【第十二章】 天空の要塞・槍ヶ岳 連載小説 『華恋、海へ還る 〜穂高を愛したマーメイドストーリー〜』
グリーンバンド抜けた瞬間、そこは紛れもなく岩稜帯の景色。
北アルプスの象徴と言っても過言ではない。

シンボルでもあり、ランドマークでもある、その『天を突く槍』の神々しさというか、猛々しさが目前に迫りくるのだ。
僕は脱水症状で、限界寸前。
これが槍沢ルートじゃなかったら、僕はとっくに高山病になって、今頃肺水腫に陥っていることだろう。
約22kmと距離は長いが、1680mの標高差を段階を踏んで登る事が、これほどまでに意味があると感じられるルートも珍しい。
極端な例を言うと、奥穂高岳に新穂高温泉から登る、白出沢ルートという道があるのだが、約9kmで一気に約2200m近い標高差を弾丸のように登る道がある。
あれは正気の沙汰ではない!
特に荷継沢〜穂高岳山荘のガレ場は、浮石まみれでありながら、平均53%を超える急勾配だ。

あの斜面を高山病に罹って朦朧としながら登る時の恐怖。
一瞬の気の緩みで、浮石に足を取られて滑落する。
しかも危険は足元だけではない、涸沢岳からの落石も頻発するエリアなので、頭上からの恐怖にも注意がいる。

常に死と隣り合わせのような魔のルートである。
そう考えると槍沢ルートで槍ヶ岳に登るなんていうのは、幼稚園の遠足レベルの話なのに、たかだかペットボトルのドリンクが買えなかっただけで、こうもマネジメントが狂わされてしまうという事実。
恐ろしくもあり、堪らなくエキサイティングだと思わないか?

僕はあらゆる小さなストレスと闘い、蓄積された結果が、この脱水症状。
山は己との闘いとはよく言うが、まさにそういう事なのである。

全てにおいて初めての経験で、純粋に楽しめている華恋のスタンスこそが究極のアルピニスト!
それを僕は羨ましいとさえ思えてくる。
華「店長!洞窟が見えてきましたよ!」
ここでようやく播隆窟が見えてきた。

