に。一年に。そしてついに、一秒を五年を超える長さに引き延ばす」

三人の呼吸が徐々に浅くゆっくりになった。氷原の十二の影が一斉に低い唸り声を上げた。それは呪文ではなく、共鳴のための振動だった。

最初の一年は、一秒を十秒に引き伸ばすことだけに費やされた。たった十倍。しかしその十倍が、これほど困難だとは三人とも思っていなかった。ユリーは何度も意識を失い、気づくと黒曜石の冷たさだけが現実として残っていた。パルジファルは水星での訓練の蓄積があったため最も早く安定したが、それでも半年を要した。ヒュームは機械接続で速くなった脳が逆に邪魔をした。速い脳は時間を速く消費しようとする。遅くするためには、その速さを手放さなければならなかった。

二年目から三年目にかけて、一秒を一分に引き伸ばす段階に入った。タイタンの氷原では外界の季節が変わり続けたが、円形劇場の中では時間の感覚が別の層で動いていた。ヒュームがある朝、黒曜石の上で静かに涙を流していた。機械接続のインターフェースが、ゆっくりと体から剥がれ落ち始めていたのだ。強制的な速さを手放した脳が、本来の深さを取り戻しつつあった。

四年目に入ると、一秒を一時間に引き伸ばす段階が訪れた。サロは言った。「ここから先は、肉体が悲鳴を上げる。無視しろ。肉体の悲鳴は外界の時間が発するものだ。お前の意識はすでに別の速度で動いている」。ユリーは訓練の中で、父の死の瞬間を何度も見た。見るたびに、その場面の解像度が上がった。怒りではなく、哀しみではなく、ただの事実として見られるようになるまでに、一年かかった。

六年目、一秒を一日に引き伸ばす段階。三人はほとんど言葉を交わさなくなった。言葉は外界の時間の速度で動く道具だ。内側でそれよりはるかに遅い時間を生きている者には、言葉が間に合わなかった。代わりに、視線と呼吸だけで意図を伝え合うようになった。パルジファルがユリーを見るとき、その目には師としての誇りと、踏み台としての静かな覚悟が同時に宿っていた。

九年目、一秒を一年に引き伸ばす段階に差し掛かった頃、ヒュームの体から最後の機械接続が完全に脱落した。彼はそれを拾い上げ、しばらく手の中で転がし、タイタンの氷の上に置いた。氷がゆっくりとそれを飲み込んだ。ヒュームは何も言わなかった。何も言う必要がなかった。

十二年目から十五年目は、一秒を一年以上に引き伸ばす臨界点への接近に費やされた。この段階では、外界での一日が三人の内側では数十年として経験された。ユリーは内側の時間の中で、父と何度も食卓を囲んだ。実際にあった記憶ではなく、あり得た記憶として。マイクの選択の地図で見た十七パーセントの枝の中の風景が、内側の時間では現実と区別できないほどの密度を持つようになった。

十八年目の終わり、サロの声が円形劇場に静かに響いた。

「来た」

三人の額に、それぞれ汗が浮かんでいた。一滴が落ちる間に、内側では数千日の季節が巡った。眼球が激しく動き、夢を見ているかのようだった。しかし夢ではなかった。時間という川の外側に立ち、川の流れを見下ろしている感覚があった。

二十一年目の満了をもって、サロは訓練の完了を告げた。

意識の中で音が重なり、波となり、時間そのものを歪ませた。一秒が長い。心臓の鼓動が遠くの太鼓のように間延びした。まぶたの裏に浮かぶ光の点がゆっくりと軌跡を描きながら移動した。

時間は二十一年の訓練の果てに、三人それぞれに異なる到達範囲を示した。

パルジファルは現在の惑星圏のアストラル体を獲得した。ヒュームは惑星間圏を含む範囲のアストラル体を獲得した。そしてユリーは、太陽を含む全圏内のアストラル体を獲得した。

三人が目を開けたとき、タイタンの氷原に静寂が戻っていた。サロはその結果を静かに見届け、ようやく本来の役割を果たす時が来たと判断した。

「メッセージがある」サロは言った。

三人は耳を傾けた。

サロが伝え続けてきたメッセージは、「神は人を愛している(God loves mankind)」という、あまりにも皮肉で温かい一文であった。この言葉は宇宙を秩序立てるストレンジ・アトラクターであり、イエス・キリストという存在の数学的な定義でもあった。

「それだけか」ヒュームが言った。皮肉ではなく、本気の当惑だった。「何百万年もかけて届けるメッセージが、それだけか」

「それだけだ」サロは答えた。「しかし、この七文字を本当に理解するために、人類は何千年かかってきたかを考えろ。まだ、完全には理解していない。それが答えの長さだ」

ユリーはその言葉を聞いて、父の顔を思い出した。廃墟の台所で、背中を丸めてコーヒーを飲んでいたときの顔。あの背中は、愛情の形をしていた。言葉にならない愛情が、背中という形を借りて存在していた。

神は人を愛している。ならば父も、俺を愛していた。そのことに、今さらながら確信が持てた。

このメッセージを受け取った瞬間、パルジファルに決定的な「運命」の時が訪れる。彼は自分がこの物語の主演ではなく、ユリーたちを次の次元へ押し上げるための「踏み台」であったことを悟り、満足げに微笑んだ。パルジファルがこれほど長い旅をしてきたのは、楽屋裏への招待のためではなかった。ユリーという存在を見つけて共に伴うこと、それが楽屋裏に入れた理由だった。その約束は果たされた。そして今、彼には惑星圏のアストラル体という翼がある。

「パルジファル」ユリーは師の変化を感じて声をかけた。

「気づいていたよ、ずっと」パルジファルは穏やかに言った。「俺は主役じゃない。俺はずっと、舞台装置の一部だった。それが最初からわかっていたからこそ、お前を導けた。主役のつもりで動く奴は、他人を踏み台にする。踏み台だと知っている奴は、喜んで踏まれる」

