辻惟雄『最後に、絵を語る。』(後)
引続き、後編でございます。
『応挙と芦雪』江戸文化の二面性。
応挙の「空間」
円山応挙は、日本美術における「巨匠」と言っていい存在ですね。室町時代に後の狩野派繁栄の基礎を作った狩野元信と並び得る人物です。元信と応挙は、それ以前の画法や様式を統合して新しい「型」を確立し、それを後世に継承させたという点で共通します。
……で、狩野元信と円山応挙、どちらも「型」を作った巨匠ではあったけど、何が違っていたのか?
本書の中でも色々と触れられているけれど、自分がなるほど、と思ったのは、写生の時代になっていたというお話。
円山応挙は、伊藤若冲の十七歳下。若冲が『動植綵図』を描いていた時、応挙は京都の玩具商「尾張屋」で、「めがね絵」というのを作っていたそうで。
小さな穴からのぞき見る事で、立体的な風景に見えるというカラクリだ。日本画では珍しい、遠近法がバッチリ使われている。
この章、応挙の作品としてドン! と見開きで紹介されているのは、『松に孔雀図襖』がしつらえられた、大乗寺・孔雀の間。
この大乗寺のパノラマビューで分かるかなあ。本書の写真では斜めに、東面と北面の角に向いた画像が載っていた。ちょうどその奥まった角に松の幹があって、北へ、東へ、枝が伸びている。この部屋そのものが、その広がった松の枝の下にあるようだ。こんな空間の演出は、やはり現実の風景を、その空間ごと写生した経験から来ているのではないか。
応挙は、狩野派も学んでいる。当然、狩野探幽の大きく余白を取る描き方も知っていた。この、画の中の空白を、その画面内の構成の手段と留める事なく、その画が置かれた空間の演出にまでつなげている。
確かにその通り! アーティゾン美術館『空間と作品』展で見た、円山応挙の『竹に狗子波に鴨図襖』がまさに、それを伝える展示をされていた!
応挙の「質感」
みんな大好き応挙のわんこ。上のリンクは、この本に載っている絵ではないけれど、探した中ではいちばん可愛かったので選びました。
ただ可愛いというだけじゃなく、このモフモフ感は、まさに日本美術の革命だったんじゃないだろうか。質感を描写するだけじゃなく、描写された質感がその作品の魅力、なんていうのは、過去のやまと絵には無かったのだ。
毛の色の濃い所と薄い所の境界線が、次第に消えるごく細い線の集合で描かれている。輪郭はあいまいになるように、影とやっと区別できるていどの、薄い墨を使っている。そんな筆の技法だけじゃない。脚が太くて足先がモチモチしてるとか、シッポがクルクルしてるとか、耳がペチャとなってるとか。そういう細部の描写が、モフモフしてそうだなあ、と連想させる。こんなの、よほど観察しないと描けない。
この観察は、単に質感を再現するだけでなく、質感の描写が観る者にどんな心象を与えるか、という所まで至っているのだろう。
応挙が、見えないものを描く。
写生にも限界はある。例えば海の波なんて、激しく形が変わり続けるもの、どう写生するのか。
『波濤図』は、1788年の作品。この後、五十年を待たずして葛飾北斎により『神奈川沖浪裏』が描かれる。そこに繋がる視線が、ここにあるように思う。
この本の中でも挙げられているけれど、この『龍門鯉魚図』、鯉の滝登りの絵なんだけど、滝が直線で、鯉がチラ見えするだけという、とんでもない描き方をしている。千住博の『ウォーターフォール』を、何年先取りしているんでしょうか?
応挙を見ていると、なんだかメチャクチャ怖くなる。
写真の登場によって印象派が起こり、写実を離れて後期印象派になっていき、そこからキュビズムに進み、現代の美術に繋がっていく……
という、美術の変遷の常識が、まるっと否定されていく気がするのだ。
だって、写真とかまだ影も形もないのに……だったら、印象派なんて起こる理由がないのに、応挙ったら、こんなの描くんですよ?
この本で紹介されている『四季の月図』なんて、もっとモネモネしている。いや、本当にモネモネしているかどうかは、実際に見ないと明言はできないけど。なんだか、最近の円山応挙の展覧会では、必須メンバーになっているらしい……収蔵先は、白鶴美術館。場所は……神戸? 兵庫県? 遠いなあ。いつか観にいけるかなあ……
長沢芦雪の虎と龍。
やっぱり代表作というとコレなのかな。この長沢芦雪『虎図襖』は、この本でも紹介されているし、山下裕二『未来の国宝・MY国宝』の表紙にもなっている。
ただ、写真で見ると虎のプロポーション、ちょっと変かな? 頭の上に盛り上がっているのは、肩の肉なのかな? すごいモリモリしてる。胴はギューンと伸びて、ブットいまんま、後ろ足になってる。そうだよなあ、四足獣の太腿って、スゲェ太いんだよなあ……その力強さを、ガッシリ受け止める足の、またデッカいこと! 前足もデカい。顔ぐらいデカい。これ、遠近法なのかな? あちこち、デフォルメされているというか、もう体の構造がどうなっているのか、分からなくなりかけている。キュビズムかよ、というくらい。シッポこんなに長かったっけ?
