『シェルター』 第3話
前回までのあらすじ → 『シェルター』第1話 『シェルター』第2話
「ピアスは開いた。関係は閉じた。ユウの孤立は深まっていった」
二月の最後の日、学校は午前授業だった。自転車を走らせ、家に急いだ。母は仕事だし、早く帰れば一人の時間を得ることができると思った。まるで、やけになって何かに当り散らすときみたいに、全力でペダルを踏みつけた。坂を自転車で上がりきると、MARSが開いていた。昼間の客は少なそうだった。エントランスを抜けて郵便受けを見て振り返ると、バレンタインのポスターがまだ貼ってあった。もうキャンペーンはとっくに過ぎたのに。いい加減な店なのかもしれない。
十一階に上がって、うちにたどり着いた。バッグを放ってリビングでテレビをつけ、ソファーに寝転んだ。疲れていた。番組をぐるぐる入れ替えていたら、ローカルの地域紹介番組で、MARSが映った。すごい偶然。一瞬、目の前の光景が理解できなかった。
いつも見かける、穏やかな印象の男性店主が、にこにことインタビューに答えていた。この男性の奥さんが、若い頃海外でケーキの修行をした本格的なパティシエで、彼女の作るケーキがいま話題になっているようだった。お店は夫婦二人で経営している。
ふと、ここに行くのなら、今日がチャンスかもしれない、と思った。私は人見知りだし、店内でこの男性と私だけだったら気まずくなりはしないか、不安に思った。でも、画面上の朗らかそうな笑顔を見るかぎり、何だか人の良さそうな、落ち着いた印象を受けた。大丈夫だろう。そのまま制服で家を出た。
エレベーターを降りてエントランスを出てすぐ左の、MARSのドアをあけた。妙に勢いがあって、自分でも可笑しいくらいだった。
「いらっしゃいませ」
黒い髪の短髪の男性店主は、年齢不詳の無精ヒゲの生えた少年のような人だった。目元が鋭く、口角を上げて笑顔を作ってこちらを見ていた。ヒゲのせいだろうか、一瞬、さっきのテレビの人と同一と思えなかった。テレビで聞いたときより、だいぶ低い声だったし、何より目が笑っていなかった。
「お持ち帰りですか」
「え」
「あ、高校生は買って帰るお客さんが多いんですよ、ケーキ。違うのかな」
「えっと…」
「どうぞお好きなところに荷物置いて」
店内をまじまじと眺めた。L字型の店内は、外から見たよりも広く感じた。きれいな艶のある木製の丸テーブルが4つと、それぞれに椅子が2つずつ。アンティーク調の雰囲気のあるものだ。立派な掛け時計がL字の奥のスペースにかかっていた。入り口正面のショーケースの中には、チョコレートケーキがホールで2つ、バーカウンターの上に飾り気のない茶色の紙のメニューが見えた。私は、一番近くの椅子に学校のバッグを置いた。
「チョコレートケーキが有名なんですよね」
「うん、おかげさまでね」
彼は嬉しそうに眉を上げて答えた。
「じゃあ、それをください。」
彼は口元で笑ってうなずいた。思ったよりも、生身の人間かもしれない、と感じた。どこか浮世離れしたような第一印象だったけれど、大丈夫。この人は普通に生きていて、今、ケーキを褒められて喜んでいる。
スマホを見ながら待つことにした。特に見るべきものは、私が「D」になって以降、何もなかったのだけれど、要は時間を潰す時の所作だった。ラインの画面をぼーっと眺めながら、「高校生が一人ってめずらしいですか」、という質問から会話を始めるぞ、と作戦をたてた。
「どうぞ」
チョコレートケーキの皿と、紅茶が載った木製のトレーが私の前にやってきた。彼はそれを置いたら、すぐにバーの向こうに引っ込んでいった。早かった。そして、レジの横のパソコンとにらめっこを始めた。話しかける隙はまったくなかった。
たぶん、五分くらい無言のまま時間が過ぎた。しびれを切らしてスマホから目を離してちらっと彼を見ると、目が合った。そして、すぐにそらされた。パソコンで何してるんだろう? 私はすぐに、彼が気まずさを隠すためにパソコンを開いているという仮説をたてた。