江戸時代に槍ヶ岳を開山したという播隆上人の修行地。
上高地や奥穂高岳を有名にしたのは、イギリス人のウォルター・ウェストンと、案内をした上條嘉門次ではあるが、そもそも上條一族が上高地や徳澤で放牧をする以前に、ここまでの道があったのだからすごい話である。
大「ここで修行した人がおるから、今の俺らが簡単にここまで登る事ができるようなもんや。」
ここで休憩を取る。
理由は疲れたからではない。
例の槍沢ロッヂからずっと同じペースで付いてくる登山者Aに、先へ行ってもらいたかったからである。
しかし・・・
相手も播隆窟で休憩を始めた。
偶然なのか?
それとも・・・。
華恋は特に気にしている様子ではない。
僕だけが違和感を感じて警戒する。
10分ほど観光モードで呼吸を整えて、登山者Aよりも先に出発。
すれ違いざまにAと目が合った。
特に言葉は交わさない。
しかし、「これ以上付き纏うな!」という意思だけは眼で伝えたつもりだ。
しばらく登って後ろを振り返る。
Aはまだ岩に腰掛けたまま。
『俺の考え過ぎやったかな・・・?』
間もなく殺生ヒュッテと槍ヶ岳の分岐に差し掛かるところで、元気いっぱいの女性登山者Bとすれ違いざまに挨拶をして少し会話をする。
B「お疲れ様です!」
張りのある元気で明るい声。
華恋も嬉しそう。
華「今から下山ですか?」
B「はい、そうですよ!」
大「まさか上高地までですか!」
B「そうです!」
既に時間は14時半だった。
大「今からだと真っ暗になると思うので気をつけて下さいね!」
B「ありがとうございます。」
爽やかなひとときだった。
女性登山者Bは軽やかな足取りで颯爽と下っていった。
華「綺麗な方でしたね?そして歩くのが早い!」
大「あの声の張りからして、自信と経験に満ち溢れておる証拠やから、きっと殺生ヒュッテの小屋番さんってところやろうな。」
華「なるほど!話し方や所作で判断するならそうなりますね。」
大「問題はあの女性スタッフが歩荷(ぼっか)として食材を買いに下山したのか、或いは少し早めの小屋じまいなのか?」
華「店長! 殺生ヒュッテが本日にて小屋じまいって書いてますよ!」
案内看板があった。
大「マジかよ〜!最後まで試練か〜!え〜っと、距離は槍ヶ岳山荘まで700m。殺生ヒュッテの標高は2860m・・・槍ヶ岳山荘までの標高差は220m。平均31%以上の登りかよ。」
華「店長!私の水を飲みますか?」
大「ありがとう!今日は自分の心に負けたと思って、最後まで補給無しでやり抜くわ。」
華「無理しないで下さいね!」
この年はコロナの影響で、限定的な営業をしている山小屋も多かった。
ラストの急登をどんな気持ちで登るのか?
目線の高さで獲得標高を計算する!
これこそが地味だけど最後の裏ワザ。
そしてスマホにダウンロードしているPerfumeの曲を流す。
重力の脅威に潰されそうな今、聴くべきは『ゼロ・グラビティ』だ。
先代との思い出。
彼はこの曲を頭の中で何度も再生しながら、いつもテンポよく登っていた。
不思議と槍穂高連峰の岩稜帯に、驚くほどこの曲はマッチしている。
大「31.5・・・33・・・34.5・・・。」
華「何を数えているんですか?」
大「獲得標高だよ。俺の目線の高さは160センチ強あるはずだから。だいたい目線の高さの地点まで登る度に1.5mを加算してるのさ。」
華「そんな地道な事を?」
大「地味やけど、集中力を維持する為に有効なんや。それに目的地に近付いた時に、自分の計算と実際の標高差がニアだったり、予想より早くに到着したら、なんか知らんけどめっちゃ嬉しいやん?」
華「それ、何となく解ります。」
大「どんなしょうもない事も、たちまちモチベーションに変える裏ワザってやつさ。」
そして15時過ぎに無事、槍ヶ岳山荘に到着!
休憩時間を差し引いたら6時間弱で登ったことになるので、華恋が初めて登ったことを考えると、これは驚異的なスピードである。
山の行動時間としてはギリギリでリミット内だが。
理想は14時半までに目的地に到着してこそ、山のプロフェッショナルなのだ。
理由は色々あるが、低山の場合は西斜面か?東斜面か?斜面の向きによっても左右はされるけど、特に東斜面だと日が陰るのが早いので、15時になると森の中は恐ろしいほど薄暗くなる。
つまり道迷いやトラブルに陥りやすい時間帯に突入する目安。
3千m級の稜線だと、天候が急激に変わりやすい時間帯の目安が14時以降とされている。
これについては、六甲山系を裏山として育った、僕と先代の生活の知恵みたいなもので、植物の呼吸が変わるタイミングも概ね感覚で理解している。
店へ到着した報告を電話する。
アキラくんが出た。
ア「もう着いたんですか?へぇ〜。」
大「そこはまずお疲れ様でした〜!じゃないのか?」
ア「お疲れ様でした〜!」
大「もうええ、沙耶さんに代わって!」
華恋が沙耶さんと嬉しそうに話す。
大「俺の代わりにアキラをしばいといてくれ!」
沙「了解です!おい、お前、覚悟しいや!」
ア「ひゃ、ひゃい!」
沙「あんた、はい!って返事もまともにできへんの?」
ア「スミマしぇん!」
沙「店長、責任を持ってしばいておきます!留美さんには何か報告ありますか?」
神戸の店は相変わらずの様子だった。
『あいつホンマに、ボコボコにしばかれたらええねん。』
槍ヶ岳山荘に入って受付で宿泊手続きをした。
スタッフ「ご予約はされていますか?」
大「いえ、予約はしていませんが、問題でしょうか?」
スタッフ「実はコロナ禍で不特定多数を宿泊させれないので、事前に予約して頂くように変わりました。」
大「そうすると、本日は予約で部屋は空いていない感じでしょうか?」
スタッフ「確認いたしますので、少々お待ち下さい!」
ところが、台風のおかげでキャンセルもそれなりにあったそうで・・・
スタッフ「何とか許可は取れました。今後は事前の予約をよろしくお願いしますね!」
大「ありがとうございます!次回は気をつけますね。」
ホッとした瞬間、後ろから登山者Aが現れる。
大「・・・げっ。」
やな予感しかしない。
ようやくポカリスエットを購入できたので、西館の『ききょう』という部屋に移動。
寝床は2段式だが、我々は下段の窓際だった。
一応ソーシャルディスタンスという事で1人分のスペースを空けて窓際から2人分のスペースで寝床を確保した。
ところが窓からは隙間風。
さっき外の温度計を見たら気温は3度だった。
風も強いので体感温度はもはやマイナスである。
その冷たい風が隙間風として吹き込んでくる窓際に、華恋を寝かせる訳にはいかない。
僕が窓際に寝てバリケードになってあげなきゃ。
しかし、そのタイミングで例のAが入室してきた。
しかもよりによって華恋の隣。
山小屋ではありがちだが、よりによってだ。
間もなく部屋には他の宿泊予定者も入室してきた。
2人ほど女性もいたので少しホッとした。
これだけ目撃者がいたら下手なことはしないだろう。
するとAは先に部屋を出ていった。
『まさか彼も槍ヶ岳山頂に向かった?』
そう思いながら、我々も槍ヶ岳山頂に登る準備をして余計な荷物は部屋に置いていく。
脱水症状から一気に調子を崩したが、まだアドレナリンが残っている。
今ならまだ登れる。
山荘前で槍ヶ岳のポーズをキメる華恋を撮影して出発。
たかだか100mの岩壁を登るだけではあるが、槍沢のダイナミックな地形を見下ろしながら登るので、高低感が異常なくらい高く感じる。