対面は『龍図』だ。こっちも大概だ。頭と片腕しか見えない。表面に稲妻を這わせた黒雲の渦から突き出している。どうつながっているのか分からない……きっとこの龍もメチャクチャデカくて、黒雲の中でグルグル渦になっているんだろう。
どちらも、かなり漫画チックで、迫力最優先、って感じだ。
動物大好き! 長沢芦雪。
龍とか虎とか、実物を見ていないから、こんなデフォルメされた絵になるのかというと、そうではなくて。雀とかお猿とか、実際に観察して描ける動物も、もちろんデッサンとか写実性もすごいんだけど、そこにタップリと芦雪が感じたイメージが盛り込まれている。
こちらの絵は、この本では取り上げられていないんだけど、実際に見て描ける黒牛・子犬・烏と、現物見てないだろう白象が、まったく違和感なく並んでるのはまさに、芦雪が目で見たものと、心で感じたものが繋がっているからに他ならないのだと思う。
特にこの黒牛にもたれてだらけている犬とか。
芦雪の犬は、応挙の犬よりも個性や性格が出ていますね……それが、自分のような素人目でもすぐわかる、応挙と芦雪の違いではないでしょうか。
まあ、そんな話はこの本ではされていませんが。
長沢芦雪はもう、後期印象派も通り過ぎてる?
先の、円山応挙のラスト近くに挙げられていた『四季の月図』に対応するように、長沢芦雪もこの章の最後になって、こんな『月夜山水図』を出してくる。
墨の濃淡のエリアの組み合わせだけで構成された画面。
細部も距離感も消え果てて、耳が痛くなるような静謐な山の上に、際の角のように独り立つ松。月は澄み切って、松の陰を鏡のように映している。
技法としては、横山大観や菱田春草の朦朧体も、この流れを汲んでいるのかな? 応挙は印象派みたいになってたけど、芦雪はさらに振り切って、表現主義とか抽象画に片足突っ込んでるんじゃないかなあコレ。
これ、師である応挙を超えたとか、そんな単純な話じゃないよねえ……
『私の好きな絵』美術史とは?
『かるかや』
これは弟子筋の山下裕二氏の著『未来の国宝・MY国宝』でも取り上げられていた。
十六世紀の誰かが描いた絵本。今でいえば、アウトサイダーアートに属するだろうか。デッサンがどうとか、筆の使い方がこうだとか、そんな話のはるか手前、子供が描いたような「ほとけさまのおはなし」だ。
どんな絵が良い絵なのか、色々と基準はあるだろうけれど、この絵が良い絵だってことは間違いない。
なぜと聞かれても困る。言葉にできない。無理くり答えるなら、童話のこんな一節が、その答えになるのかな。
「そんなら、こう言いわたしたらいいでしょう。このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらいとね。ぼくお説教できいたんです。」
でもたぶん、この絵に魅力を感じるということは、きっと大切なことで、この作品から感じる自由さや楽しさは、十七世紀の俵屋宗達にも、間違いなく存在する。それは、狩野探幽、応挙・芦雪を通って、やがて国芳に至り、今でも続いているし、これからもなくなることはない。
東山魁夷。
『残照』『道』『京洛四季』など、現代の代表的な日本画家。あんまり代表的過ぎて、分かった気になっていたけれど、実は何にも分かっていなかったのでした。
東山魁夷の、フワーっとした色彩で画面を包んでいく様子、輪郭のない、空気や光がそのまま写し取ったような描写、これって応挙や芦雪が最終的に到達していた、印象派とも朦朧体ともつかない、あの感じじゃないか。
この本を読むまでは、ああ湿度の高い日本の空気だとこうなるよね、程度の認識でした。
今回、この本を読んだことで、技法だけではなく、感性や視点が受け継がれ、改革されてきた歴史を感じ取ることができました。それこそ十五世紀、平安・桃山の昔から、風景をどう見るか、それをどう表現するかという挑戦は綿々と受け継がれてきていた、ということ。
その、ひとつながりの流れが、二十世紀最後に生んだのが、東山魁夷なのでした。美術史は過去のものではなく、今もまさに紡がれ続けている。
『師弟対談』これからの過去の話。
最後はこの本の、あるいはこの本と対になる過去の名著『奇想の系譜』の著者である辻恒雄氏と、その弟子の山下裕二氏の対談で締められる。
本の本体は「日本美術の歴史」だけど、ここの対談は「日本美術の歴史」の歴史、といったところかしら。この本で取り上げた作品や作家のいくつかについて、どうしてこういう評価になったのかといういきさつが、簡単ながら語られる。
何が面白いと言って、山下氏、辻氏の言うことを聞かない。
「あの作品、先生はこう言っていましたが、違うと思いますよ?」
とか、
「あれ、やっぱり違ってたじゃないですか。私の方が正しかったですよ」
とか。
まあ、こんな言い方はしていませんが。
でもそんな風に否定されて、辻先生が妙に楽しそうなのが、また素敵な師弟関係ですね。弟子が自分を超えるのが嬉しくてたまらないのかな。
新しいことは、未来にしかないわけじゃない。過去も更新されて、どんどん新しくなっていく。美術なんて、その最たるものなのでしょう。人の感性が新しくなれば、過去から伝えられたものの意味も変わってくる。
……ということで、山下裕二氏は今年『未来の国宝・MY国宝』に関連した展覧会を企画したとのこと。過去の日本の美術の価値や意味を見直していくことが、氏のライフワークというか、辻氏から引き継いだ、美術史の研究の神髄なのでしょうね。
行きたい展覧会がまた増えた!
今月いっぱいで終わりじゃん! 行けるかなあ……
