【観光パンフレットには載らない】豊橋 西駅 バラック「わんぱく通り商店街」なんだか匂うぞ、妖しい建物「飽海遺跡と倭姫伝承の地へ」⑤ -豊橋に眠る古代と神話の交差点・【番外編】
④の続き、番外編です。
前回までのnoteはこちら↓
「飽海遺跡と倭姫伝承の地へ」①
「飽海遺跡と倭姫伝承の地へ」②
「飽海遺跡と倭姫伝承の地へ」③
「飽海遺跡と倭姫伝承の地へ」④
豊橋駅「西口」へ

安久美神戸神明社から歩いて、豊橋駅に戻ってきました。
豊橋駅の新幹線側、「西駅」側へ。
線路沿いの右手の道を行くと、「わんぱく通り商店街」なるものがあります。
「商店街」というのは名だけで、よくある「商店街」とはなんだか様子が違います。

駅前すぐの雰囲気とは思えない、独特な雰囲気の飲食街が立ち並んでいます。
屋根はトタン張り。ここは以前、バラック小屋が建ち並び、もっと怪しげだったそうです。
大学を卒業して英語の先生をしていた頃、
この通りにあるタコス屋さんに同僚たちと行っていました。
懐かしかったです。
長屋状にバラック飲み屋が並んでいる光景は、
ここに闇市があったのか?と想像させられます。
ちなみに「わんぱく通り」は、ここの通りが 189番地にあることから、
1=わん、8=ぱ、9=く と文字ったそうです。笑
豊橋の闇市
昭和二十年(一九四五)八月十五日の終戦を告げる玉音放送で戦後は始まった。
空襲の焼け跡の中で人々は敗戦の衝撃に打ちひしがれ、飢えと失望からの出発であった。(中略)
昭和二十年十月ごろから、駅前通りにバラックやヨシズ張の仮店舗(かりてんぽ)、露天(ろてん)市場などを中心とした闇市が出現した。
いもあめ・みかん・たばこ・包丁など生活物資が売買されていた。
ここでの闇価格は、十七年に制定された統制価格と比べると異常な高騰ぶりであった。
とくに、砂糖は五〇〇倍に跳ね上がり、
銀シャリとして重宝された米は一二〇倍に、
石けんは一〇〇倍の値段で取り引きされていた。
それでも人々は生きぬくために駅前闇市へと足を向けた。
ここでいう「闇市」は、豊橋の「水上ビル」のことでしょうか。

用水路の上に建つ「水上ビル」
愛知・豊橋市でしか見られない珍しい暗渠道とは
戦後間もない頃、空襲で被害を受けた豊橋では、駅前の一等地で闇市が開かれていました。しかし、徐々に街が復興するとともに何度も立ち退きを命じられる状況に。そこで目をつけたのが、「牟呂用水」のスペース。
豊橋市の河川に関する条例(昭和44年)が施行される前の昭和39年、水上に「大豊(だいほう)ビル」が建設されました。
内部は1階が店舗、その上は住居という縦割りの長屋形式で、当初はビルを一周すればなんでも揃う“横のデパート”として重宝されたと言われています。
(中略)
その後、「豊橋ビル」と「大手ビル」も完成。
「大豊ビル」を含めたビル群は総称して「水上ビル」と呼ばれ、
全国的にも珍しい暗渠が誕生しました。
調べる中で、当時の貴重な写真を見ることができました。

暗渠マニアには堪らないものなのかも。
リンクから、詳しい内容も読めますよ。
なんだか匂う、妖しい建物
バラックが立ち並ぶ「わんぱく通り」を進むと、見えてきました。
ふじよし旅館

橋をくぐると、とあるスジでは有名な(?)妓楼風の建物が現れました。

空襲で焼け野原となった豊橋。
闇市を営む露天商の資格には何の制限もないため、警察に届けをすれば誰でも出来たそう。
ここは、戦後に「ふじよし旅館」という名前で営まれていたのだそうです。
廃墟となり、どれくらい経ったのでしょうか。
やりたい放題な落書きが痛ましいです。

