【第十三章】 霧の中 連載小説 『華恋、海へ還る 〜穂高を愛したマーメイドストーリー〜』
夜中の1時半。
ガサゴソと荷物を探る音とチラつくヘッドランプの眩しさで目が覚めた。
毛布の中でスマホを見ると、まだ深夜だった。
山小屋では、ご来光を目指して夜中のうちから出発する登山者も珍しくない。しかし、本来ならヘッドランプは毛布や衣類で光を隠し、周囲に配慮しながら準備をするのが最低限のマナーである。
それでも現実には、強烈なLEDの光を周囲へ向けたまま歩き回る人も少なくない。
荷物を探す音、扉の開閉、床板の軋み。
眠ろうとしても、そのたびに目が覚めてしまう。
運悪く扉の近くへ寝ることになれば、一晩中その繰り返しだ。
そんなことを考えながら再び目を閉じようとした、その時だった。
床板がゆっくりと沈み込む。
ギシッ・・・。
誰かが静かに歩いている。
音だけで、おおよその位置は判る。
『・・・華恋の方じゃないか?』
息を殺して耳を澄ませる。
暗闇の中から、呼吸を押し殺そうとしている男の息遣いだけが聞こえた。
嫌な予感が全身を走る。
僕は勢いよく毛布を跳ね上げた。
目の前には、華恋へ覆いかぶさるように四つ這いになっている登山者Aの姿があった。
大「おい、何さらしとんじゃ、われ!」
僕が静かに威圧するのと同時に、上段からもう一人の声が飛ぶ。
如「おう、何さらしとんねん、われ!」
如月氏だった。
Aは慌てて身体を起こし、
A「いえ、今、出発の準備をしていただけです。」
と苦しい言い訳を口にする。
大「それなら何で自分の寝床やなくて、そこなんや?」
僕が問い詰めると、如月氏が静かに言った。
「とりあえず外で話しましょうか?」
三人で部屋を出る。
靴を履きながら外を見ると、雨はまだ降っていた。
大「思ったよりも雨が降り続いているなぁ。」
如「これじゃ、星空は無理そうですね。」
そんな他愛もない会話をしている隙に、Aは先に外へ出てしまう。
大「おい、待て!」
慌てて追い掛ける。
しかし外は、視界5mあるかどうかという濃霧だった。
道標さえ霞んで見える。
如「おい!どこ行った!」
大「君はそっちを頼む!俺はこっちを探してみる!」
如月氏に飛騨乗越方面を探してもらい、僕は西鎌尾根方面と槍沢を捜索する。
しかし二手に分かれて探したものの、Aの姿はどこにもなかった。
雨と霧は音まで飲み込んでしまう。
足音ひとつ聞こえない。
嫌な予感がしたので僕は部屋に戻る。
華恋が目を覚まして起きていた。
大「大丈夫か?」
周りに寝ている客もいるので、声を押し殺して聞いた。
華「店長、何があったんですか?」
大「華恋ちゃんこそどうして起きてるの?」
華「さっき店長の声が聞こえて気がついたんです。それで起きたら隣もいなくなっていて。それでしばらくしたらあの人帰ってきたんです。」
大「えっ?それで?」
華「そしたらいきなり、僕は今から出発するので、怖がらせてごめんね。って、荷物を持って出ていきました。」
確かによく見たらAの寝床はもぬけの殻だった。(っていうか、使った布団と毛布くらい綺麗にたたんで行け!)
もう一度外に向かう。
玄関前には如月氏が周りをキョロキョロしながら待っていた。
如「どこに行ってたんですか?」
大「嫌な予感がしたから部屋に戻ってみた。そしたらアイツの荷物が既になくなっていた。あれ以降、建物から出る奴はいなかったか?」
如「それがさっきから2つほどグループで出発したパーティーがいたんですが、全員フード付きのレインジャケットなんて着られたら、紛れていても判んないっすね。」
大「一人一人に確認する訳にもいかんし、完全にまかれてしまったな。」
如「この霧が無かったらなぁ〜。警察とかどうします?」
大「いや〜、未遂じゃ証拠がなぁ。宿泊者リストはあるから、どこの誰かは調べがつきそうやけど、警察が介入せんと台帳は見せてくれんよな。そうなると明日1日潰すスケジュールになってまう。まぁ〜仕方がないし、もう戻って寝よう。」
華恋は何が起こったのか不思議そうにしていたが、それは同時に危険な思いをしなかったとプラスに考えるべきか。
大「雨が降っていたから外を確認しに行ったんや。今夜は星空どころじゃない。霧が深くて何にも見えんかった。」
如「お嬢さん、星空が観れなくて残念やったなぁ〜。」
華「そうだったんですね。だから怖そうな声でお話していたんですね。」
大「ん?あぁ、まあそんなところ。ごめんな、最高の星空を観せる約束やったのにな。」
華「いえ、そのお気持ちだけで私は十分幸せです。」
翌朝5時に朝食を食べて6時に出発した。
如月氏は既にいなくなっていた。
朝食を楽しみにしていたはずなのに。
行動食として何か買おうかとも思ったが、小屋番スタッフはこの時間帯が一番慌ただしい。
仕方がないので、南岳小屋で水と食料を買う作戦にした。
玄関から出たら真っ白けの世界。

