壱:『まなこゐ』 〜It's Alright(スピンアウト)〜
タイトル画完成しました!あと挿絵を3枚ほど描きます。
物語が色づいてゆく瞬間を、お待ちくださいね。
むかし、むかし。 天と地が、まだひとつの呼吸をしていた頃のことでございます 。
世は大きな一つの山で、その山は細長い珠のような形をしておりました。山の腹には雲がかかり、仄かに淡く、いと清らなる様でございます。
山は三層にて、成り立っておりました。
山のふもとにありまするのは、人々の営みの場「麓の泥濘(ふもとのでいねい)」と申します。
山を登りますれば、そこは常に雲霞かかうる、天女が住まう「朧ヶ原(おぼろがはら)」がございます。下界からは決して見ることはかないません。
さらに険しき道を越え、雲突き抜けたるその先の、頂には虹が架かり、花々が咲き乱れる「山頂のまなこゐ(さんちょうのまなこをい)」がございます 。そこには古から、大きな石像が座しておりまする 。
「麓の泥濘」で、泥をこねては何かを探しておる男がおりました 。
「足りぬ、足りぬ。わが心には、ぽっかりと大きな穴が開いておるぞ。埋むべき宝はなきものか。」
と、男が独り言ちて嘆いておりますと、傍らにいた翁が、くつくつと笑ってこう申します。
「山を登ればよいぞ。山頂におわしまする石像様に宝を乞うが良い。帰ってきた者はおらぬ険しき山ぞ。お前とて登りきれまい。はっはっはっ。」
下を見れば動けなくなるほどの、険しい山肌を男は登りました。ただ山頂を目指して。道すがら霧が立ち込め、あたり一面は白妙に染まり、後にも先にも進めなくなりました。
霧は生き物のように男にまとわりつき、耳元で「戻れ、戻れ」と囁くようでございました。冷たい風に吹かれてピュゥウ、ピュゥウと心寂しく鳴るばかり。
どこからともなく「お前さんは、何をしてるのかぇ。探し物か」と、美しくも艶かしき女の声がいたしました。 男が、白き霧の向こうへ「わが胸に開いた空しき穴を、埋むる宝を求めて参った」と答えれば、不思議や、霧はたちまちに晴れ、山頂まで見渡せるようになったのでございます。
声の主は天女にございました。美しい蝶を愛でる日々を送っておりましたが、男の命短き身でありながら、命を懸けて山を登る姿に、御心が動いたようでございます。
天女は、「あな、愛しきや。飽きぬれば、いざ、去ね。」と、愛しい掌の蝶を空へ放たれました。
頂上はみえぞ、歩くも歩くも辿り着く気配ぞなく、石ばかりの荒ら漠たる場にて「まなこゐ様はいずこにおられるか」と男は呟きました。そんなとき美しい蝶が男の頬をかすめながら舞ってゆきました。その翅が金色の粉を散らし、それが男の足元を照らす道しるべとなりました。荒れた地に、一枚、また一枚と、天女が散らした花びらが舞い降りてきたのでございます。
花びらの道しるべを辿りってゆきますと、虹が架かり、花々が咲き乱れる景色がひろがる場へ、男はようやっと足を踏み入れました。
男は、鎮座されております石像「まなこゐ様」に駆け寄りました。
「わが心を埋める宝はございませぬか。」と男は石像様に乞いました。
「其方に差し出すものはない。去ね。」と石像様はおっしゃいました。
「崖を噛み、雲を突き抜け、ようよう辿り着いたのでございます。何ぞ、わが心を満たす、まことの証を授けたまえ。」と男はいいました。
「止めよ。此処に在るすべては、この静寂の一部。其方の手に収まるような形はしておらぬ。」
