渇きの果てに…禁断のコンダクター 第16話
当日の朝。
まだ空が白み始めたばかりの時間に、まゆは目を覚ました。
枕元のスマホを見る。
午前五時。
アラームが鳴る前だった。
隣では健一が深い寝息を立てている。
まゆはしばらく、その横顔を見つめていた。
結婚して何年になるだろう。
若かった頃は、この寝顔を見るだけで安心できた。
今でも嫌いになったわけではない。
むしろ、長い時間を共に生きてきた大切な人だ。
それなのに。
今日、自分は別の男に会いに行こうとしている。
心の奥が重く沈む。
――私は今から、何をしに行くんだろう。
そう思う。
思うのに、もう止まれなかった。
会いたい。
その気持ちは、自分でも驚くほどはっきりしていた。
まゆはそっとベッドを抜け出した。
キッチンへ立ち、朝食の支度を始める。
味噌汁を温める。
卵を焼く。
鮭をグリルに入れる。
いつもと同じ朝。
けれど、包丁を握る手だけが落ち着かなかった。
心の深いところが、震え続けている。
背後で足音がした。
「今日、早いんだっけ」
振り返ると、健一が眠そうな顔で立っていた。
まゆは一瞬だけ息を詰める。
「うん」
できるだけ自然に答える。
「忙しい時期だから。早出と遅出が重なってて」
嘘だった。
心の奥まった場所が、チクリと痛んだ。
けれど健一は何も疑わなかった。
「大変だな」
そう言って椅子に腰掛ける。
責めるでもなく。
問い詰めるでもなく。
いつも通りに。
その普通さが、かえって苦しかった。
食卓には味噌汁の湯気が立っている。
何気ない朝。
守ってきた日常。
それを自分自身が揺らそうとしている。
「行ってきます」
玄関で靴を履く。
健一が顔を上げた。
「気をつけろよ」
いつも聞いているはずの言葉だった。
なのに今日は妙に胸へ残る。
まゆは小さく頷いた。
「うん」
それだけ言って家を出た。
まだ朝の冷気が残る街を、空港行きのバスが走っていく。
窓の外には、目覚め始めた大阪の景色。
コンビニの灯り。
閉じたままの商店街。
通勤前の静かな道路。
見慣れた風景なのに、どこか遠く感じた。
逃げたい。
やめたい。
引き返したい。
そんな気持ちが顔を出す。
けれど同じくらい強く、
会いたい。
その想いもあった。
二つの感情が胸の中で何度もぶつかり合う。
スマホが震えた。
アダムスからだった。
《もう空港へ向かってますか?》
まゆは画面を見つめる。
そして短く返信した。
《今、バスの中です》
数秒後。
《気をつけて》
たったそれだけ。
けれど、その言葉を見た瞬間、不思議と肩の力が抜けた。
空港へ着くと、別の緊張が押し寄せてきた。
今まで、飛行機の手続きなど、ほとんど健一任せだった。
案内板を見上げる。
スマホで確認する。
また見上げる。
まるで初めて一人旅をする子どもみたいだ。
チェックイン機の前では少し戸惑った。
係員に教えてもらいながら、どうにか搭乗券を受け取る。
その紙を手にした瞬間、ほっと息が漏れた。
些細なことなのに。
少しだけ誇らしかった。
――私は、自分の力でここまで来た。
自分で決めた。
自分で動いた。
その実感が、心の奥に小さな灯をともした。
やがて搭乗案内が始まる。
飛行機は滑走路を走り出した。
……もう戻れない。
