辻惟雄『最後に、絵を語る。』(前)


日本絵画史、再履修。

辻惟雄氏は、山下裕二氏の恩師に当たる方。
先日記事を書いた、山下裕二著『未来の国宝・MY国宝』にも何度も登場されました。

著書『奇想の系譜』は、若冲や国芳が再注目されるきっかけになった名著。それから五十年経って、さてと……と、日本美術を振り返って何を思うか。そういう本。
といっても、過去の著作を履修している必要は特になく。
むしろ、日本美術の大まかな歴史をおさらいしよう、という人には、お勧めの一冊でございます。

『やまと絵』平安から戦国へ。

「やまと絵」の定義。

日本の絵画のはじまりというのか、まずは「やまと絵」のお話から。
「やまと絵」とは何か? というお話ですが、まずは端的に語られている、儒烏風亭らでんさんの動画をご覧になるのがよろしいかと。
……こちらの都合で申し訳ないんですが、時々こうやって儒烏風亭さんの話をしないと、このnoteが推し活であることを忘れられそうになるので……

……ちょっと脱線します。
こちらの動画の中でも語られていた、やまと絵独特の、屋根を取っ払って建物の中を描く「吹抜屋台」の技法について。それは、日本人が魚を食べるからという説があるようです。
魚は、上から箸でむしっていく。上の皮をむしれば身が、身をむしれば骨が出てくる。だから「何かの内部は、上を取り除くと見えてくる」という認識がある。故に、建物の内部を見せようという際にも、上の部分……屋根を取り払うというのが、自然な発想だった。
それに対して西洋画では、室内を見せる場合、横の壁を取り払う。それは肉を食べるから。肉はナイフで縦に切る。中身が見えるのはその切り口……というわけで、西洋で室内が描かれる時は、横の壁が切り取られた、断面図になる。

例によって、どこで読んだ誰の説か全く覚えておりません。
なので、私の知ったかぶりネタ、全てにおいてそうですが「まあそんな話もあるらしい」程度で聞いといてください。
……脱線ここまで。

この本の中で、辻氏が語る「やまと絵」の定義は、おそらく以下の部分になるかと思います。

やまと絵の意味は時代によって変化するところもあって、案外ややこしいんです。まずは、「平安時代とそれ以降に日本で描かれた、日本の景物(名所、人物風俗、四季の自然、行事など)や物語を題材とした絵」くらいに捉えておかれるとよいでしょう。
(略)
もともとやまと絵とは、日本的な題材の屏風絵を「唐絵」(中国画や、日本で描かれた中国的な題材の屏風絵)と区別するために生まれた言葉です。

辻惟雄『最後に、絵を語る』第一講 やまと絵

ここで図版として挙げられるのが、京都国立博物館所蔵の国宝『山水屏風』。各面の枠がとられた古い型の屏風で、まだまだ唐絵の要素をたっぷりと残しているのが分かります。

ここで唐絵の要素として語られているのは、遠近法。遠くの風景は小さく描かれ、近くは大きく描かれる。
先の儒烏風亭さんの動画では、遠近法を使わない事もやまと絵の特徴として挙げられていましたが、この屏風では使われています。
よく見ると、中央やや下の庵は屋根がありますね。壁は取っ払われているけれど……まあ、屋根を取っ払うほど大きな建物でもない、というのもあるでしょうが……
そもそも、同じお箸の国なのに、中国大陸や朝鮮半島の絵画では「吹抜屋台」の手法は使われていないんだよなあ……じゃあ、先に触れた説はやっぱり間違いかしら。

四大絵巻物。

本格的に、やまと絵という存在が明確になるのは、平安時代の絵巻物。『信貴山縁起絵巻』『鳥獣人物戯画』『伴大納言絵巻』そして『源氏物語絵巻』という四代絵巻物。

あれ? 『信貴山縁起絵巻』でもやっぱり屋根はあるのね。遠近法は無いッポイ。大きく描かれた騎馬の団体の隣に、小さな樹々を乗せた山があったりもする。
だけど……遠景・近景の概念が無いわけじゃない、遠近法だって実は知っています……って言うのは、かの「剣の護法童子」がビューン! と飛んでくるシーンで明白。スゲェよこのズームイン感。しかも、背景の野原には菜摘でもしてるらしい、ちっちゃな女性とか描き込んである。さらに画面奥に飛び去って行く雁の列が消えてゆく感じ。コレ、遠近法以外の何者でもないよね。
「遠近感がない? 分かってやってんだよ!」
という主張を感じる。
理屈詰めの遠近法よりも、そのシーンでの重要性や役割が優先されているのかな?

