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渇きの果てに…禁断のコンダクター   第12話


帰りの電車の中。
 
窓に映る自分の顔を、まゆはぼんやり見つめていた。
 
 
流れていく夜の街。


ガラスに重なる、少し疲れた横顔。
 
 身体の奥には、まだ微かな熱が残っている。
 

耳元に落とされた低い声。

抱き寄せられた腕のぬくもり。

見つめられた視線。
 
それらは確かに身体の記憶として残っているのに、心は不思議なくらい静かだった。
 
 
身体は満たされた。
 
それは間違いない。
 
 
けれど、何かが足りない。
 
その「何か」の輪郭だけが、ぼんやりと心の奥に残っていた。
 
 
スマホを見る。
 
アダムスから短いメッセージが届いていた。
 

《気をつけて帰ってください》
 
……それだけ。
 
 
余計な言葉はない。

引き留めるような熱もない。
 
なのに、その淡々とした優しさが胸に沁みた。
 
 

まゆは返信画面を開きかけて、閉じる。
 
「楽しかったです」
 
なのか。
 
「また会いたいです」
 
なのか。
 
 
それとも――。
 
 
指先が止まったまま、画面は暗くなった。
 
 
電車が減速し、アナウンスが流れる。
 
まゆはゆっくり立ち上がった。
 
 
ホームへ降りると、夜気が肌を撫でた。
 
 
自宅マンションのエレベーターに乗り込む。
 
階数表示が一つずつ上がるたびに、さっきまで過ごしていた時間が少しずつ遠ざかっていく気がした。
 
 
ホテルの柔らかな照明。
 
低く落ち着いた声。
 
「まゆさん」
 
そう呼ばれる心地よさ。
 
それらはまるで、遠い場所の出来事のように薄れていく。
 
 

部屋の前で鍵を取り出す。
 
胸の奥に、小さな重みが沈んだ。
 
 
扉を開ける。
 
その瞬間、いつもの生活の匂いが流れ込んできた。
 
 
洗剤の匂い。

味噌汁の残り香。

少し湿ったタオルの匂い。
 
脱ぎっぱなしの健一の靴下が、床に無造作に転がっている。
 
リビングにはテレビだけがついたままだった。
 
バラエティ番組の笑い声が、誰もいない部屋に虚しく響いている。
 
 
健一は、もう寝ているらしい。
 
「……ただいま」
 
……返事はない。
 
 
その静けさの中で、まゆは立ち尽くした。
 

数時間前まで、自分は別の男と向き合っていた。
 
何度も名前を呼ばれた。
 
見つめられた。
 
気遣われた。
 
ひとりの女性として扱われた。
 
 
けれど今は、いつもの日常の中に立っている。
 
胸が少しだけ痛んだ。
 
 
だが同時に、まゆの中には小さな変化も残っていた。
 

以前の自分なら、きっと違った。
 

ただ満たされたことに酔い、

求められたことに安心し、

その余韻だけを抱いて眠っていただろう。
 
 
けれど今は、どこか満たされきらない。
 

アダムスに導かれるまま過ごした時間。
 
優しく扱われ、気遣われ、受け止められた時間。
 
それでも、自分の中には届いていない場所がある気がした。
 
 
もっと、自分の気持ちを伝えたかった。
 
もっと、自分から選びたかった。
 
あの時間の中で、自分はまだ受け身だった。
 
そのことが、不思議と心に引っかかっていた。
 
 

まゆは洗面所へ向かい、鏡を見る。
 
映っていたのは、少し疲れていて、それでもどこか熱を残した女の顔だった。
 
頬はわずかに赤く、目の奥には見慣れない光が揺れている。
 
 
―次は、ただ導かれるだけでは終わりたくない。


その思いが、胸の深いところで確かな輪郭を帯びはじめる。
 
 
求められるだけではない。
 
自分の意思で選びたい。
 
自分の言葉で伝えたい。
 
けれど、本当に欲しいものが何なのかは、まだわからない。
 
 
愛されたいのか。
 
誰かを求めたいのか。
 
それとも、自分自身を取り戻したいだけなのか。
 
 
答えはまだ見えない。
 
 
まゆは鏡から目を逸らし、静かに洗面所の灯りを消した。
 
暗闇の中で、心の奥に芽生えた小さな熱だけが、消えずに残っていた。


 
 
 
 


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