二つの星 ——重力圏から離脱する日【創作大賞2026ホラー小説部門】TALESにて公募中
試行錯誤中のLaLaLaです。
この小説は、「骨格先行型・AI 補完執筆法」で書いた小説です。
プロットを使わずAIと対話しながらAに主導権を与えず、私の脳内にある物語を忠実に小説にした作品です。
あらすじ
「スープ、冷めちゃうよ」——その一言が、夫には「摂氏六十八度。冷めている。今、計測した」としか届かない。論理と効率だけで世界を測る夫と暮らす妻にとって、夕焼けの美しさも、ただ隣にいたいという願いも、すべて「非効率なエラー」として処理されていく。見られず、応えられず、彼女は少しずつ透明になっていく。吐く息さえ、もう誰にも届かない。やがて妻は理解を諦めることで生き延びる術を覚え、夫を「ただの風景」として見はじめる。その瞬間、二つの星の重力が、静かに逆転する。応えの返らない部屋で、今度は夫が、自分の論理を支えていたものの正体を知る——。依存した側を順に喰らう、家庭という名の真空の記録。
第一章 計測される食卓
テーブルの縁、右側に置かれたスプーンが、ほんの数ミリだけ角度を変えた。向かいに座る相手の指が、ステンレスの冷たい光沢の上から離れる。部屋の湿度が、自分の肺の中にまで浸透してくる。壁の向こうの路地を走る車の音が、窓ガラスを細かく震わせるのを、私は耳の奥で追いかけていた。
湯気を立てていたはずのスープの表面に、歪んだ私の顔が映っている。蒸気は、相手の顔を通り抜け、背後の暗がりに向かって斜めに流れていく。私は喉の奥から立ち上がる重たい塊を、小さく息と一緒に吐き出した。
その白い吐息が、空中に溶けていく。
相手がスープを口に運ぶ。匙が陶器に触れる硬質な音が、鼓膜の裏側で不規則に跳ね返る。私はその音の消え際を見つめる。私の視界の端で、相手の瞳がどこか遠くの、私には決して触れることのできない地点を捉えている。
私の吸い込んだ空気は、部屋のどこにも引っかからず、ただ冷たい空洞を通り抜けていく。胃のあたりが小さく引きつった。テーブルの上で、私は自分の指先を硬く握りしめた。
「スープ、冷めちゃうよ」
私がそう言ったのは、単なる献立の報告ではない。今の私には、あなたの視界に入り込むための、最後の防波堤だった。
「冷めている」
返ってきたのは、私の言葉の温度を完全に抜き取った、平滑な音だった。相手はスプーンを置かず、正確に同じ角度で持ち直す。
「冷めているよ。今、計測した」
「……そうじゃなくて。美味しい温度のうちに食べてほしいなって、それだけ」
私の吐息が、食卓の上のわずかな隙間に落ちた。相手は、その言葉を一度脳内で反芻するような間を置いたあと、また窓の外の、私には見えない景色に焦点を戻した。
「美味しい温度、という定義が曖昧だ。科学的には、人体の平均的な味覚受容体は、摂氏六十度から七十度……」
「違うの」
喉の奥で硬いものが突き上がり、私の声がわずかに掠れる。
「私の言葉は、温度の数値の話じゃない。あなたがそのスープを飲んで、私と同じ空間に、同じ時間軸で立っていることを確かめたいだけなの」
「非論理的だ」
相手の瞳に、私の輪郭が映る。けれどその奥に、私という存在を感知する気配はない。ただそこに、壁の一部として存在する物体を認識しているだけだ。
「スープはただのスープだ。なぜそこに、そういった情緒を付与しようとするのか理解できない」
相手が再びスプーンを運ぶ。陶器が鳴る。「カチリ」と、私の心臓のどこかが欠けるような音がした。私は自分の吐息の行方を見失った。テーブルの向こう側から漂ってくるのは、彼が纏う無機質な冷気だけで、私の吐き出した温かな湿気は、誰にも触れられぬまま、床の端へと沈んでいく。
「理解できなくていい」
私は自分の指先を握りしめ、爪が食い込む痛みを追いかけた。
「ただ、あなたが今、ここにいるっていう事実だけでいいの」
「ここにはいる」
相手はスープを見つめたまま、微動だにせず答えた。
「それが何か問題なのか」