おどおどしている? もしかして、この人はめちゃくちゃコミュ力の低い、ダメな大人なんじゃないだろうか。会話しようなんていう気はさらさらないのだろうか? 話すことなんて、いくらでもあるだろうに。いや、そうじゃないんだろうな。高校生の女子と何を話していいのかわからないんだろう。それにしても、自分の店で、緊張を破る役目を高一女子にさせるなんて、どうかしている。
テレビで見たときに感じた落ち着いた大人の包容力のようなものは、今の彼からは感じなかった。ユーチューブか何かに夢中になっているムカつく子ども、を装った、ちょっとかっこいいおじさん。
「高校生が一人で来るなんて、めずらしいですか」
「あー、そうだね。あんまりないけど、歓迎するよ」
歓迎? どの口が言ってる? 全然できてないよ。
「ケーキ、やっぱり美味しいですね」
「ありがとう、奥さんが作るんだよ」
「実はさっきテレビで見て、近くだったから来ちゃいました。奥さんのことも、テレビで言ってました」
「へー、そうなんだ。何か恥ずかしいね」
会話が広がらない。何だ、この大人は。
「テスト近いの」
「え」
何を言ってる? ボールを投げたら、グローブを投げ返してくる男。少しイラついた。
「あ、いや、カフェに入るなんて、勉強でもしに来たのかな、って。その制服、進学校でしょう」
とことん、「はずす人」だ。初めてきた客に対して正答率の低い推測から会話を始めるなんて、私だったら絶対にしない。しかも、はずしたことで、自ら焦り始めていることを隠せていない。笑顔が引きつっている。
確信した。間違いない。あのポスターを作ったのは、この男だ。目力に騙されそうになったけれど、要はただの「はずす人」だ。そう思ったら、急に肩の力が抜けた。目の前のヒゲの男は、さっきまで私がイメージしていた厭世のバリスタみたいな、特別な人じゃない。何でも思ったことを言ってみよう。
「勉強なんてしないですよ。ケーキが気になってたんです、前から。あのポスター、お兄さんが作ったんですか」
「ああ、バレンタインフェアーの? そうだよ」
「フェアー、とっくに時期が過ぎてませんか」
「あ、そうだっけ。ありがと、はがしとくよ」
恥ずかしそうに頭をかいている。
「有名なお店なのに、お客さん、昼は全然いないんですね」
少し、攻撃してみた。相手と距離を詰めるための、小さな攻撃。上手にできる子たちは多いけど、私にとっては大きな冒険だ。念の為「おじさん」を回避したが、その結果、誰か実在する男性に対して「お兄さん」なんて呼びかけたのも初めてだ。よし、この調子で馴れ馴れしさ、軽さを演じてみよう。
「そうだねえ、まあこんなもんかなあ」
「人気あるってみんな言ってるし、もっと混んでるかと思ってました」
「昼はいつもこんな感じだね」
「昼はって、じゃあ朝とかだったら混んでるんですか」
「いや、最近はケーキのデリバリー始めて、そういうのが多いよ。それか割とみんなお土産とか、テイクアウトがメインでね」
なるほど、それは意外な答えだった。店内で長時間過ごすような客は少ないのかもしれない。
「ピアス、最近なんだ」
「え」
不意をつかれて、作戦は、すべて忘れてしまった。当てたくせに、相手の方が驚いていた。
「ごめん、違ったかな。赤いから、そうかなって、耳たぶ」
「あ、いえ、そうなんです、当たり……二週間くらい前、だったかな……」
「そうなんだ、やっぱりね。いいね、楽しいでしょ。どんなピアスしようかな、とか考えるの。安いのいっぱい買ったりするよね。似合うのにたどり着くまでに、けっこう道のりあるからね」
当てたことが、よっぽどうれしかったのか、急に喋り始めた。ずるい。こちらの思考は完全にストップだ。
「顔が小さいから、小さめがいいかもだよ。あと、若いから光るのとか派手なのが好きかもしんないけど、その制服って、でも難しいよね、ちょっとシックだもんね。あ、こんなんどう」
