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【第十一章】 最後の楽園         連載小説 『華恋、海へ還る 〜穂高を愛したマーメイドストーリー〜』

10月2日金曜日。

通常どおり店の営業を終えた僕と華恋は、登山装備を積み込んだ車で神戸を出発する。

土日は留美さん、沙耶さん、アキラくんの3人で店の運営を頑張ってもらう事になった。

ニュースでは大型台風の接近が繰り返し報じられていた。

華恋は不安そうに尋ねる。

「本当に行くんですか?」

僕は笑って答える。

「もちろん危険な台風なら中止や。でも今回は予報を見る限り、台風が通り過ぎた後、或いは掻き消された後を狙える可能性が高い。山は天気図を読むのも実力のうちや。」

高速道路を北へ走る車窓には、厚い雲が流れていた。

まるで自分たちが台風を追いかけているような、不思議な旅の始まりだった。

途中、多賀サービスエリアで夕食を済ませ、尾張一宮から東海北陸道を飛騨高山まで走り、国道158号線をそのまま平湯温泉の岡田旅館へ向かう。

到着は23時過ぎ。

温泉の営業は0時まで。

大急ぎで荷物を置き、冷え切った体を湯に沈める。

翌朝は4時半に起きて朝風呂を浴びてから出発予定。

ネットで調べたら平湯温泉から上高地行きのバスの始発は6時となっていた。

明日の着替えや装備を準備して、僕は華恋を先に眠らせ、自分は車で新平湯温泉まで下る。

目的はタルマ水という飲料水。

翌日の命を支える水を、2人分のハイドレーションに汲み入れる為だった。

翌朝。

まだ薄暗いうちに旅館を出ようとしたが、ロビーには誰もいなかった。

呼び鈴を鳴らしても返事はない。

時間だけが過ぎていく。

迷った末、僕は下山後に必ず宿泊費を支払いに戻る事、その根拠として、駐車場に自分のクルマを停めていく事を書いた手紙と、連絡先、登山計画書をロビーへ置き、急いでチェックアウトした。

平湯バスターミナルへ着くと、気温は10度を下回っていた。

肌を刺すような冷気が流れている。

始発前のはずだった。

ところが臨時便がここではなく、アカンダナ駐車場を始発として既に次々と発車しており、予定は完全に狂う。

臨時便が早くからある事を知っていたなら、本来なら上高地を6時に出発したかったのだ。

ようやく乗れたバスはほぼ満員で、僕と華恋は離れた席へ座ることになった。

道中で安房トンネルができるまでの峠越えが大変だった事や、新しくなる前の釜トンネルの話、卜伝(ぼくでん)の湯という信玄の隠し湯の話、大正池がどうやってできたのか?田代湿原や帝国ホテルの話など、華恋に教えてあげたい話は山ほどたくさんあったのだが・・・

7時ジャスト。

上高地バスターミナル

会話することもなく、上高地バスターミナルに到着。

早々に登山届をボックスに投函して、売店で2人分の焼きそばを購入して出発する。

小雨が残っていた空は、時間とともに青空へ変わっていく。

河童橋から望む穂高連峰。

梓川の透明な流れ。

華恋は息を呑む。

一方、僕は時計と道行く登山客の密度を見ながら、登山計画書通りに歩けるかを、もう一度頭の中で計算していた。

7時過ぎのスタートで、槍ヶ岳山荘に15時までの到着ができるのかどうか。

そして華恋が、梓川の清流を触れに行っている間に、僕は五千尺ホテル前に梓川の水を飲料水として汲める場所があるので、そこで予備のハイドレーションへ補給する。

五千尺ホテル前の水汲み場

そしてついでに自販機で、ポカリスエットも買おうとしたその瞬間。

目の前へ補充車がバックで入ってきた。

僕がいるのにお構いなく突っ込んできたので、危うく轢かれるところだった。

「おいおい!何で今、このタイミングなんや。」

こっちが驚いた表情で見ているのに、ベンディングサービスマンは、気にも留めずに淡々とドリンクの補充作業を始めた。

僕に対して謝罪も何も、そこにいた事すら判っていない。

強引に押し退けられたカタチで諦めた僕は、いきなりやり場のない苛立ちをどこにぶつけていいのか判らなくなってしまう。

しかし、他人に対する思いやりの気持ちが強い華恋の前では、極力そういう姿は見せまいと、河川敷を降りて、梓川の冷たい清流に触れて苛立ちを飲み込む。

梓川の河川敷より河童橋と奥穂高岳を望む

華恋のような純粋な存在に、できることなら人間の醜さを見せたくないと思うことは、僕のエゴなのだろうか?