昨夜よりはマシだが、視界は15mあるかどうか。
大「槍ヶ岳山頂には登るかい?恐らく登っても何も見えないし、足を踏み外したら確実に死ねる天候だけど。」
華「店長!恐ろしい事を言わないで下さい!」
大「次はいつ来れるかわからないけど、今回は諦める?」
華「勇気ある撤退!店長が教えてくれた言葉ですよね?」
大「ああ、この調子だと、大キレットも歩けるかどうかだな。」
華「その判断はどこで?」
大「南岳小屋までに判断するよ。獅子鼻岩からの下りは一気に高度を下げるから鎖やハシゴも多くてな。雨や霧の時は滑りやすいから危険なんだ。」

槍ヶ岳山荘〜大喰岳(おおばみだけ)〜中岳〜南岳と、全て3千m級の山を歩いてからの大キレットは、300mの高低差を一気に下り、『長谷川ピーク』や『飛騨泣き』といった、綱渡りレベルの難所を越えつつ400m近く登り返す、国内一般登山道の中でも五指に入る危険なルート。

飛騨乗越の分岐点を通過し、まずは大喰岳へ向かう。
霧もそうだが風が強い。
風速は概ね10〜15m毎秒の風が吹き荒れており、時折とんでもない突風も発生する。

そのタイミングで昨夜仲良くなった小1の男の子と、お父さんの親子に再会した。
大「こんな天気の中たくましいですね!」
父「いや〜天気が良かったら南岳から天狗原(てんぐっぱら)に降りて、天狗池と逆さ槍を一緒に見たかったんですけど、この天気だと鎖場の足元も悪いんじゃないかと思って、諦めようか迷っています。」
華「事故やお怪我の無いようにだけ、お気をつけて!」
ところが、大喰岳山頂付近は平らな所が広くて、その周りを岩に囲まれているので風も穏やか。
『ここって、すごく快適な場所だよなぁ〜。』
一見テント場にはもってこいの場所だと感じたが、現在はテント場不可となっている。
つまりそれは雷雨の時に、ここは雷の落ちやすい場所だという意味でもある。
『なるほど・・・集団でテン泊なんてしていたら水伝導で全滅する可能性もあるか。』
想像しただけでゾッとした。
今朝は小雨と霧と風だけで、雷雲は無かった。
それだけでもありがたかった。
所々でナイフリッジ状の尾根を歩くので、避雷針となり得る人間が、そんな場所を歩くのは恐怖でしかない。

しかしそんな緊張感の中、中岳山頂を越えた辺りですれ違った登山グループの会話が胸に突き刺さった。
「南岳小屋も、もう小屋じまいしてるみたいやな。」
その瞬間、頭の中で最悪のケースが一気につながった。
補給できると思っていた水も行動食も手に入らない。
この濃霧の中、大キレットへ入る。
長谷川ピークや飛騨泣きまでは何とか通過できたとしても、その先には北穂高小屋までの長い登り返しが待っている。
落石の危険性。
浮石箇所も多少ある。
濡れて滑る岩は蛇紋岩だけではない。

