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【春にして君を離れ】アガサ・クリスティー(中村妙子 訳)|読了

※物語の核心に触れています。

主人公のジョーンは、結婚してバグダッドにいる次女の見舞いを終え、イギリスへ帰る途中で足止めされる。

砂漠の中の鉄道宿泊所。

何もすることがない。

誰にも会えない。

ただ一人で過ごす時間の中で、ジョーンはこれまでの人生を振り返っていく。

夫のこと。

子どもたちのこと。

そして、自分が家族のためにしてきたと思っていたこと。

読み進めるほど、それまでジョーンが信じていた「幸せな家庭」の見え方が少しずつ変わっていく。

最初は腹立たしさの方が強かった。

でも最後に残ったのは、哀れみのような哀しさだった。


「あなたのため」という正しさ

ジョーンは、自分では家族をとても大切にしていると思っている。

夫のため。

子どもたちのため。

家族が幸せであるため。

自分が正しいと思うことを、善意で行ってきた。

でも回想を重ねるほど、その「正しさ」の危うさが見えてくる。

人の気持ちを理解できない。

自分の考えに固執する。

相手が何を望んでいるかより、自分が相手にどうあってほしいかを優先する。

そして、相手が苦しんでいても、それを自分の問題として受け取ることができない。

ここが本当に苦しかった。

悪意を持って人を傷つける人なら、まだ分かりやすい。

でもジョーンの場合、本人の中ではそれが善意であり、愛情であり、正しさでもある。

だから自分を疑わない。

「私はあなたのためを思っている」という確信があるから、相手から見れば苦痛であっても、自分の行動を変える理由がない。

誰よりも家族を思っているつもりなのに、誰のことも本当には見ていない。

その滑稽さと悲しさが強く残った。


気づく機会は、何度もあった

読んでいて一番つらかったのは、ジョーンにまったく機会がなかったわけではないことだった。

誰かの言葉。

誰かの沈黙。

夫や子どもたちの態度。

過去を振り返れば、「あのとき何かがおかしかった」と気づけそうな場所がいくつもある。

周囲の人間も、ジョーンのことをある程度分かっている。

だから助言もする。

言葉を選びながら何かを伝えようともする。

でもジョーンは、それを自分に都合よく解釈してしまう。

あるいは、聞かなかったことにする。

分かっていないことに、自分では気づけない。

ここが怖かった。

他人から何を言われても、「自分は正しい」という前提が変わらなければ、その言葉は届かない。

むしろ、自分の考えを補強する材料にさえ変えてしまう。

だから問題なのは、単に人の気持ちが分からないことだけではない。

自分にも間違っている可能性がある、と考えられないこと。

ジョーンのどうしようもなさは、そこにあったように思う。


ロドニーは、見えているからこそ苦しい

対照的に印象に残ったのが、夫のロドニーだった。

とても優しい人だと思う。

ただ黙って耐えているだけではなく、必要なときにはジョーンに言葉を向ける。それでも相手を徹底的に傷つけるようなやり方はしない。

特に印象に残ったのが、

「結婚は契約」

という言葉だった。

一見すると冷たい。

でも、ロドニーが言うと、それだけでは終わらないように感じた。

長い時間を一緒に生きること。

家族を続けること。

そのために何を守り、何を諦め、何を自分の中へ飲み込んできたのか。

いろいろなものが詰まっているように思えた。

娘のエイヴラルとのやりとりでも、ロドニーはジョーンよりずっと周囲の人間を見ている。

人の気持ちが分かる。

だからこそ、自分のしていることも、ジョーンがしていることも見えてしまう。

ジョーンが「見えないから傷つける人」なら、
ロドニーは「見えているから苦しむ人」に見えた。


この二人の対照もかなり印象に残った。


砂漠で、自分自身から逃げられなくなる

ジョーンが自分について考え始めるのは、日常から完全に切り離されたからだった。

家事もない。

家族もいない。

予定もない。

話し相手さえほとんどいない。

砂漠の中で、ただ時間だけがある。

日常に戻れば、役割や予定に紛れて見なくても済むものが、そこでは逃げ場なく浮かび上がってくる。

自分がしてきたこと。

傷つけてきた人。

理解したつもりで、まったく理解していなかったこと。

外から恐ろしいものが襲ってくるわけではない。

ジョーンが閉じ込められるのは、自分自身の中だった。

そこが、この作品の怖いところだと思った。

そしてジョーンは、あと少しのところまで行く。

自分が信じてきたものが、本当は違ったのではないか。

自分は家族を幸せにしてきたのではなく、もしかすると――。

そこまで触れかける。

だからこそ、その先が苦しい。


気づきかけても、人は変われない

ジョーンは何も考えなかったわけではない。

むしろ、この数日間でかなり深いところまで自分を振り返っている。

だから、一瞬は変われるかもしれないと思う。

自分の過ちを受け止めるかもしれない。

家へ帰ったら、今までとは違うジョーンになるかもしれない。

でも、そう簡単にはいかない。

自分を知ることと、自分を変えることは別だった。

ここが一番残酷だった。

人間は、真実を知れば必ず変われるわけではない。

見たくない自分を一度見たとしても、そこから目をそらして元の場所へ戻ることもできる。

ジョーンには、自分自身を本当に受け入れる勇気がなかったのだと思う。

だから最後には、それまで築いてきた「自分は正しい」という世界へ戻っていく。

読んでいて腹が立つ。

でも同時に、だんだん悲しくなってきた。

ジョーンは周囲の人間を理解できなかった。

そして結局、自分自身のことさえ理解しきれなかった。

そのどうしようもなさが残った。


読後に残ったもの

『春にして君を離れ』を読み終えて、一番強く残ったのは怒りではなかった。

哀れみのような哀しさだった。

ジョーンは間違いなく周囲の人を傷つけている。

人の気持ちを考えられず、自分の正しさを押しつけてきた。

でも彼女は、それを悪意でしていたわけではない。

家族のためだと思っていた。

正しいことをしていると思っていた。

だからこそ、自分を疑うことができなかった。

砂漠で一人になり、過去を振り返り、自分のしてきたことに気づきかける。

それでも変われない。

人は、自分の問題に気づくだけでは変われないのかもしれない。

そこに、この作品の苦さがあった。

ジョーンに腹が立つ人もいると思う。

滑稽だと思う人もいるかもしれない。

自分自身と重なるものを見つけて、苦しくなる人もいると思う。

自分には、最後に悲しさが残った。

そして、ジョーンだけを「こういう嫌な人間」と切り離して終わることもできなかった。

人の気持ちになって考えられないこと。

自分の正しさを疑えないこと。

都合の悪いものから目をそらすこと。

程度の違いはあっても、それはジョーンだけのものではない気がする。

だから、この物語は怖い。

殺人もない。

名探偵もいない。

大きな謎解きもない。

それでも、ミステリとは違う形で、人間の見たくない部分をここまで暴いてくる。

『春にして君を離れ』を読んで、アガサ・クリスティーという作家のすごさを、また違う方向から感じた。

読後に簡単には片づけられないものが残る一冊だった。

☃️ここまで読んでくださってありがとうございました。
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