まあどこまでいっても理想論ではあるけど、彼女の純粋な心は、僕にとって命に替えても守るべきオアシスのようなものだと、最近になってそう感じ始めていた。

河童橋で記念写真を撮り、それから明神館へ。

しかし今度はポカリスエットが売り切れ。

横尾まで我慢することにした。

歩き続けるうちに天気は快晴となり、気温は予想以上に上昇する。

朝は寒かったはずなのに、額から汗が流れ落ちる。

徳澤園付近では、挨拶を返さない登山者とすれ違い、僕は呆れを通り越して笑いが込み上げてきた。

「山くらい気持ちよう挨拶したらええのにな。」

本当は徳澤園のソフトクリームが美味しいので、華恋に食べさせてあげたかったのだが、人の顔をジッと見ておきながら挨拶も返さない輩に気分を害されてしまったのである。

それに下山後ならともかく、これから気温の低い山頂まで登ることを考えたら、お腹を冷やす食べ物は控えた方が賢明だとも思った。

挨拶を返さない登山者も不気味ではあるが、集団で道一杯に拡がって歩くパーティにも困らされる。

一応「お先に失礼します!」と声をかけて抜くのだが、ダラダラと歩いて中々道を譲らない。

台風による大雨の直後は、ぬかるんだ道や、小川のように地下水が滲み出て流れている箇所もあるので、歩けるラインも場所によっては限定的なのだ。

そういう背景もあって、この日本にとって『最後の楽園』とも言うべき上高地においては、誰もが譲り合い、助け合いの気持ちで清々しい時間を過ごして欲しい。

クルマや自転車と同じで、マイペースの押し付けや押し売りは勘弁願いたい訳なのだ。

この時も華恋には嫌な気持ちを味わって欲しくないから、終始笑顔で歩いてはいるけど、内心ストレスで、知らないうちに歩くペースも速くなっていた。

気が付けば横尾まで1時間45分。

予定よりかなり速い。

人気の涸沢カールへ行く登山客であふれている横尾山荘

華恋はトレーニングの甲斐あって、ここまで難なくついて来ている。

横尾山荘では、ようやくポカリスエットを手に入れた。

焼きそばを食べながら休憩していると、関西から来た登山グループと意気投合する。

華恋はあっという間に人気者になる。

そもそも槍ヶ岳のような縦走路は、男性登山者の割合が多く、華恋のような若い女性は自然と目を引く存在だった。

登山客の多くは涸沢カールの紅葉とモルゲンロートが目的の人々だ。
インストラクターに連れられたグループも多い。

楽しい時間はあっという間だった。

時計を見ると予定より20分以上オーバーしていた。

慌ててレインジャケットとフリースをザックに収納して、再び歩き始める。

槍沢へ入ると、木々の隙間から槍ヶ岳の穂先がほんの一瞬だけ姿を見せる。

華「これだけ?」

華恋は驚く。

大「そうや。槍沢ルートは忍耐の登山道やねん。目指す山がど〜ん!と現れるのはホンマのラストステージからや。」

僕は笑う。

大「そこまでに槍ヶ岳の穂先が見えるのはたったの2箇所だけ!さっきの場所と、ババ平に向かうまでのどこかやったと思う。あの山、簡単には姿を見せてくれへんねん。」

しかし、そこで大きなミスに気付く。

横尾で追加で買うはずだったポカリスエットを買い忘れていた。

今更、引き返すわけにもいかない。

槍沢ロッヂで売っていることを祈る。

そこを過ぎると殺生ヒュッテまで山荘はない。

そう思って歩き続ける。

ところが横尾から50分歩いて到着した槍沢ロッヂでは、水以外の飲み物はすべて売り切れだった。

槍沢ロッヂを振り返る(右下の森から登ってくる)

嫌な予感が胸をよぎる。

それでも先へ進むしかなかった。

ババ平のテント場

やがて気温はさらに上がり、ハイドレーションの水は急速に失われていく。

更に槍沢ロッヂから華恋の後ろを歩き続ける一人の登山者の存在も気になり、無意識のうちに歩く速度はさらに速くなっていた。

大「華恋ちゃん、ついて来れるか?」

華「大丈夫です。でも本当に暑いですね。私はハイドレーションの水がなくなって、既に予備のお水を頂いておりますが、店長はお水大丈夫ですか?」

大「もうちょっと進めば最後の水汲み場が来るから大丈夫やで。心配してくれてありがとうな!」

天狗池分岐(左へ進み天狗池に行くと逆さ槍が観れる)

ところが天狗池への分岐も過ぎて、梓川源流の水汲み場まで来ても、まだ足を止める余裕はなかった。

例の登山者が、まるでストーカーの如く華恋のお尻に目線を合わせて追ってくるのだ。

ここまでの道程(槍沢前半〜中盤)

どこまでも余計なストレス。

華「店長、ハイドレーションにお水を汲まなくてもいいんですか?」

大「ここまで来たら大丈夫や!もうグリーンバンドは目と鼻の先や!」

その一心だけで前へ進む。

頭がぼんやりする。

平衡感覚が曖昧になってきた。

足が重い。

完全に脱水症状である。

そしてようやくグリーンバンドへ辿り着いた。

ここは森林限界を越えてハイマツが生い茂るポイントの事を言うのだが、この槍沢ルートにおけるグリーンバンドの意味は、もっと特別なものである。

そうなのだ、それまで何度見上げても、隠されて見えなかった槍ヶ岳が、このグリーンバンドを越えた瞬間、威風堂々と姿を現すのだ。

グリーンバンドを歩いていると突如姿を現す『槍ヶ岳』

華「あれが、槍ヶ岳?・・・すごい!何て神々しい。」

華恋は立ち尽くしていた。

しかし、その横で僕は景色よりも、自分の身体の異変と戦っていた。

喉は渇ききり、意識は少しずつ霞み始めていた。

実はもうすぐ殺生ヒュッテに辿り着くと見込んで、既にハイドレーションの水は空っぽだった。

予備のハイドレーションは一つしか用意していなくて、それを今まさに華恋に使わせている以上、何があっても僕には耐え抜かないとならない責任がある。

僕が弱音を吐けば華恋が心を痛めることは間違いないからだ。

しかし、そうなのだ・・・。

山にはこれがあるから堪らない。

『今回も俺は槍ヶ岳という山に試されとる。上等や!最後まで笑顔で登り切ったろうやないか!』

初日の登山ルート

さぁ2人は無事に、槍ヶ岳山荘と槍ヶ岳山頂に辿り着けるのだろうか?

その前に殺生ヒュッテにドリンクが売っていることを祈りつつ・・・。

(第十一章 了)


(第十二章へ続く)

(第一章から読み直す)


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