入り口には、表記はありませんが、赤線か青線だったという説が濃厚です。
鈴女

「ふじよし旅館」跡のすぐ側にある「鈴女」です。
スズメ、で読み方は合っていそうです。
「二十才未満の方はお客さんとしての入場をお断りします」の札が前はあったようです。

本物の鑑札を見たのはこれが初めてでした…。
まさか地元で見ることになるとは思ってもみなかったです。
この鑑札が置かれるようになった流れをまとめておきます。
遊廓制度の変遷
1945年12月:進駐軍が登楼禁止令を出し、客足が激減。
1946年2月:公娼制度が廃止され、売春が公に禁止される。
1946年9月:「接待所慰安所等の転換措置に関する件」により、貸座敷は特殊飲食店に変更。「娼妓」は「芸妓」と改称。
1947年4月:特殊飲食店は「特殊カフェー」となり、「芸妓」は「給仕婦」と呼ばれるようになる
政府に許可を得て、特殊飲食店(カフェー)を名乗り、店先にこのような「鑑札」をつけて商売をしていた、というわけですね。
赤線と青線について、簡単におさらい
赤線(あかせん)/赤線地帯:特殊飲食店の認可を受けた店
GHQによる公娼廃止指令(1946年)から、売春防止法の施行(1958年)までの間に、半ば公認で売春が行われていた日本の地域である。
青線(あおせん)/青線地帯:無許可で風俗営業を行う店
1946年1月のGHQによる公娼廃止指令から、1957年4月の売春防止法の一部施行(1958年4月に罰則適用の取締りによる全面実施)までの間に、非合法で売春が行われていた地域である。

秘密の部屋の営業しているかしていないかの目印、
それは入り口の引き戸の状態でわかるのだそうです。
ドアが少し開いていたら、「営業中」なわけですね。
ここに関しては、たまたまほんの少し開いちゃっていただけだと思いますが。笑
現代の建物の中で一線を画す、古い建物の独特の空気感、
ここで営業していたことなどに思いを馳せると、
なんとも言えない思いが湧いてきました。

インターネットで見ていた「鈴女」より随分ときれいになっているような気がしました。公明党のポスターもあったので、人の出入りがあることは間違いなさそうです。営業はしていないと思いますが、敷地の裏側には生活のにおいがあり、人の気配を感じたような気がします。
「吉田通れば2階から招く、しかも鹿の子の振袖が」
吉田宿は赤坂・御油宿とともに*飯盛女が多かったことでも知られているそうで、「吉田通れば二階から招くしかも鹿の子の振袖が」と云う唄が昔から唄われていると、今回初めて知りました。
飯盛女(めしもりおんな)または飯売女(めしうりおんな)は、近世(主に江戸時代を中心とする)日本の宿場に存在した私娼である。宿場女郎(しゅくばじょろう)ともいう。

その名残が受け継がれているのが、札木、吾妻、東田園、小池遊郭などだそう。
今回は、駅前のこの一角だけを見ましたが、小池遊郭(有楽荘)、東田園の記事も近々あげようと思っています!
最近読んでいる本の中に、東田遊郭のことも出てきて、自分的には今、ホットな話題です。榎本健一が、東田遊郭で「抱きっきり」に感動してちょいちょい豊橋に来ていたらしい、とのこと。。笑

