【再掲】「国宝『源氏物語絵巻』を切る」―徳川義親にとっての「国宝 源氏物語絵巻」
本記事は、2025年11月22日 22:27掲載の同名記事を間違って削除した関係で、再び再掲したものです。
現在、徳川美術館では
徳川美術館開館90周年記念特別展
「国宝 源氏物語絵巻」を開催中。
多くの御来館に心より感謝申し上げます。
そして長時間お待ちいただく状況が続き、
本当に申し訳なく思っております。
お並びいただく時間を
すこしでも楽しく過ごしていただければと、
徳川美術館としては
公式にご案内しているebookをご用意しております。
ですが、会場では
さまざまなご質問も多く寄せられます。
そこで先週、
個人的な立場から2本の記事を公開しました。
そしてこの三連休以降、
展覧会の後半にかけては
この2本でも待ち時間の「読み物」といては
足りなさそうな気配がしてきました。
そこで、みなさまの貴重なお時間を
すこしでも有意義にしていただければと思い、
私が近年研究の中心に据えている
徳川美術館の創始者・徳川義親の視点から
もう一本、やや長めの文章を記しておきます。
徳川義親は「国宝源氏物語絵巻」をどう見ていたのか?
徳川義親の自伝『最後の殿様』には
「国宝『源氏物語絵巻』を切る」という
衝撃的な章があります。
国宝指定も財団設立も美術館開館もまだ先、
義親が「個人蔵」として
絵巻を抱えていた時代のお話です。
ここではその一部を引用します。
「ぼくの家に『源氏物語絵巻』が三巻あった。
昭和三年ごろ、
文部省はしきりに国宝の指定を求めたが、
ぼくは頑として承知しなかった。
その理由は、国宝になって、
世界的文化遺産である『源氏物語絵巻』を、
文部省の役人どもに勝手にされては
かなわないからである。
『源氏物語』は平安期の藤原時代、
寛弘四年(1007)ごろの紫式部の作で、
桐壺、帚木、空蝉など五十四帖ある。
この五十四帖から蓬生、関屋、絵合、柏木など
興味深い場面を絵にしたのが
『源氏物語絵巻』である。
絵は宮中の絵師藤原隆能の作というが
確かなことはわからない。
絵巻は縦七寸三分、幅八寸ほどの
料紙をつなぎあわせ、
ひとつの画面の幅が一尺六寸前後になって、
これを一段として、一巻で八段分あった。
絵は物語ができたのちおよそ百年後の作で、
八百年以上の古いものだが、
色はあせず、ゆたかな色彩を保っている。
これかぼくの家にどうしてあったのか。
おそらく大阪夏の陣で、落城のさい、
戦利品として押収し、
家康が名古屋城に持ち帰って
保存したのであろう。
絵巻は最初十巻あったらしい。
残ったのはぼくの家で二巻、
阿波の蜂須賀家で一巻の計三巻であった。
蜂須賀家の一巻は、明治のはじめ、
益田孝さんがたった七円で買いとったそうで、
この一巻はいま、
五島美術館に保存されている。
今日では何億円とする。」
(徳川義親『最後の殿様』講談社)
義親の語る当時の状況は、
現在とは制度も価値観も違います。
昭和4年に「国宝保存法」が成立する
以前の話であり、
明治30年からの「古社寺保存法」に基づく
国宝制度だけが存在していた時代です。
おそらく文部省の担当者が、
法制度の改正や作品調査にむけて
強引なアプローチを重ねていたのでしょう。
義親のやや辛辣な言い回しからも
当時の緊張感が伝わってきます。
また、現在の「国宝」制度は
戦後の「文化財保護法」によるもので、
最初の指定は昭和26年(1951)6月9日。
「国宝源氏物語絵巻」は
翌昭和27年3月29日に指定されています。
展示期間が3週間しか設けられない理由も
この「国宝」指定による
厳格な保存基準があるためです。
もし長期間展示してしまえば、色彩が褪色し、