そう言って自分の耳を指して見せた。品のいい、小さめの青い石が左耳の下にあった。そして似合うだろって顔で笑いかけてきた。声が高くなったようにも感じた。目元は相変わらずだけれど、口角がいっぱい上がった。これがこの人のニュートラルな笑顔なのだと、納得した。何より、たくさん言葉をもらえて、安心した。
「そうですね、まだ、透ピだから……あんまり外せないけど……どんなのにしようかな……ごめんなさい」
「うえっ、ええっ、だだいじょうぶ」
不本意だったけれど、涙が溢れてきた。涙はサラサラと流れた。自分の意思とまるで無関係に流れてきて、止まらなかった。嗚咽を伴う濁流ではなくて、自然な清流のようだった。そんな泣き方って、今までなかった。イラつきから安堵まで、こんなに一気に進んだこともなかった。
誰も、私がどんなピアスをするのか、一緒に考えてくれる人はいなかった。似合うとも似合わないとも言われなかった。似合わないって、はっきり言われた方が断然良かった。今の今まで、ピアスは私を不幸にした元凶だった。
「大丈夫かい、ハンカチあるからあげるよ。よくもらうんだ、届け先に。使ってないから綺麗なやつだよ」
さっき妙な声を上げたくせに、彼は「動じない大人」を演じることに決めたようだった。カウンターの引き出しをガチャガチャ揺らして開け、几帳面にたたまれたハンカチを数枚落として、膝からかがみこんで拾った。拾ったやつを私に渡そうとして、あわててすぐ新しいのに取り替えた。もらったハンカチには、何とかシルバーセンターと刺繍してあった。その直後、私にお茶を淹れようとしてくれて、カップを落として割った。気の毒なくらい動揺している。悪いことをした。
それから、私は、最近私に起こったことを、ほとんど全部話した。彼は四十歳で、エイジさんという名前だった。エイジさんは、いったん打ち解けるとおもしろい人で、ユーモアがあった。ピアスにまつわる自分の体験の話などを、いろいろ聞かせてくれた。彼も高校のときに開けたらしい。
「エイジさんは何でピアス開けたんですか。私は、自分が開けた理由がいまだにわからないんです。憧れはあったけど……何であの日だったのかもわからない」
「あとでわかるんだよ。そういうときは、だいたい」
自信を持って、抽象的な答えを即座に言えるこの人が急に頼もしく、羨ましく思えた。
「そっか、それでいいんだ」
「多分ね。あとでわかるよ」
彼は繰り返した。それならやっぱり聞いてみたい。
「エイジさんは、後でわかったんですか。エイジさんがピアスあけた理由、聞きたいな」
「そうだね、殻を内側から破壊するんだよ、生まれてくる鳥は」
全然意味がわからなかったので、聞き返したかったけれど、そこで突然、電話が鳴った。店名MARSを告げた次の瞬間、エイジさんは謝りはじめた。何らかの失敗をした相手に違いなかった。スマホを持ったままペコペコ平謝りしているのを見続けるのもどうかと思ったので、会釈してバッグを持った。エイジさんはペコペコしながらウィンクして、片手で「ゴメンね」を作り、謝罪の合間に、「またおいで」と口を大げさにパクパク動かした。
帰るときには、雨が降っていた。それが話題にならなかったのが不思議なくらい、強く降っていた。カウンターに立っていたエイジさんは、ウィンドウ越しに天気の変化に気づいていただろう。私の話をさえぎらないようにしてくれたのかもしれない。
そういえば、最近、天気で一喜一憂したようなことはなかったし、それ以前に天気予報を見てすらいなかった。天気なんて、どうでもいいと思っていた。エレベーターに乗った。胸につかえていた黒くて重い塊が、雨といっしょに流れていった。そんな気分だった。昼過ぎにソファーに倒れ込んでテレビつけたときの私には、予想だにしなかった変化だった。
(第4話につづきます。来週末更新予定。)
第3話、ちょっと長かったと思いますが、読んでくださりありがとうございました。
ご感想など、そっと置いていただけたら嬉しいです。