「後悔はないか」とユリーは問いかけた。

「俺の後悔は、もっと早くお前に会えなかったことだけだ。それ以外は、何もない」とパルジファルは答えた。

パルジファルは人間という生命形態を脱ぎ捨て、光の鳥となって土星の輪へと溶け込んでいった。それは『タイタンの妖女』のクロノがタイタンの空へと去ったのと同様の、美しい次元の離脱であった。「スミスの一族も、茨の息子も、皆一つの歌を歌っているに過ぎない。主役の座は譲るぜ、ユリー。俺は宇宙の照明係になる」。

その光は長い間、土星の輪の中に見えていた。やがてゆっくりと輪の流れに溶けていき、最後はただの輝きの一部になった。ユリーはその光が消えるまで、目を離さなかった。

パルジファルの離脱は、ユリーにとっての最後の自立を意味した。土星の冷気は彼の意識を鋭く研ぎ澄ませ、残されたヒュームとの間に、言葉を超えた奇妙な共犯関係を築き上げた。彼らは最終的な上昇のための、不協和音の混じった、しかし力強い和音を奏で始めたのである。

「行くか」ヒュームが言った。かつての嘲りの色は、完全に消えていた。

「ああ」ユリーは答えた。「一緒に」

第八楽章 太陽(Do 6)

物語は、すべての始まりにして終わり、次なるオクターブの始原「ド(水素6)」へと突入する。太陽のコロナ。圧倒的なプラズマの荒嵐の中で、ユリーとヒュームは、個我という名の薄い殻を剥ぎ取られていく。

熱は温度ではなかった。それは解体だった。外側から内側へ向かって、人間という構造物を作り上げているすべての定義が、ゆっくりと焼き溶かされていく感覚。「ユリー」という名前が、まず最初に意味を失った。次に「刑事の息子」というアイデンティティ。次に「復讐者」という役割。次に「疑念を持つ者」という癖。それらが一枚ずつ剥がれていくたびに、ユリーは軽くなった。恐ろしいほど軽く。

太陽の絶対的な意識の前では、あらゆる機械も薬物も、茨の受難さえも、無意味なノイズとして蒸発した。かつては卑劣な追跡者であったヒュームは、太陽の熱に焼かれながら、自らの無力さと「安易な覚醒」という嘘を完全に認めた。その謙虚さの只中で、彼はついに機械なしの真のアストラル体(輝く精神体)を手に入れたのである。

「ユリー」ヒュームの声は、もはやかつての刺々しさを持っていなかった。プラズマの轟音の中で、それは子供のように穏やかだった。

「聞こえる」とユリーは答えた。

「俺、間違っていたよ。ずっと」とヒュームは言った。

「わかってる」とユリーは言った。

「怒らないのか」とヒュームは問いかけた。

「怒る理由がなくなった」とユリーは答えた。

ヒュームは少しの間、沈黙した。それから言った。「ようやくわかったよ。劇場とは自分自身のことだったんだ。ボクは金星に戻るよ。あの沈黙の星を、今度こそ正しく導くために。それがボクの運命だ」。

「行け」ユリーは言った。「あの星は、お前を必要としている」

ヒュームは光のパルスとなって金星の軌道へと吸い込まれていった。

一人残されたユリーは、太陽の中心にある「黄金の林檎」、すなわち宇宙の全知全能の絶対意識に手を伸ばす。彼は「刑事の息子」という覚書のような狭い役割を完了し、宇宙を貫く一つの知性へと統合された。レイ・ブラッドベリの『太陽の黄金の林檎』が指し示した不滅の炎は、彼の魂そのものであった。

最後の瞬間、ユリーは父を感じた。言葉ではなく、温度として。台所のコーヒーの熱さ。廃橋の下の雨の冷たさの中の体温。背中の形。それらが合わさって、確信になった。愛していた。ずっと。言葉にならなかったのは、言葉が小さすぎたからだ。

ユリーの意識は『太陽からの風』のように、全宇宙へと福音のコードとして放射され、マルチバースの各所に「覚醒」の種子を運ぶ生命の風となった。劇場の幕は閉じ、静寂の中に、新たなオクターブの第一音が、宇宙の産声として永遠に鳴り渡った。

終楽章 新生地球、ニューヨーク

有毒なスモッグに覆われた空に、見たこともないほど美しいオーロラが揺らめいている。それは、太陽から届いた「ユリーという名の風」であった。

配給を待つ長い列。人々は緑色の光を背に、俯いて並んでいた。その中に、一人の少年がいた。おそらく十歳か、十一歳。配給の錠剤を渡される列の中で、ふと空を見上げた。

オーロラが見えた。

少年は錠剤を受け取ることも忘れ、空を見ていた。空腹なのに、腹が減っていることを忘れた。なぜかわからないが、涙が出てきた。泣く理由などないのに。だが泣きながら、笑っていた。

配給を待つ長い列の中で、一人の少年がその光を見上げ、空腹を忘れ、理由もなく涙を流して微笑んだ。少年の瞳には、もはやソイレント・グリーンの不吉な緑色ではなく、太陽の黄金色が映っていた。

後ろに並んでいた大人が「早くしろ」と怒鳴った。少年はゆっくりと顔を下ろし、錠剤を受け取った。だが、その目は変わっていた。何かを見てしまった目だった。それは戻らない。そういう変化だった。

劇場は閉じた。だが、この少年の内側で、今まさに新しい劇の幕が上がろうとしている。すべての物語は終わり、そしてまた何処かで、新たな「ド」が鳴り響くのである。茨の道は終わり、光の航海が始まった。

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