いずれは鑑賞できなくなってしまう
可能性があるのです。
もう一巻の「発見」について
再び『最後の殿様』を引用します。
「明治四十三年、
ぼくがまだ東大国史科に在学しているときに、
家扶の片桐助作が屋敷の書庫を整理中、
粗末な杉の箱に入れた絵巻を発見した。
どうも『源氏物語絵巻』と
同質のものと判断して、ぼくに見せた。
(中略)
『源氏物語絵巻』一巻は、
まさに片桐の発見といってよい。
これで家の絵巻は三巻になり、
益田さんの一巻をあわせて四巻になった。
これは大発見だが、
世間の頭には絵巻三巻がしみこんでいたので、
家の絵巻が三巻にふえても、
当然のように無関心であったのである。」
「国宝源氏物語絵巻」の伝来は
よくわかっていませんが、
江戸時代後期の尾張徳川家には
「源氏物語絵巻」二巻の存在が
知られていました。
その二巻は江戸の市ケ谷上屋敷に
大事に保管されてきました。
そこに明治後半になって
もう一つの一巻を片桐助作という
家扶が見つけたことを
義親はドラマチックな発見として
書いています。
ですが実際には、
もう一巻は明治前半の時期には既に
その存在を確認されていたようです。
明治14年(1881)の文部省博物局の調査で
三巻は同一の絵巻と判断されました。
片桐助作は、
義親の曽祖父にあたる慶勝の頃から
長らく尾張徳川家の家政で
活躍してきた人物であり、
明治26年の世襲財産指定に先立つ
調査にも関わりました。
片桐が発見したとされる「源氏物語絵巻」は
名古屋城二之丸に
保管されていたことがわかっています。
片桐助作が書庫内で発見したのは
事実なのかもしれませんが
年代はすこし遡りそうです。
ですが、今回の展示では
今ここで引用した
義親が書いている内容を確かめられる
展示物があるのです。
本館・第9展示室に、
「国宝源氏物語絵巻」を収めていた
収納箪笥、極書と共に
むかしの表具、箱が置かれています。
右側に漆塗の豪華な箱に、
江戸時代から尾張徳川家に伝来すると
よく知られていた「国宝源氏物語絵巻」二巻が納められていました。
いかにも宝物が入ってそうな
艶やかな漆の内箱に、外箱も備えた二重箱が
見て取れるかと思います。
それに対して左側に
はるかに質素にみえる箱が展示されているのを
ご覧いただけるかと思います。
これが義親のいうところの
片桐が発見したとされる一巻の入っていた
「粗末な杉の箱」。
箱の違いは一目瞭然です。
箱がこれだけ違うのに、
中身が同じシリーズの絵巻とは
なかなか考えにくいですね。
複製に託した思い
再び『最後の殿様』から引用します。
「絵巻は色あざやかだが、
八百年もののあいだ、
開いたり巻いたりしたので顔料が浮き、
色彩のはげ落ちたところもある。
詞書の部分は金銀の箔を散らしているが、
はげたり銀がさびて黒くなったりしている。
現状では開巻のたびに痛むので
身を切られるような思いであった。
益田さんも同様の思いで、
やたらに人に見せない。
そこでぼくが絵巻を見せるときなら、
見せてもよいよと断っていた。
いずれも世界的貴重品の絵巻が
痛むのがこわかったからであった。」
義親が語る「痛む(傷む)」という表現には、
所有者としての実感が込められています。
絵巻は開くたびに、顔料がわずかに浮き、
しまう時にはどうしても擦れます。
古くから、
多くの模写や複製が作られてきたのは、
閲覧するだけで「傷む」作品を守りながら
広く紹介するためでした。
そして、衝撃の「切断」へ
再び『最後の殿様』から引用します。
「問題はこの絵巻を人びとに見せなければ、
痛みもしないが絵巻そのものの
存在意味がない。
だが見せれば痛む。どうすればよいか。
ぼくはまったく板ばさみになった。