何も持ち帰ってはならぬと言われても、聞けぬ程の苛立ちをおさえきれず、男は玉座にある美しい玉石を拾いあげました。
男が玉石を手に取った瞬間、あたりは恐ろしい静寂に包まれ、次の刹那、まなこゐ様の額に眩い光とともにピキリと亀裂が入ったのでございます。石像が崩れ始め、男も崩落に巻き込まれました。
男が目を開けると、そこはいつもの自分の家でした。
夢か現か、手を開いてみれば、そこには山で拾ったはずの玉石がひとつ。 されど、どこにでもある、ただの「河原の石ころ」見えにけり。
「骨折りて手に入れたるものが、これなるか。爺に笑われんぞ。」
男はそれを、庭の隅へ静かに置きました。
朝日まぶしく目を細め、空を見上げれば、太陽が、優しくこちらを見つめておられました。
そこへ、きらりと一粒。
何かが額に落ちてきました。すぅっと染み込みこんだようで、額をぬぐりとも、なにもなく。
「なんぞ、なんぞ。」
不思議なことに、あんなに重かった泥の心は、もうどこにもありませんでした。清々しい朝の空のように、明けてゆく温かさを感じておりました。
「足らぬ足らぬは、我ばかり。」
男はふと、庭の石を見やりました。昨晩まではただの石ころに見えていたそれが、朝日に照らされ、まるであのお方の「まなこ」のように、静かに、ただ、そこにあるのでございました。
「あれ、持ち帰るなとは、こういうことであったか。求むる宝は、初よりわが身の内に、在りしものを。」
さてさて、誰も帰ってこれぬ場とは、いかようの由にや。
そこへ行く者はみな、帰りし後には己という形が失せ、あのお方と同じ「まなざし」になってしまうからやもしれませぬ。
※眼ゐこ(古語においての読み:まなこゐ)
まなこ(眼:目玉・目そのもの)」+「ゐ(居:座る、位置する、とどまる)」が組み合わさった表現。
あとがき
It's Alright(大丈夫だよ)が、It’s All, right(すべては正しい)に変わる瞬間を見つけたことから始まったこのお話。 Fujii Kaze - It's Alright [Official video] の映像と、「宇宙は創造神が見ている夢である」というインド神話の断片から、この物語を編みました。
男は「自分は足りない(=穴がある)」と思い込んで、それを埋めるための「宝(=塊)」を外に求めて必死に山を登りました。けれど、最後に気づいたのは足りないと思っていたこと自体が、自分の心が作り出した頑固な『思い込み(塊)』だった。
私たちが無意識に作っている心の「構え」や「塊のようなもの」が、ふわりとほどけていったとき、足元の石ころさえもが、愛おしい「まなざし」に変わる。その温かな反転の瞬間を感じてもらえれば嬉しいです。
声にすると美しい響きのある言葉を選びました。中学校の国語で習うかな?程度の古語も交えています。思いっきり優しい声でお子さんに読み聞かせてみてくださいね。語彙の根っこに豊かな栄養を与えてくれることを祈って。
▼この物語が生まれた背景はこちら
【あとがきへ追記】(2026年4月27日 追記)
物語の結末について。
藤井風さんのMVは、最後「我らは星光」という言葉とともに宇宙へと飛躍していきます。ですが、この物語の男が宇宙へ飛び立つことはありません。
私にとって「宇宙」とは、肉体を持って行くことのできる物理的な場所ではなく、私たちの内側に広がる深遠な「精神世界」そのもの。精神世界の深淵さは宇宙みたいだと思いませんか?
