徳川義親『最後の殿様』
『源氏物語絵巻』を切った人。
先日、国宝『源氏物語絵巻』を見に行ったことは既に記事にしましたが、そこで、徳川美術館の絵巻は、五島美術館のそれと同じように、かつて切断されていたというお話がありました。
切断をしたのは尾張徳川家第十九代当主、徳川義親氏。そのいきさつについて、徳川美術館学芸員の香山里絵氏がnoteに記事を書かれていました。
そこで引用されていたのがこの、徳川義親氏の著書『最後の殿様』の一章「国宝『源氏物語絵巻』を切る」でした。徳川義親氏は、徳川美術館の創設者でもあります。
いったい、どんな人なのでしょうか?
明治維新、新政府軍はなぜ江戸に上れたのか?
徳川家康が天下を取って、戦国大名を再配置した際、敵対しそうな外様大名は遠国に、譜代・親藩はその盾になるよう、江戸を取り巻くように。そして交通の要衝である水戸・紀州・そして尾張には御三家を。
そんな風に、日本史の授業で習ったのだけれど、なぜか肝心の明治維新の際、新政府軍は尾張をスルリと通り抜けて、江戸まで攻め上ってしまった。
「三家の者は、全く公方の家来にてはなし。今日の位官は朝廷より任じ下され、従三位中納言源朝臣と称するからは、これ全く朝廷の臣なり(…)一門の好みを思ふて、かりにも朝廷にむかふて弓を引事あるべからず」
本書「尾張徳川家は勤皇派だった」より孫引き
初代義直から「依王命被催事」と言い伝えられていたそうで、つまり「御三家は江戸表の家来ではない。従うべきは帝である」というのが初代からの訓示だったという。
まさかこんなところでモヤモヤが晴れるとは思わなかった。
もちろん、尾張にも佐幕派はいたのですが……
なんかこう……色々あったとかなかったとか……
幕末・維新の歴史はややこしい……
そんなこんなで、あくまで勤皇派……公武合体派というのが尾張徳川家の立場というわけで。そもそも、徳川慶喜を推したあたりから、ずっとそうだったみたい。
慶喜を将軍に推挙してから大政奉還まで、ぬかりなく事を運んだ人々の中で、特に功ありとされている人々は「幕末の四賢候」と呼ばれているのだとか。
松平春嶽・伊達宗城・山内容堂・島津斉彬・島津久光……
あれ? 「四賢候」なのに五人……いやまあ、この辺りの歴史はややこしいので、そういう事もあるのかな?
そんな適当な知識しかない自分でも、福井藩の松平春嶽の名前は知っている。
ぼくはこの春嶽が五十八歳のとき、春嶽を父に、小石川水道町の安藤坂上の屋敷で生まれたのである。この家はもと、安藤対馬守の上屋敷であった。
歴史の話から子供の頃の思い出に。
ぼくが三歳八ヵ月の時であった。(…)急に女中によばれ、平素ならはだしでは座敷にあがれないのに、いきなり座敷に引きあげられたので驚いた。父の寝ている部屋につれてゆかれ、大声でよべという。
「おととさま」
声をかぎりに、いく度かよんだその声が、向かいの久世山にきこえるだろうと思ったほどだ。父は隠居していたので侯爵にはならず、従一位勲一等であった。
これが、徳川最後の将軍を推挙し王政復古に尽力した、教科書にも載っている歴史上の人物の死。そして、幼い子供の眼から見た父の死。
それにしても文章が上手いです。思い出として語られる、華族の生活がまた面白い……母親は正妻ではなく、扱いは召使なので、母と呼べず「おふじさん」と呼んでいたとか、ただ面白がるのも申し訳ないのだけど。
母子として交わる事ができない分、礼儀作法などしつけが厳しかったという話は、さすが華族と言うほかなし。
「若様は大きくなると殿様になるのですから、だれに対しても謙虚で、ていねいでないといけません。目下の者にも何かしてもらったら必ず『ありがとう』と礼をいわねばなりません」
母だけではない。女中でも家扶、家従のものも、いずれも相応の教養があって、ぼくらにもきびしかった。
ある時、友達の家に遊びにいったとき、友人に
「そんなことをすると損だよ」
若い女中がききとがめて、
「若様はそんなことで損得をいうものではありません。損は御自分でおうけになるのです。損得で物事をみてはいけません」
それを聞いてぼくはなるほどと思った。
「立場の上下関係なく、相手を人として尊重しろ」
「自分の得を考えず、むしろすすんで損を背負え」
近年の、マウント合戦やコスパ競争とは真逆の教え。
しかも、こういう叱責をしてくるのが若い女中。それを、おぼっちゃまが素直に受け入れるのだから、やはり本物の名家と言うのは、心根から違う。
偉い人は偉そうにする必要がない、という事かなあ。
おこづかいなし! 学校も落第!