考えに考えたすえ、
絵巻を切断することを思いついた。
切断して、絵巻ではなく、
のばしたままで保存すればよいと
考えたのである。
絵巻切断の構想を、
学者、画家、好事家、骨董商などに話すと、
全部から猛烈な反対をうけた。
一人として賛成するものはいない。
ちょうどそのころ、
田中親美さんに絵巻の模写を頼んでいた。
剥落模写で、現物そっくりのもので、
どちらが本物かわからないほど
精巧なものである。
その親美さんに頼んだ。
「先生、絵を切断してください」
親美さんはびっくりして、
「みんなが反対なのに、
そんな無茶なことができますか」
親美さんは頑として承知しない。
そこでぼくは親美さんを脅迫した。
「いいですよ。それならば、
経師屋のいいのをつれてきてください」
「なにをするんですか」
「ぼくが切ります。
この絵巻はぼくのものでしょう。
ぼくのものを、
ぼくが切るのに文句はないでしょう」
ぼくに切られては困る。
源氏物語絵巻はどうなるかわからない。
とうとう親美さんは絶体絶命で、
切る決意をした。
(中略)
切断は予想のとおり成功であった。
いままで反対したもの全部が
「これはすばらしい」と
称賛してくれる。
切断すると巻き返しがない。
絵具の浮いているところは
糊をさして押さえ、
まずは完全なものになった。
出し入れも便利で安心して扱える。
額面装釘にして、
一枚一枚を選定した桐の箱に入れて
保管できた。
ぼくが絵巻の切断に成功したと聞いた
益田さんは、田中親美さんに頼んだ。
「ぼくの絵巻も切断して、
徳川さんとまったく同じ形式にされたい」
益田さんの絵巻は
のちに五島美術品に移されたが、
今日この四巻をならべると、
まったく同じ形式で見事に揃う」
義親の絵巻を切る決断は、
すぐには理解されるものでは
ありませんでした。
しかし当時としては、保存技術は十分ではなく
「開かない→見せられない」
「見せる→傷む」という
厳しい二者択一でした。
義親は結局、切断によって
保存性の向上を実現します。
しかし現代の保存科学の観点から、
徳川美術館の「国宝源氏物語絵巻」は
再び巻子装へと戻されました。
五島美術館との形式が
そろわなくなってしまったことについては
義親に心の中でそっと謝りたいと思います。
義親が示す「国宝源氏物語絵巻」への愛情
義親の言葉の引用を中心に
ご紹介してまいりましたが
いかがでしたでしょうか。
義親の言葉を読み解いていくと
彼がいかにこの絵巻を誇りに思い
いかに「未来に残すこと」を
真剣に考え続けたかがわかります。
「切断」の文字の強烈なインパクトばかりが
クローズアップされがちですが、
その根底には深い愛情があるのを
感じられたのではないでしょうか。
おわりに
徳川美術館の創始者・徳川義親の
「国宝源氏物語絵巻」への思いを
見てまいりました。
ちなみに阿波蜂須賀家に伝来していた絵巻を
益田鈍翁が七円で買ったという
エピソードがありましたが
「七円」がどのくらいの価値かと申しますと、
明治初期ですと
一円でお米が2升(30㎏)買える感じ、
つまり5㎏のお米、42袋分になります。
このところ、
お米の価格があがっているとはいえ
徳川美術館の前に5㎏のお米を
50袋並べられたとしても
「国宝 源氏物語絵巻」をお譲りするのは
難しいかと思います(笑)。
さてさて、
すこしはお楽しみいただけましたでしょうか。
ひきつづき徳川美術館を
応援いただくとともに
これからも徳川家の裏話を
お届けしてまいりますので、
よろしくお願いいたします。
そろそろ「国宝源氏物語絵巻」の順番が
回って来たでしょうか?
もしまだのようでしたら
どうぞ引き続き、
尾張徳川家に伝わる逸話の数々を
お楽しみください。