テーブルの上の空気が、微動だにしない。私の言葉は、真空の海を漂うだけで、相手の星には何一つ届かなかった。
「そうじゃない」
私の喉からこぼれた音は、自分でも驚くほど小さく、すぐに部屋の湿気の中に霧散した。
「論理とか、科学とか、そういう話をしているわけじゃないの」
私は食卓の端を指先でなぞった。木の節が、指の腹にわずかな抵抗として伝わる。相手はそれを見ようともせず、ただ自分の皿の中に残ったスープの残量だけを均等に整え続けている。
「私が言いたいのは、今日、外を歩いた時に見かけた夕焼けがひどく綺麗だったこと。それを、あなたにも見てほしかったなって、ただそれだけのことなの」
相手の手が止まる。数秒の沈黙。その間に、私の鼓動が耳の奥でうるさいほどに脈打つ。
「見ていない」
戻ってきた声には、悪意のかけらもない。ただの事実の提示。
「私はその時、図書館で最新のデータベースの更新作業をしていた。夕焼けは視覚情報として個人の網膜に入るだけで、実用的な価値がない」
「価値があるかないか、なんて言っていないよ」
私の視界が、一瞬だけ熱を持つ。瞬きをすると、目の前のスープの湯気が、また先ほどよりも頼りなく揺れた。
「綺麗だったから、あなたにも見てほしかった。そうやって、同じ夕日を並んで見たかったっていう、ただそれだけの、私の、個人的な願いなの」
「非効率だ」
相手はスープを一匙すくった。唇に触れる前の、そのわずかな停止。
「見たいという欲求があるなら、ネット上で高精細な画像を見ればいい。物理的な移動と、そのために費やす時間と、何より夕焼けという不安定な気象現象を共有することに、何の目的がある?」
私は自分の吐息を、ゆっくりと深く吐き出した。それは行き場を失い、相手の横を通り抜けて、背後の壁へと吸い込まれていく。壁のシミが、照明の下で冷ややかに浮かび上がる。
「目的……ないよ。ないからいいんじゃない。ただ、一緒にいるって、そういうことじゃないの?」
「定義が矛盾している」
相手は匙を置いた。陶器の音が、部屋の隅々まで硬く響き渡る。
「『一緒にいる』という状態は、物理的な位置関係を指す。我々は今、同じテーブルについている。それ以上でも、それ以下でもない」
相手は立ち上がった。椅子が床を擦る、鋭い音が私の鼓膜を突き刺す。私には、その背中が、重力圏から切り離されていく宇宙飛行士のように見えた。私は自分の指先を見つめた。爪の先が白く変色するまで、テーブルの角を押し付けている。
空気はどこまでも冷たく、私の吐息だけが、消え残った残像のように、テーブルの上に漂い続けている。
相手が部屋を出ていく。足音が廊下のフローリングを一定のリズムで刻み、やがて遠ざかっていく。その規則正しさが、私の心臓の鼓動とどうしても噛み合わない。
私は残されたスープの器を見つめた。表面に薄く張った膜が、室温に馴染んでいく。
「……ねえ」
口に出したが、誰もいない部屋でその声はどこにも届かず、壁のクロスに当たって自分の中に跳ね返ってきた。
私は立ち上がろうと椅子に手をかけたが、指先に力が入らない。代わりに、テーブルの端にこぼれた一滴のスープを指先で拭った。指の腹に伝わる、熱を失いかけた液体。それは、たった今までの私と相手の会話が、結局どこにも定着しなかったことを物語るように、ぬるりと肌の上を滑った。
部屋の窓の外からは、遠くで風が鳴る音が聞こえる。この部屋の気密性は完璧で、風の音すら物理的な振動としてしか室内には伝わってこない。
私はふと、自分の呼吸の音を聞いた。吸い込む空気は乾燥していて、喉の奥をわずかに刺激する。吐き出す息は、窓ガラスの冷たい面に触れれば、そこに小さな曇りを作るだろうか。
私は立ち上がり、窓辺へと歩いた。床が足の裏に伝えてくる感触は、相変わらず冷たい。窓ガラスに額を押し当てる。ガラス越しに広がる街の光は、どれも均一な輝きを放ち、個々の窓の向こうにあるはずの営みまでは透けて見えない。
