ホーソーン『緋文字』(4) 「沈黙」の終わりと神話のはじまり
前回は、ディムズデールの「沈黙」が、彼自身に課した代償を見つめた。
第四回である今回は、
「沈黙」が破られる寸前、
「偶像(アイドル)」が崩れようとするその瞬間に、
人々の「まなざし」は何を映していたのか――について、語りたい。
・ヘスターの決断
ヘスターは見た。
ディムズデールの目の奥に、チリングワースの影が深く差しているのを。
それは、七年前に交わした「沈黙」の誓いを、静かに崩すほどの光景だった。
かつては、夫への罪悪感から語ることを拒んだ。
しかし今、ヘスターの心を占めていたのは、
ディムズデールの衰弱と、
その魂を「舌なめずり」をしながら覗き込むチリングワースの存在だった。
ヘスターは、彼の外出の予定をとらえて、森で待った。

ディムズデールは、病みながらも「牧師」としての勤めに身を捧げていた。
その姿は、ひどくやつれていた。
「牧師」としての義務感だけが、彼を支えているようだった。
そして、彼が歩いてきたとき、ヘスターは告げた。
「あの老人がです!――あの医者がです!
――ロジャー・チリングワースと呼ばれている男がです!
――あの男こそがです、わたしの夫だったのです」
ディムズデールは、言葉を失った。
自分の罪を知る者が、ずっと傍にいたという事実に――
「舌なめずりをしながら見ている人の目に、
病み疲れ、罪にけがれた心をさらすことが、どんなに恥ずかしいことか!――どんなに無惨なことか!
――どんなに醜悪なことか、それがあなたには少しも分からないのだ!」
怒りは、羞恥と恐怖の爆発だった。
だが、ヘスターは彼を抱きしめた。
「許してくださいますか?」と、何度も、何度も、繰り返しながら。
その声に、彼の心は少しずつほどけていった。
二人は、「倒れ木の苔むす幹に並んで、手に手を取りあってすわった」。
・逃げるという救い
この町にいる限り、彼の影から逃れることはできない──
そう思った瞬間、ディムズデールの胸の奥に冷たい絶望が広がった。
チリングワースは、自分とヘスターの罪を知っている。
そしてその知識を、語ることではなく、じわじわと“使う”男だった。
「秘密をあかすことは、まずあるまいと思います。
あの人のことですから、暗い情念を満足させるために、なにか別の手段をさがすことはたしかですが」
ヘスターの声は、静かに確信を帯びていた。

ディムズデールは、言葉を失った。
まるで、出口のない森にひとり取り残されたようだった。
そのとき、ヘスターは彼の目を見つめて言った。
ボストンから、出ていきましょう──
「文明世界のもっとも賢明な人たちや名だたる人たちのなかで、
学者なり聖者なりにおなりください。
説教をするなり、物をお書きになるなり、活動なさるなり、なんでもなさいませ!
うつぶして死ぬこと以外なら!
このアーサー・ディムズデールという名を捨て、
恥じることも恐れることもなく名乗ることができる高貴な別の名をおつけなさい。
あなたの命をぼろぼろになるまで食いものにしてきた苦しみのなかに、
もう一日にせよ、長居する理由があるでしょうか!」
その言葉は、彼の心に火を灯した。
だが、彼は震えながら言った。
「あの広く、見知らぬ、困難な世界に旅立つ力も勇気も残っていない!
ひとりでは!」
「あなたおひとりで行かせはしません」
ヘスターは、深いささやくような声で答えた。
その瞬間、彼の顔に、長い冬のあとに差し込む春の光のようなものが浮かんだ。
ヘスターとパールと──共に生きていくことができるのではないか。
・覗かれた罪、火にくべる言葉
ヘスターから船の出航まであと四日であることを知らされたとき、
ディムズデールは、かつてないほどの解放感を味わった。
「沈黙」の罪を抱えたまま、彼は「牧師」としての職務に精励してきた。
「沈黙」こそが、共同体の期待に応える手段だった。
だが、自分の罪はチリングワースに見られていた。
しかも、楽しげに覗かれていた。
その事実は、羞恥と怒りを呼び起こした。
自分には「牧師」としての資格などない――
そう思うと同時に、あと数日でこの苦悩から解放されるのだと、彼は自分に言い聞かせた。
三日目には、祝日の説教が控えている。
それを終えれば、「おおやけの義務は果たした」と言える。
「沈黙」に対する贖罪は、語られぬまま完了する。
そう信じたかった。
彼は、住みなれた部屋を見回した。
ここで書を読み、断食し、祈り、苦悩に耐えた。
だが今の彼は、
かつての自分を、「さげすむような、あわれむような」、
そして「なかばうらやむような好奇心」で眺めていた。
「そういう自分はもういない。
森から戻った私は、隠された神秘を知る者となったのだ」