そもそも「絵巻物」という表現方法そのものが日本独自で、大陸にはなかったらしい。そういった絵巻物の表現については、高畑勲氏が『十二世紀のアニメーション』という本にまとめているとのこと。実はこの辻惟雄氏、高畑勲監督の東京大学の一年先輩で、同じ駒場寮にいたとか。

また読まなきゃならない本が増えちゃったよぅ……

『源氏物語絵巻』になると、アニメ的なダイナミックさは無いけれど、構図や配置での心理描写が洗練されてくる感じ。
その上、先の動画でもあったように、みんな「引目鉤鼻」で変化のない顔だけど、目線の向きや顔の角度で人間関係や感情の動きを表現するのは、お能なんかとの繋がりもあるのかな?
辻惟雄氏がさらに指摘するのは、画中の屏風や襖に描かれているのは「唐絵」だということ。公的な文書ではまだ漢語が使われていた時代。やまとことばと漢語の使い分けみたいに、個人的に楽しむ絵巻物は「やまと絵」で、障壁画は「唐絵」みたいな使い分けがあったんだろうか?
少なくとも、描き手にも読み手にも「唐絵」と「やまと絵」は別物である、という自覚があったのは確かだろうな。

辻惟雄氏は、絵巻物は十二世紀から前にさかのぼる事はないんだけど、その十二世紀の四代絵巻物で既に頂点を極めている、という不思議さを語ります。既に『鳥獣人物戯画絵巻』は墨だけで描いた「白描画」で、かつ「詞書」がないという他に例のない、異色な作品だと。普通に考えれば、簡単なものから次第に洗練されていって、その洗練の中から異色な作品が出てくるはずなのに。
「唐絵」も次第に変化していて、大陸では宋や元の時代になり、水墨画が発展していく。

貴族社会から武士の時代へ。

十二世紀、平安時代の絵巻物だけじゃない。十三世紀、鎌倉時代の絵画もいきなりクライマックス。
国宝『伝源頼朝像』は、この後の武士の世の絵画の要素を、ガッツリ含んでいる。
ということは、前の時代からの変化も、クッキリしていると言う事。キリリとした眼付、力のある眼光、男らしい鼻筋、引き締まった口元……おい! 「引目鉤鼻」どこへ行った! いつの間にこんなん描けるようになっとったんや!
その答えは、たぶん『鳥獣人物戯画絵巻』にあるんだろう。ここではその間を埋めるものとして、大倉集古館所蔵の『随身庭騎絵巻』が挙げられている。そこからさらに、デフォルメを含めたリアリズムの楽しみが、『一遍聖絵』などに繋がっていく。

鎌倉仏教の興隆による寺社勢力の勃興、武士階級の台頭と、勢力図が大きく塗り替えられていく中で、求められる絵画も多様化していく。これは彫刻とかとも同じですね。運慶、快慶が活躍したり、興福寺の国宝『阿修羅像』などを含む八部衆像などもこの頃。

この後も「やまと絵」を守り続ようとする「土佐派」を中心に、例えば屏風絵の世界などで、独特の個性を発揮する作家が大勢いた。大元の「唐絵」が大きく変化したことで、自由にイメージを広げられるようになったのかな。
特に需要があったというか、今も数多く残っていて、個性が分かりやすいのは障壁画。特に屏風は、襖絵ほど制約がないせいか、良いものが多い。以前も取り上げた『日月山水図屏風』とか、土佐光重の作と言われる『浜松図屏風』など。
そして最終的な到達点が、俵屋宗達。尾形光琳や酒井抱一も模した『風神雷神図』が有名だけど、雅な源氏絵も描く。
そうして、絵画以外の、工芸やデザインをこなす本阿弥光悦とともに、茶道とも共鳴をしながら「琳派」が成立する事になる。

『狩野派』戦国から江戸へ。

狩野派のはじまり。

狩野派の初代は足利将軍家の御用絵師を勤めた正信。以降、江戸時代が終わるまで日本絵画のメインストリーム。
西洋絵画で言えば、印象派が登場するまでの、アカデミアやサロンの絵画みたいなものかな?
違うのはその中心に、狩野一族という血族が存在した事……

初代正信への、辻氏の評価は厳しい。代表作『周茂叔愛蓮図』は、ヘタクソ……とまではいかないが「国宝にするほどじゃない」とバッサリ。『竹石白鶴図屏風』は大傑作と褒めちぎるけど「だから描いたのは別人ですね」と……キッツィわぁ……
実際、当時のお公家さんから「あいつの絵はやまと絵じゃない」なんて評されていた話まであるとか。正信に何か怨みでもあるんですか辻先生。
しかも、正信は誰に絵を教わったとか、どこの流派で修業したとか、そのあたりの事が良く分からない……でもそれなのに、将軍家をはじめ、武家公家寺社からの仕事がひっきりなしで、正信ブランドの作品が山のようにあるという。
不思議ですね……

狩野元信。

何が面白いといって、二代目の元信は、そういった美術界の頂点という立場に、全くふさわしい存在だったということ。
芸術家としての腕前も抜きんでていて、センスは時代を先取りしたものすごさ。頭の固そうな将軍家も武家公家寺社も、作品の出来で黙らせる。
その一方で、狩野派という巨大なグループを取りまとめ、営業先を全国に広げ、後進をバリバリ育てて需要に応えるという、トップとしての能力も最高レベル。

もちろん、それを可能にしたのは、正信がそれだけの環境を残していたということなのでしょう。正信の最高傑作は元信だった?