私の網膜に映る街の光と、相手が脳内で構築しているであろう論理的な街の姿。そのどちらが正しいのか、あるいはどちらも間違っているのか。そんな思考が頭の中を滑り落ちていく。
私の指先が、ガラスに触れた熱で曇りを作り始める。真っ白な曇りが、瞬く間に広がっては、また急速に冷気に押しつぶされていく。私はその白さの行方を、瞬きもせずに追いかけた。
曇りは、まるで輪郭を溶かされるようにして、端から透明へと戻っていく。私はその境界線に、自分の視線を縫い付けた。
「汚れる、か」
独り言は、壁に吸い込まれ、跳ね返ってくることもない。
私はテーブルの上に戻り、先ほどまで向かい合っていた椅子に腰を下ろした。椅子の背もたれが、背中に冷たい硬さを伝える。相手が座っていた場所には、食べかけのスープが冷え切って、表面に光沢のない皮膜を張っていた。
私は、相手が置いたままのスプーンに視線を落とす。ステンレスの柄の部分には、先ほどまで相手の指が触れていたはずの熱が、もうどこにも残っていない。私は自分の指で、その冷たい金属をそっと撫でた。
「ねえ」
声を出す。返事はない。
「あなたは、このスープが冷めていくとき、何を考えているの?」
問いかけても、返ってくるのは冷蔵庫が時折立てる低い唸り音だけだ。この部屋には、私たちが共有している言葉の欠片すら落ちていない。あるのは、精密に計測された静寂と、私が勝手に積み上げた「通じ合えるはずだ」という期待の残骸だけだ。
胃のあたりが、ゆっくりと沈んでいく感覚がある。物理的な重力とは別の、もっと濃密で、逃げ場のない塊が、肺の中を占領していく。
私はテーブルに突っ伏した。頬が、冷えたテーブルの天板に触れる。そこには、先ほど私がこぼしたスープの跡が、薄く乾いて残っている。私の皮膚と、相手が通り過ぎた後の空間と、乾いたスープの跡。それだけが、この「星」で私が認識できる、確かな感触だった。
私の吐息が、テーブルと自分の頬の隙間に溜まり、熱を帯びる。その小さな循環だけを頼りに、私は瞼を閉じた。
「……おはよう」
朝ではない。夜の帳が下りている。けれど、今の私には、この言葉以外に、この凍りついた時間を動かす鍵が見つからなかった。
返事はない。ただ、廊下の奥で、相手が書斎のドアを閉める硬質な音が、真空を切り裂くように響いた。その音が消えたあと、私は自分の吐息の行方だけを、暗闇の中で追い続けた。
書斎のドアが閉まる音の余韻は、壁の振動となって私の頬に伝わった。振動はやがて止み、部屋は再び、吸い込まれるような静寂に沈む。
私はテーブルの上で、自分の指先を微かに動かした。乾いたスープの跡を、爪でゆっくりとなぞる。硬い、乾いた感触。それは、かつて私たちが交わしたかもしれない温かな言葉の、成れの果てのようだった。
鼻腔の奥に、冬の乾燥した空気の匂いが入り込む。喉の粘膜が、わずかな痛みとともに収縮する。私は口を少しだけ開き、自分の吐息がどの程度の温度で、どこへ向かって流れていくのかを確かめるように、細く息を吐き出した。
白くは見えない。けれど、吐き出された空気が、テーブルの上のわずかな隙間で渦を巻き、やがて消えていく様子が、網膜の裏側に焼き付くように感じられる。
立ち上がる気力は、とっくに床に落ちていた。私はただ、自分の身体がこの冷たい椅子の形に同化していくのを待った。
部屋の照明が、低い音を立てて明滅したような気がした。光の粒子が、部屋の隅に溜まっている埃に当たり、そこで静かに反射している。私はその埃の舞い方を見つめる。光の角度が変わるだけで、あんなに容易くその存在を主張するのに、どうして人間同士の言葉は、これほどまでに脆く、空中を漂うことさえできないのだろう。
私の視界の端に、壁の時計が映る。秒針が刻む音が、不規則に聞こえる。いや、実際は規則正しく刻まれているはずだ。ただ、私の鼓動と、この部屋の物理法則が、どうしても同期してくれないだけなのだ。
私はふと、自分の左手の小指を、右手で強く握りしめた。関節の奥で、微かな軋みのような音がする。痛い。痛いから、私はここにいる。相手の星には届かない、この部屋の住人として。