最後に、男は額に落ちてきた光の雫に「おどろき」ます。
古語の「おどろく」は、外からの刺激によってハッと我に返ること、すなわち「目覚め」を意味します。あの雫は、精神世界という「宇宙」に触れた男への、ささやかな、けれど確かな祝福。
その冷たさに「おどろき」目覚めたとき、男は自分がかつて持っていた重苦しい執着が、朝露のように消えていることに気づくのです。
この物語のリズムや言葉選びは、長唄『京鹿子娘道成寺』の持つ様式美から大きな影響を受けています。
音楽プロデューサーのYaffleさんより長唄『土蜘蛛』をサンプリングしたとの言及がありますが、このMVの奥底に触れ、強く結ばれたのは伊佐利彦の型の美であり、彼が描いた「娘道成寺」でした。
蝶に関しては、土蜘蛛の「胡蝶」つながりで『鬼滅の刃』の胡蝶しのぶをふと思い出しました。彼女のモチーフであり、海を越えて数千キロを旅する渡り蝶「アサギマダラ」の羽の透き通るような美しい青。無限城編がオスカー公式からも注目され、世界的にその映像美が語り継がれる今、私の中で蝶の象徴が鮮やかに重なったのです。
オスカー公式が『鬼滅の刃』を紹介したこの動画は、ファン向けではなく、米アカデミー賞投票権を持つ映画関係者へ向けたもの。プロの眼が注目するその映像美と、VFXの完成を待つために公開を延期した(ずっずダイアリー談)『It's Alright』MVの凄まじい熱量。映像制作に対する姿勢の共鳴に見えました。
ちなみに、同じような熱量と原作愛を感じる、私的には風さんの信念みたいなものと共鳴しているって思う、今季(2026年4月)のアニメ、イチオシは『とんがり帽子のアトリエ』と『日本三国』です。
正解をなぞることより、自分が美しいと信じた直感を、私は大切にしたい。風さんの「信念を失ってはいけない」という、おとんからの教訓の実践でもあります。
実は、長唄において「松」と「桜」の両方のモチーフが同時に使われるのは、『娘道成寺』の専売特許とも言える約束事です。「松・桜・鐘・蛇」すべてが登場するのも『娘道成寺』だけ。MVの天女のシーンで、松と桜が一本の木として演出され、花吹雪となったのを見たとき、私の脳内にはこの唄が響きました。
花のほかには松ばかり、花のほかには松ばかり、暮れ初めて鐘や、響くらん
長唄『娘道成寺』は、この歌詞で始まるのです。
コーチェラ冒頭の鐘の音が、私には『娘道成寺』の大きな鐘と重なり、古典芸能の情念と救いが混ざり合うような、不思議な既視感を覚えました。
こうした伝統芸能の世界に触れる一方で、少し前から歴史も学びなおしています。中でも『古事記』の言い回しは、今の私にはとても深く響きました。物語の語り部口調や、中に散りばめた「まなこをい」や「たなごころ」といった古き言葉の根っこは、そこにあります。
長唄の「娘道成寺」。伝統芸能が紡ぐ「執着と解脱」の調べを、一つの背景として置いておきます。
参考:[長唄「京鹿子娘道成寺」Kyokanoko Musume Dojyoji @国立大劇場]
映画『国宝』の中で「娘二人道成寺」として、その妖艶で深遠な世界が描かれていたことも記憶に新しいですよね。
歌舞伎の女形(おんながた)とは、ある種の「異形」の美しさではないでしょうか。男性が芸を極めることで、性別を超えた別次元の存在へと昇華される。
映画『国宝』で描かれた、豪華絢爛な「二人道成寺」の舞もそうでした。磨き上げられた芸が、観る者の業(カルマ)さえも浄化し、「あぁ、美しかった…」という感嘆とともに深い静寂へと誘う。
藤井風さんのMVを観た時、私の中に浮かんだのは「最高の傾奇者(かぶきもの)だ」という言葉でした。あの天女のような姿に、私は伝統芸能が積み重ねてきた、あの研ぎ澄まされた美しさを重ねていたのです。
参考:【主題歌MV】 映画『国宝』|主題歌「Luminance」原摩利彦 feat. 井口 理(King Gnu)
(※1分頃から始まる「二人道成寺」の演目は、圧倒的な浄化の力を感じさせます。)
思えば、私自身も人生の岐路に立たされた時、いつも何らかの「知ること」に救われてきました。 暗闇の中で出口が見えない時、古人の知恵や、美しい言葉の根っこ、あるいは自分を縛っていた「塊」の正体を知ること。
「知る」ということは、新しい光の視点を得ることです。
その学びがあったからこそ、私は崖から足を踏み外さずに、今日まで歩いてくることができました。 耳を塞ぎたくなるような辛いことの多い人生ですが、美しいものはいつも私の心を豊かにしてくれます。
心を豊かにするものを選び、学び、そして「知る」こと。
その積み重ねの先に、MVの風さんのように「にんまり」と笑える日がくると信じています。
「存外、悪くない人生だった」と。
It's all, right
(声:美輪明宏/『もののけ姫』モロの君)