辻氏の講義で何が面白かったといって、狩野正信の作風は、実は『やまと絵』ではなく『漢画』だということ。『漢画』というのは、日本で日本の絵師が、大陸の風物を大陸の画法で描いた絵のこと。それを、元信が『やまと絵』と合わせ、和漢融合の『狩野派』を生み出した。
だから、狩野派の絵画には、書道の『草書』『行書』『楷書』のような『型』がある。型が決まっているから、新人の育成も、受注も、システマチックに可能になった。狩野派だけに。そんなダジャレは言いませんが。

確かに、その三つのパターンに分けられる気がする。
禅寺なら、墨色のみで、空白と淡いぼかしに、迷いのない筆遣いで一息に描き上げた、水墨画ようの作。
奥の間なら、同じ墨絵でもグリグリと描き込んだ竜だの虎だの、あるいは金地に彩色のものでも、背景がなくモチーフのみをバシッと決めたヤツとか。
表の間であれば、豪奢な金地に、背景も近景もミッシリと描き込んで、見る者を圧倒するモノを。

眼からウロコが落ちるような指摘だけど、本当にそうなのか、それは今後、色々と作品を見ながら確かめて行かなくちゃならない。

これからの日本美術の鑑賞の指針を作る事ができた。
この一点のみでも、この本を読んだ甲斐がありました。

狩野永徳。

元信は、やまと絵を取り入れる上で、土佐派から大きな影響を受けたと説かれていますが、自分には、土佐派というのもよく分からなかったり。
やまと絵の要素を取り入れて、自由度の高い「行書」に相当する「型」から、その型からはみ出す……まさしく「型破り」なほどに、大きく表現の幅を広げた、それが永徳……ということらしい。

ちょうど戦国の世で、型破りな人物には事欠かず、型破りな芸術が求められていた時代。陶磁器や茶道もこの頃。千利休とか古田織部とか。安土桃山時代というのは、本当に文化の爛熟期だったんだなあと。

こないだ国宝展で見てきた唐獅子図屏風のイメージが強くって、あんまり理屈がこねられない……この本によると、わずか十歳で時の将軍、足利義輝に謁見しているとか。。
そんなに早熟だったのか。でも、五十を待たずに亡くなってしまう。永徳の作風はだから、他に引き継がれる事もなく、彼自身の作のみ、唯一無二のものとして残ったと。

狩野探幽。

永徳の力強さを引き継いだのは弟子の山楽で、彼は元信の器用さも持っていたとか……しかし、狩野派の継続というのは、単純に芸術の話だけでは済まなかったと。
折しも、大阪の陣の頃。
狩野家は、徳川家からも、豊臣家からも、朝廷からも仕事を受けていたので、事態がどう転んでもいいように、血縁者や弟子筋をそれぞれに仕えさせたのだそうで。
まあ本命はやっぱり徳川だったようで、狩野探幽は十一歳で家康に拝謁、十六歳で御用絵師に。
豊臣を担当させられたのは弟子筋で、後々「京狩野」になったとか……分派みたいなものかしら? 将軍家御用達の狩野派はもちろん、江戸で活躍したんだろうけど、京狩野というのならそれこそ、京焼などの京都の工芸に影響を与えていたかもしれない。
このへんもちょっと、これから日本画や工芸を見る時に、意識しておきたいなあ。

辻氏によると、狩野探幽は、大きく余白を取るのが特徴なのだそうだ。なるほど、二条城の襖絵とか、その前に将軍様が座るので、将軍様を引き立てるための背景に徹してる感じ。
永徳の作を「行書」的というなら、探幽の作は「草書」的。
家具であることを自覚してる障壁画、なのかな?

もちろん注文次第なので、しっかり描き込んだ「行書的」「楷書的」な作も相応にある。行書的な作は、なるほど永徳や土佐絵の風を残した、桃山回帰的なもので、楷書的な作は、それこそ漢画ややまと絵に回帰している感じ。
そりゃそうだ。将軍家御用達だもん、万に一つも間違いは許されない。堅実な画風に拠るのは仕方がない。
でもそれが、単なる懐古に留まらず、狩野派の集大成になっている……と、言えるのかなあ?
まだそのあたり、明言できるほど、自分の目は肥えていないのです。

不易流行。

狩野派編の最後、辻氏が特に、これだけは言っておきたいと語ったのは、狩野探幽の写生画について。
いくつか図版が載っていたけれど、確かにすごい……型による絵ではなく、本当に現物を見て描写する力量、とんでもない。
型に従う描法によって、日本画の主流となった狩野派だけど、最後に行きついたのは写実だった?

実際に、将軍様やお寺に納める品に、どれだけ反映されていたか分からないけれど……探幽は何を求めて、写生をしていたのだろう? 伝統を守るだけではなく、さらなる革新を求めていたんだろうか?

八月四日追記。後編書きました。

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