僕は高所恐怖症だから、正直、試練でしかない。
ルートは混雑しても混乱しないように、登りルートと下山ルートに分かれている。
最後のハシゴのところまで来たところで前を行く華恋が急に止まった。
こっちを振り返ってこう言う。
華「山頂は明日の朝でも登れますよね?」
大「えっ?ここまで来てどうした?あと15mか20mも登れば山頂じゃないか?」
華恋が少し頭を動かした。
その向こうに、ハシゴの脇で岩と同化するように立っているAがいた。
まるでこちらを待っていたようにも見える。
華「今日はやめませんか?」
大「ん〜、しかし空にはレンズ雲ができ始めとるから、今夜から降るぞ?明日の朝に登ったとしても、今のような絶好の見晴らしは味わえないかも知れないけど、それでもいいのか?」
華「私、店長があの人を気にして水を我慢したこと知ってます。それって野生の勘みたいなものじゃないかと、私は思うのです。」
大「そうか、気付いとったんか。まあ他人を疑うのは良くないんやけど、それなら明日にしよか?」
華「はい!明日もよろしくお願いします!」
僕たちは槍ヶ岳山荘に戻る。
西の空はまだ夕焼けとまではいかない。
夕食の館内放送が流れたので、地下の食堂に向かう。
窓から見た槍ヶ岳の夕焼けに未練を感じた。

夕食は米となめこ汁がお変わり自由!
何て幸せな気分!隙間風で冷えた身体にはありがたいし、塩分補給も十分できる。

たらふく食べて部屋に帰ると、窓から笠ヶ岳に沈む夕日が見えた。

夕焼けの景色は、穂高岳山荘裏の白出沢から観る景色が、やっぱり最高だとは思うが、たまに違う角度から観るのも悪くない。
ここで食事の時間にギリギリ間に合った登山客と仲良くなった。
小学1年生の男の子と登ってきたお父さんの2人だ。
お父さんは元自衛隊員で、富士の演習場で訓練していて富士登山も何度か経験したそうだ。
そんなお父さんと一緒なら、彼もきっとたくましい大人に成長する事だろう。
いや、7歳でこんな所まで泣かずに登り切ったんだ。
ものすごい忍耐力と精神力だと思うよ。
大「先代も何度か父親に殺されかけたと言っていたけど、あれ六甲山の話やもんなぁ〜。ここは槍ヶ岳やで?」
華「私は細かい情報もなく楽しそうなDVDを参考にして学んで来たので特に苦ではありませんでした。でもあんなに小さいお子さんにとっては倍近い距離に感じますよね。」
大「まあ、そういう事や。すごいな。」
外から雨音がしてきた。
玄関から外に出てみる。
槍沢の独特な地形もあるけど沢の下から霧が立ち込めて来た。
雨がシトシト降り始めて、この様子だと星空は絶望的かも知れない。
大「夜中の2時までに晴れると良いんだけどな。」
華「星空の話ですか?」
大「ああ。」
男C「残念やけど、望み薄やなぁ〜。」
大「予報でも見たんですか?」
男C「槍ヶ岳の霧ですわ。天岩戸やあらへんけど、一度霧がかると槍ヶ岳ってなかなか顔を出さんでしょ?」
大「確かに、ガスってる時はなかなか姿を現さないね。」
男C「今回の霧もこれから更に深まると思いますよ。」
華「明日も霧の可能性が高いって事なんでしょうか?」
大「高確率でな。やっぱり登っておけば良かったね。」
男C「あっ、僕は同じ部屋の上段に寝ることになった如月と言います!」
華「きさらぎさん?」
如「そうです、素敵な父娘(おやこ)さんやなぁと思って見てました。さぁ、身体を冷やさんうちに部屋に戻りましょう!」
大「そうやね、戻りましょうか。残念!」
何だか随分と馴れ馴れしい男だった。
若そうだったが、彼の話に納得させられてしまったのが、ある意味ショックではあった。
天候が奇跡的に回復してくれる事を祈って寝る事にした。
その時、例の登山者Aは既にイビキをかいて寝ていた。
(第十二章 了)
(第十三章へ続く)
(第一章から読み直す)