喉の奥から、また重たいものがせり上がってくる。私はそれを飲み込むことも、吐き出すこともできず、ただ食道の半ばで留めさせた。
廊下の奥から、かすかな物音がした。相手が書斎の机に座り、キーボードを叩く音だ。一定のリズム。淀みのない、論理の羅列。
私はそのリズムを、自分の心臓の音で塗りつぶそうとした。けれど、私の心臓は、言葉にならなかった想いを抱えて、ひどく不器用に脈打っている。
「……いるのね」
声にはならない呟きを、私は椅子の硬い座面に押し付けた。ただ、そこに相手が物理的に存在しているという事実だけが、今の私を繋ぎ止めている。その重力に引かれるように、私は小さく息を吸い込み、そして、誰にも届かない場所へ向かって、ゆっくりと吐き出した。
廊下の奥から、キーボードを叩く規則的な音が、波のように断続的に流れてくる。 私は椅子から滑り落ちるようにして立ち上がり、音のする方へと歩いた。フローリングの床が、裸足の裏に冷たく張り付く。
書斎のドアはわずかに開いていた。 光が、細い帯のように廊下に伸びている。私はその光の境界線で立ち止まった。
相手は背中を向けて椅子に座っている。画面の青白い光が、その肩甲骨を鋭く切り取っていた。私はドア枠に指をかけた。木材の硬い感触が、指先に伝わる。
「……ねえ」
私の声は、廊下の空気を震わせた。キーボードを叩く指が止まる。その停止は、まるで世界のスイッチが切られたような唐突さだった。
「何だ」
振り返ることもなく、相手は画面を見つめたまま答える。背中越しに響くその声は、相変わらず温度のない、透明な硬度を持っていた。
「ずっと、そこにいるの?」
「作業中だ」
「何をしているの。さっきまで、スープを……」
「スープは終了した」
相手はキーボードに手を戻しかけ、また止めた。今度は、ゆっくりと椅子が回転する。私と相手の視線が、中空で交差した。いや、交差はしていない。相手の瞳は、私の肩越しにある本棚の角を捉えていた。
「作業の進捗を計測している。今のところ、計画から十四分遅延している」
「進捗、か」
私は喉の奥で乾いた音を立てた。
「私のことは、進捗に含まれている?」
相手が眉をわずかに動かした。その表情の微細な変化を、私の網膜は逃さなかった。困惑しているわけではない。ただ、未知の言語を聞いたかのように、処理に手間取っているだけだ。
「意味が分からない。君の存在は、この部屋の物理的要件の一部ではあるが、作業の計画には含まれていない」
「……そう。部品、なんだね」
私はドア枠を掴んでいた手を、ゆっくりと離した。指先が真っ白に冷えている。
「部品がね、今日はとても綺麗な夕日を見たの。空が燃えるみたいに赤くて、雲が金色に縁取られていて」
「気象現象の共有は、先ほど却下したはずだ」
相手の声は、さらに低く、平坦になった。
「君が何をどう感じようと、私の作業の進捗に何らプラスの影響を与えない。むしろ、言語化されることで思考のメモリを消費し、効率を阻害している」
「メモリ……」
私は自分の胸元に手を当てた。そこにあるのは、メモリなんていう綺麗なものではない。形のない、ドロドロとした熱い塊だ。
「私は、あなたと夕日を分かち合いたかっただけなの。その瞬間の、あの燃えるような赤を、あなたの視界の端っこにでもいいから、残したかっただけなの」
「それは、君の側の自己満足だ」
相手は再び、踵を返すように画面へと向き直った。キーボードの音が、カチリ、カチリと、今度は私の鼓動を急かすように鳴り始める。
「私は、効率を求めている。君の情緒という名のエラーを、これ以上私の空間に持ち込まないでくれ」
私はその背中を見つめた。私の吐息が、部屋の冷気に触れて、白くならずにただの湿気として消えていく。私は何も言えず、ただドア枠の隙間に自分の指先を滑り込ませた。痛みが、私をこの部屋に繋ぎ止めていた。