当時は小学生でも成績が悪いと落第があったので、落第しました。と素直に書いています。学校の勉強と社会勉強をかねて、先生の家で暮らす事になったとか。
だけど勉強もせずに、近所の長屋の子たちと、石けりやハゼ釣りとかして遊んでたとか。
「子供に金を持たせない」という家のしきたりで、十六歳までおこづかいなしで、鉛筆削りも買えなかったとか。
その後、時習館の宿舎で暮らすようになったり、学習院に進んだり、福井松平家から尾張徳川家に移ったり。
徳川家の養子になるんだから、もっといろいろあったんじゃないかと思うんだけど、びっくりするほどアッサリ書いている。書けないような裏があったんじゃないかと、妄想するのも楽しそう。しかし実際は、本人はまだ若かったから詳しくないとか、細々書いても家外の者にはチンプンカンプンだからとか、その程度の話かな。
この辺りから、色々な人脈ができていくのも面白い。学習院では乃木希典大将に服装チェックされたり、だんだん、それっぽい人名がポツポツでてくるようになる。
東京大学で、尾張藩による木曽の林業経営を研究する。それはのちに、徳川美術館に並ぶ施設として、徳川林政史研究所の設立につながる。その植物研究の一環で、彼岸花の種子を作って昭和天皇裕仁陛下に献上したのが、この章のクライマックスでしょうか。
マレーから日本を見る。
少し遡って大正の頃。ジンマシンに悩まされていたので、転地療養でシンガポールへ。当時は毎年、北海道で熊を撃っていた。マレーの王様がそれを知って、自分も狩猟が趣味なので、とトラ狩りに誘ってきた……
こういう、情報量の多い記述がやたらあちこちにある。
当時、日本人がかの地でゴム園を経営していたとか、商売の中心は華僑だったとか、イギリス人のホテルには有色人種は入れなかったとか。一々生々しい。
スルタンと一緒のトラ狩りは、よほど心に残っているのか、描写がさらに生き生きしている。眼前に迫ったトラがスローモーションに見えたとか、死んだトラの顔をハンカチで覆うとか。
この時に買い集めた市販の地図を、のちに陸海軍が借りにきて、どうするのかなと思っていたら大東亜戦争のシンガポール攻略があった。二十年も昔の市販の地図が、役に立ったかどうかは分からない。
面白い旅行の話だと油断していたら、全く同じテンションでキナ臭いネタがスルリと滑り込んでくる。怖い本です。
サルタンや日本人の実業家と友達になったり、行敬された皇族と同行したりしているうちに、マレー語も覚えた。なのに、日本から御大層な肩書で来る連中は、現地の文化にも自然にも興味を示さず、物見遊山をするか欧米人の真似をして現地人を見下すばかり。これではいかん。
そのことがのちに、石原くんを大川周明くんに紹介し、そこから提携して国家改造運動にのりだし、二・二六事件にも加担する発端となったのである。
二・二六事件に加担? とんでもないことをサラッと書くにも、限度がありませんか?
国家改造運動。
「石原くん」というのは、マレーで鉄鉱石を掘り当てて、現石原産業の創立者となった石原広一郎で「大川周明くん」というのは、上記の二・二六事件をはじめ数多くの事件・事変に関わった思想家。「大東亜共栄圏」の基本的な構想を練ったと言われる。
戦後、民間人で唯一、東京裁判でA級戦犯の被疑者とされた人。前に座っている東条英機の頭を叩いたシーンが有名。
大川くんは、戦争から敗戦、そうならないための革命運動の失敗、そうしたつみ重ねの心のうちに流れる鬱勃たるうれいが心身の疲れをさそい、気が一時的に狂ったのではないかと思われる。そしてアメリカ軍の診断で松沢精神病院に入院させられた。
頭をたたくのは大川くんのくせで、酒に酔ったときには、ぼくもよく頭をたたかれた。
大川周明との関係は、この後もたくさん出てくる。よほど親しかったのか、彼のグループがクーデターを計画した時には五十万円の資金提供を約束するなどしている。1931年、昭和6年の五十万円? 当時の平均年収は、だいたい千円くらいだという。いくら華族といっても、そんな現金はなかったので、こっそり隠してあった金塊を売って、二十万円ほど作ったとか。
これは失敗に終わり、現在は幻のクーデター、三月事件と呼ばれているそうです。同じような出来事で、十月事件というのもある。
二・二六事件に対しては、徳川義親氏はあまり評価していないみたい。北一輝も「大川くんとは対照的だ」と、なんなら嫌っていそう。
決起将校は純情で、陛下への忠誠心で固まっていたと思う。だが忠誠心にこりかたまった結果、”陛下の意思にそむくものは殺してしまえ”ということになったのである。
(…)だが、陛下の意思にそむくか否かはだれが判定するのか。もし決起将校とその同調者が判定するのであれば、これは大問題である。それは独断だし僭越もはなはだしい。