視界不良で落石の認知が遅れるリスクと北穂高小屋までの距離が掴みにくいというハンデは、行動食も水もない状況では、何かあったら空腹と脱水症状と低体温症で、確実に死ぬしかないって意味なのだ。
さらに北穂高小屋を通過した後も、滝谷ドーム、奥壁バンド、涸沢槍・・・。
この縦走路も大キレットに匹敵するか、下手をすればそれ以上に危険なルートとされている。
勿論穂高岳山荘〜西穂山荘までの縦走路が日本一危険な一般登山道なのだが、今回の山行は、まさに槍ヶ岳山荘〜西穂山荘までの究極の縦走路を歩く計画だったのだ。
足を踏み外したら2〜300mの断崖絶壁を滑落するとか当たり前、滝谷に至っては深さ1300mの大渓谷だ。
昨日の槍沢ルートとは、危険度そのものが別次元の世界。
どれも霧の日には危険度が一段も二段も跳ね上がる場所ばかりだ。
僕は何度も地図を見返し、立ち止まり、考え続けた。
大「南岳小屋が本当に小屋じまいしているなら、今回の計画は詰みだ。」
華恋は事前に調べてきた知識を思い出しながら言う。
華「水は天狗原分岐を少し下った所に水場があるとマップで見ましたけど?」
大「ダメだ!最近の情報だと、そこの水はもう枯れてしまった可能性が高いとの話だ。しかもこの雨の後だから、仮に水源があったとして、ろ紙でろ過してから煮沸しないと飲めない。下手に飲むとお腹を壊すぞ。」
華「そうすると、店長の判断では今回は撤退ですか?一度南岳小屋まで行くだけ行って、それから考えるのもありではないかと思いますが。」
大「そういうポジティブな意見好きだなぁ〜。しかしだよ、ここから南岳小屋までは俺たちのスピードなら、あと50分もありゃ行けるやろ。しかしそこから飛騨乗越まで引き返すのに1時間40分はかかる。つまり、今から南岳小屋まで行く時間があれば飛騨乗越まで引き返せるわけだ。そこから新穂高温泉まで下山するのに一般のコースレコードは休憩なしで6時間20分かかる長丁場や。俺らのペースで休憩時間込みの6時間で下ったとしても14時頃の下山。奥飛騨には気軽に入れる飲食店もないから、奥飛騨温泉でコーラを飲むくらいしかできん。平湯温泉行きのバスがすぐに来るかも謎。」
華「もし撤退するなら、南岳新道で槍平小屋へ下りる方法もあります。それなら少しは短縮できませんか?」
大「それはかなりリスクを伴った、アグレッシブなプランやぞ?こないだの焼岳周辺の地震と、大雨の影響で崩落した箇所があるらしいけど、崖に飛び込むくらいの勇気が必要だとしても、敢えてそのルートで下山してみたいか?」
華「うっ!そ、それは店長に私という足枷がある事を思うと、気軽に言うべき事ではありませんでした。申し訳ございません!」
大「ハハハ、別にいいよ!俺はそういう挑戦的な意見は大好きや。ただ今回に至っては極端な結末しか迎えないような選択肢ばかりで、どれもミスしたら命取りなんよね。」
華「デッド・オア・アライブの2択って事ですか?それは流石に、経験者の店長判断に委ねます!」
大「そんな英語、どこで覚えたの?」
華「店長のCDにありました。こないだ店長が組合でいなかった時、沙耶さんと留美さんと3人で聴いてましたよ。」
大「随分とまた懐かしい曲を聴いたんやね。」
こういう時の決断は、やると決めたらすぐに動かないとならない。
目的がある以上、進みたい気持ちが強いから、迷いが生じるのだ。
僕はこれをセイレーン現象と呼んでいる。
ギリシア神話で船乗りを破滅へ誘ったセイレーンのように、危険だと判っていても目的地へ進みたい気持ちが理性を上回ってしまう心理だ。
特に雷雨の時などは、迷っている暇はない。
刻一刻と雷雲が近付いていると考えるべきなのだ。
その一瞬の判断と行動の遅れで、雷に撃たれるリスクは急激に跳ね上がる。
勇気ある撤退という言葉には、迷うな!という覚悟が込められている。
中岳の山頂で撮影するのを忘れてしまったので、大喰岳の山頂では記念撮影。

飛騨乗越に戻ったのは8時12分だった。

新穂高温泉まで続く長い下山路が霧の向こうに続く。
この時の僕たちは、まだ知らなかった。
本当の試練は、大キレットではなく、この下山路に待ち受けていたことを。
(第十三章 了)
(第十四章へ続く)
(第一章から読み直す)