キーボードの打鍵音が、容赦なく部屋の静寂を切り刻んでいく。その一つひとつの音が、私の皮膚を薄く削いでいくような感覚。私は部屋の入り口に立ったまま、背中を向けた相手の輪郭を網膜に焼き付けた。
「エラー……」
私は自分の唇を噛み締めた。血の味がわずかに喉の奥に広がる。その鉄の味が、今の私の唯一の体温だ。
「私が、あなたの空間で、何かを言おうとするたびに、それはエラーになるの?」
キーボードを叩く手が止まる。けれど、相手は振り返らない。
「そう判断せざるを得ない。入力内容に対して、期待される出力が返ってこないなら、それはシステム上の不具合だ」
「じゃあ、あなたは、何なら『出力』として受け入れてくれるの?」
私は少しだけ前に出た。フローリングが軋む。その音に、相手の肩がわずかに硬直した。
「例えば、このスープを温め直してほしい、とか。それとも、明日のゴミ出しの時間を教えてほしい、とか。そういう、君が管理しているリソースの報告なら、受信可能だ」
「……それだけ?」
私は笑いそうになった。喉の奥からヒュー、という奇妙な空気が漏れる。
「私が今日、どれだけ笑ったかとか、どれだけ悲しい予感に震えたかとか、そういうのは全部、あなたの中では『処理不可能』なのね」
「悲しい予感?」
相手は椅子を半回転させ、ようやく私を見た。その瞳には、私という人間ではなく、奇妙なバグを起こした何らかの測定器を見るような、冷ややかな好奇心しかなかった。
「予感というものは、確率論的根拠に基づいているのか?もしそうなら、数値化して提示しろ。根拠がないなら、それは君の神経伝達物質の過剰分泌による誤作動だ」
「数値化……できないよ。そんなもの、どうやって数えればいいの」
「できないなら、話す価値はない」
相手は再び画面に向き直った。その背中は、どんな言葉の石を投げても、一切の波紋を立てずに沈んでいく深い湖のようだった。
「私の神経は、誤作動なんかじゃない。あなたを理解したくて、ずっと、ずっと必死に開いているの」
「開いている?何のために」
「愛しているからだよ」
私が絞り出したその言葉は、相手の背中に当たった瞬間に、ただの音波となって霧散した。相手はキーボードを叩き続ける。カチリ、カチリ。そのリズムは、私の告白を冷淡に拒絶するように、速度を上げた。
——けれど、速度を上げる、そのほんの一瞬前。彼の指は、確かに止まっていた。私の声が背中に触れたときにだけ生じる、コンマ数秒の停止。彼はそれを誤作動として、即座に論理で塗り潰した。その時の私は、まだ気づいていなかった。彼の規則正しい打鍵が、私という雑音を養分にしてかろうじて整列していることに。私が黙れば、その秩序がどうなるのかということに。
「愛、という定義は極めて曖昧だ。生物学的な繁殖戦略か、あるいは社会的な契約か。どちらにせよ、私の作業には無関係だ」
「違う!そんなの、契約じゃない。あなたがそこにいて、私がここにいて、私たちが同じ空気を吸っている……そのこと自体が、私にとっては……!」
「空気の組成比はどこにいても同じだ。酸素約21パーセント、窒素約78パーセント。君の思い込みが物理法則を変えることはない」
相手は私の言葉を、まるで不要なデータファイルを削除するように切り捨てた。
私は自分の指先が、限界まで震えているのを感じた。爪が食い込んだ手のひらの傷口から、疼くような痛みが全身に広がる。私は開いたドアの隙間から、自分の吐息が逃げていくのを感じた。それは誰にも届かないまま、冷たい廊下の暗闇の中に吸い込まれていった。
「別室に移動してくれ」と言い残し、書斎に戻った夫の背中。ドアが閉まる静かな音が、私の身体の奥深くに楔のように打ち込まれた。
つづく



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『怪獣の腹の中で』を……どうしても、私の手で「紙の本」にしたいんです……っ!
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