おなじ政治改革を目的にしながら、意見の相違する人は殺す、ということはぼくにはとうてい納得できることではない。(……)
主義主張の点で争うのはよい。争うべきだと思う。だが争うだけで相手から何も学ばないのはおろかではないか。
社会主義者であろうと擁護する。
ぼくは生硬な社会主義には賛成しかねるが、社会全体の幸福をはかる願望には、通ずるものがあって理解できる。社会主義であろうと国家主義であろうと、国民の幸福をはかる願望があれば、主義主張にこだわる必要はない。富士山にのぼるのに、右からのぼらなければならない理由はない。左からのぼっても頂上をきわめればよい。要は日本人であることである。
皇族との同行の際、警察から「社会主義者の石川三四郎という者が近くにいます。ご用心ください」と言われた。そこで「顔も知らないのに用心のしようがない」と答えたら、その警察から本人を紹介された……ちょっと何を言っているか分からないけど、そう書いてあるのだから仕方がない。
しかも、実際に会ってみたら、実に優れた紳士だったので、娘のフランス語の家庭教師に来てもらう事にしたという。
石川三四郎は、幸徳秋水らと『平民新聞』を創刊し、『共産党宣言』の邦訳を掲載したメンバーだったため、大逆事件との関連を疑われていた。
徳川氏によると、当時の首相であった長州閥の桂太郎に、社会主義者への恐怖心を煽る意図があったのではないか。関東大震災の際に、その恐怖心を利用して社会主義者が虐殺されたと、少し怒りを含んだような文章がある。
大震災の際には、石川三四郎を救うために、焼け跡を自転車で、田端警察署に駆けつけて身柄を引き取ったりしている。
ぼくの家には大川周明くんの関係から右翼国家主義者がくるが、石川三四郎くんの関係で左翼の社会主義者もくるようになった。右と左が一堂に会して仲良くしている。みんな日本人だからである。面白いことであった。
このあたり、いかにも殿様らしい鷹揚さというか、器の大きさを感じるのでした。
『尾張徳川は勤皇派だった』そして今でも!
そんな、自由闊達な精神を尊重する徳川氏は、治安維持法にも激しく反対をしていたと書いています。なんなら、天皇を主権者とした明治憲法にもダメ出しをしていました。
「君臨すれども統治せず」が天皇の歴史的伝統で、それが日本国の本来の姿である。(…)
明治維新のさい、薩摩、長州派と公卿岩倉具視らは天皇を奉じ、維新の革新に成功した。それはそれなりに効果はあった。
だがそれ以後も、国民の天皇に対する信仰を利用し、権力を天皇に集中したのは大きな誤りである。
(…)薩長派がこのように、天皇を権力の座にすえたのは、薩長派自身の権力を維持するのに好都合であったからだ。
だが同時に、歴史的体験ずみの逆効果も現れた。薩長派の失敗のいっさいを天皇が負わねばならぬことになった。(…)
さらにのちに軍部が台頭すると、言論を天皇の名で弾圧し、天皇の名で国民を軍部のもとに結集させ、大戦争をはじめ、敗戦降伏となると、いっさいを天皇の責任に押しつけて軍人は逃散した。
読みようによっては、薩摩や長州が嫌いで、それに乗っかっている軍閥が嫌いだったようにも思われます。
天皇に恭順するとの意思で、官軍側に下ったのに、その官軍が作った政府に、何もかも奪われた。それどころか、彼らの失策の結果、皇室は民を救うために、千代の神格を自ら放棄する失う事になった。
尾張徳川家はその初代から、その価値の源を皇室に置いていました。皇室が尊いからこそ、名は華族と変わっても、その臣として存在する意義があると。
明治二年、大名や公家が華族となり、皇室の藩屏となったとき、華族の家の玄関には一丁の提灯がおかれてあった。(…)国家や皇室に万一のことがあれば、この提灯を持って皇居にかけつけると、門鑑なしでも参内できる規定であった。
(…)天下大事のさいに皇居にかけつける気概は明治から大正、大正から昭和になるにうすれ、提灯とともに気概まで消滅した感がする。今日までこの提灯が保存されていたのはぼくの家くらいかもしれない。
敗戦を機に尾張徳川家は、明治政府が作った華族と言う制度から離れました。それでは朝廷の臣という気概を、どうやって持ち続けるか。
その答えとして、徳川義親氏は、名古屋を中心とした文化圏を盛りあげていく事を選ばれたとのこと。
いつか天皇陛下が、政治とはきっぱりと縁を切って、日本人の純粋な精神的、文化的、歴史的支柱として、存分に「統治せずとも君臨す」存在になっていただけるように。
汚れた東京を離れ、皇居を名古屋に移していただく、その日のために!
最終章を読んで、腰を抜かしました。ガチで。
あの長閑な徳川園、雅な徳川美術館に、そんな遠大な野望が込められていたとは……
まさかと思いますが……名古屋城に大規模な修復が行われているのも……ひょっとして……?