そう思った瞬間、部屋にチリングワースが現れる。
治療を申し出る彼に、ディムズデールは静かに断る。
「ありがたく存じますが、そのご恩に報いる手立ては、祈りしかございません」
かつてイエスは、“悪魔の試み”を受けるため、荒野に上がった。
そのゴルゴダの丘で、イエスは悪魔の金貨を拒んだ。
「この石をパンに変えよ」と囁く声に、彼は沈黙で応じた。
神の言葉は、金貨では買えない。
祈りは、取引ではない。
だが、ボストンの牧師館で、ディムズデールは別の金貨を差し出された。
それは、チリングワースの微笑とともに放たれた言葉だった。
「ご立派なおかたの祈りは、黄金に勝るとも劣りません」
それは称賛ではなかった。
「偶像」としての牧師が
共同体に流通させる“偽りの祈り”への、
冷ややかな皮肉だった。
ディムズデールの「沈黙」は、もはや信仰ではなく、
共同体の欲望に応じた通貨となっていた。
その言葉に、ディムズデールは微笑むことも、怒ることもできなかった。
ゴルゴダの丘でイエスによって語られた真実の祈りは、
血と赦しの象徴だった。
だがこの町では、
「偶像」による偽善の祈りが、黄金よりも価値あるものとして扱われていたのだ。
その瞬間、彼の中で何かが崩れた。
そして、何かが始まった。

彼は、書きかけの説教原稿を火にくべた。
灰が舞った。
「沈黙」の記憶が、煙のように消えていった。
そして、
思考と感情が激流のようにあふれ出てくるがままに、
「熱狂的なあわただしさでもって」、原稿を書き上げた。
・ニューイングランドの祝日
祝祭の日、ボストン市民は熱狂していた。
ディムズデールの説教が、最後になるかもしれないという予感が、空気を震わせていた。
市民たちは、彼の衰弱を見ていた。
表向きには回復を祈りながらも、
心の奥では、“何かが起こるかもしれない”という奇跡への期待に身を委ねていた。
ディムズデイルのやつれた顔、痩せ細った体、説教のたびにこぼれる咳――
それらは、町の人々にとって単なる病ではなかった。
それは、「神の試練」であり、「霊的な徴(しるし)」だった。
彼の「沈黙」は、
罪の隠蔽ではなく、神と対話をする者の「沈黙」として受け取られていた。
彼の苦悩は、
深い霊的苦悩として受け取られ、共同体の「聖者」のような存在となっていたのだ。
プロテスタントの共同体において、死は終わりではなかった。
それは、信仰の真価が試される舞台だった。
そして、ディムズデールの「聖者」としての真価も――
教会はその劇場の中心だった。

・選ばれし者
プロテスタントの信仰では、
神との関係は、教会ではなく、個人の信仰によって直接築かれるものだった。
だからこそ、死の間際の告白は、
神の前での誠実さと悔い改めを示す最終の証しと受け取られた。
それは、神への語りかけであると同時に、共同体への語りかけでもあった。
カルヴァン主義の予定説は、「救いは、神の選びによる」と語る。
だから、プロテスタントたちは、
“選ばれた者=救われる者”としての「しるし」を求めた。
信仰の告白、道徳的生活、そして死に際しての言葉――
それらは、「選ばれし者」であることの証拠として、共同体の記憶に刻まれた。
カトリックの伝統では、死の床に司祭が呼ばれた。
その手を通して、神の赦しが降りると信じられていた。
「最後の儀式」は、神の恩寵に触れるための、人間の手による橋渡しだった。
だが、プロテスタントは、神との距離を縮めた。
祈りは、制度を介さず、魂から神へと直接届くものとされた。
死の間際の告白は、神と一対一で向き合う、最後の祈りの頂点だった。
この思想は、大西洋を越え、
ニューイングランド(アメリカ)の土に根を張った。
プロテスタントたちは、
死の場面を、信仰の真価が試される“最後の舞台”と見なした。
そこで語られた言葉、見せた態度は、「選ばれし者」のしるしとして記録され、説教や書物の中で、信仰の遺言として語り継がれていったのである。

そして、ディムズデール「牧師」にも、ボストン市民の期待が集まる。
それは、われらの町の「聖者」による宗教的ショーのクライマックス。
何かが起こるかもしれない――
・ヘスターの絶望
そのとき、ヘスターは群衆の中で、
祭りの見物に来ていた船長に呼び止められる。
「当地のお医者さん――
チリングワースとか名乗ってましたな――
その方があなた方と船の食事をともになさりたいそうです。
いや、いや、あなたはごぞんじのはず。
あなたがたの仲間だと言ってましたよ」
ヘスターの顔から、血の気が引いた。
逃げられない。
罪を抱えたまま、「沈黙」のまま、逃げることはもうできない。
群衆の歓声の中で、彼女は誰にも知られぬ絶望を抱えて立ち尽くす。
そして、ディムズデールが壇上に立った。
――偶像が語るとき、共同体のまなざしは何を映し出すのか。
最終回となる次回では、「偶像」の死と、その神話化について語りたい。
→“沈黙”が恐怖を再演させる構造については、『まだらの紐』第3回をご覧ください。
『緋文字』の物語を、心理・社会構造・共同体の視点から読み解く連載です。
登場人物の“人間の弱さ”と、ピューリタン社会が生む“時代の力学”を、物語の空気ごと味わいます。