名前くらいしか存じていないのですが、、。
東京と関西の遊郭には、『回し』と『抱きっきり』という違いがあったそうです。東京では『回し』が一般的で、一方、大阪では『抱きっきり』が常識とされていました。
『海道も浜松までは江戸のうち』という川柳があるように、浜松を境に文化が変わると言われており、その流れの中で、浜松の少し先にある豊橋にも言及がありました。豊橋の遊郭は、東京流と大阪流が混ざり合った世界だったようです。
エノケンさんは、『抱きっきり』に当たったということですね。
吉田の女郎
往時の吉田宿はとても華やかな宿場であったらしい.
「吉田通れば二階から招く しかも鹿の子の振り袖が( 俗謡) 」
「御油や赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い( 俗謡) 」
といった客引きの様子を 伝える俗謡が良く紹介されている.
当時の人口比で見ると女性の数が少し多い.
こうした宿場女郎の多くは, 伊勢から来たという.
一般の女性は東三河の言葉を話すのに,宿場女郎たちだけは伊勢のなまりで話すと 馬琴が記録している.
彼は吉田の女性について相当悪意に満ちた書き方をしている.
「よし田のめし盛、夏は越後ちぢみにおなじ縞の前垂れをかけ、手に団扇をもちて 夜行す。よし田、岡崎とも、妓はことごとく伊勢より来るものなり。ゆえに妓ばかり 伊勢訛りなり。妓席上にて三弦を鳴すに、かむろだちなどうたふことあり。絶倒するに 堪たり。今切のわたしを経て西は、人物その外江戸にあらず。中国の風姿ここに於て 見るべし。土地の婦人はかならずしも美ならず。商家の衒妻などを見れば、暗黒天女の 如し」〔漫録〕
(注)かむろだちは上級の遊女に仕えてその見習いをする期間のこと.
(〃)衒妻は他人の奥さんを悪く言う時に用いる言葉.
鹿の子の振り袖は,お姉さんたちの若作りファッションだったといえる.
良い年の ばばあ芸者が,ど派手な着物に身を包み,かむろだちなんて少女の謡曲をやるから, 気持ち悪くて気絶しそうだと悪口を言うのだ.
ついでに商家の奥さんまでこっぴどく 非難している.
当時の伊勢には古市など一大歓楽街があって,旅の後に散財させるシステムが完成していた.
伊勢踊り,伊勢音頭は,歓楽街から誕生し,全国に広まって行った.
吉田の二階で働くおばさんたちも,若いうちはこうした盛り場で働かされていたのだろう.多くのケースはお伊勢参りに来た巡礼の若い娘がかどわかされて売り飛ばされたものだと言う.そんな悲劇の断片がいくつか伝えられている.
そこで,年齢を重ねる うちにやがてリストラされ,食いはぐれた女性が地方へと流れて来たのだろうか.
いづれ人には語れない悲しい過去を背負った女性たちの溜まり場であったのだろう.
曲亭馬琴の記録が痛烈で笑ってしまいました。
若作りのおばさん衆が、振り袖を振っているとは思っていなかったのですが、豊橋の生まれとしては、なんかこっちの方が豊橋っぽくて、妙に納得してしまいました。なんというか、色っぽく、艶っぽく、上品に・・・っていう柄じゃない土地な気がしてまして・・・笑
天下の名古屋様とも違う、三河のガラッパチ感、、。
あゝ悲しくなってきましたので、これ以上はやめておきましょう。
あとがき
「歴史は勝者によって書かれる」
——これは、かつてイギリスの首相を務めたチャーチルの言葉とされています。
いわゆる「勝てば官軍」というように、歴史はしばしば勝者の視点から語られ、自らを正当化する物語として形作られてきました。
何気なく日々を過ごしていても、その土地にいれば、「きれいな場所」や「キラキラした新しさ」は簡単に目に入るでしょう。
しかし歴史に目を向けると、観光マップには載らないような事柄…..ドブ川に捨てられた人々の無垢な思いや、名もなき人々が生きた生活の襞….が、どの地域にも確かに存在していることがわかります。
私は、親や先祖が見てきた風景、感じてきた痛みや喜びを、飾られた側面だけでなく、その裏側まで知りたい。できる限りの「リアル」に触れたい、そう思っています。嫌になって、うんざりすることもあるのですが、触れざるを得ない、見ざるを得ない、という状況に追い込まれたりもします。
「人間なんて汚いものだよ」と、かつて私に語ってくれたご年配の方がいました。確かに、人の数だけ欲望があり、汚れや澱みが生まれる。
それが人間という存在の一面なのかもしれません。
今回の倶楽部活動を通して、私は自分が生まれ育った「豊橋」という街の、誇らしい部分も、美しい部分も、そしてその裏側も、しっかりと体感することができたと思います。
当初は1つの記事にまとめようと思っていたのですが、想像以上に内容が膨らんでしまい、結局5本も書くことになりました。
地元のことを深く知るなんて、小学生の総合学習以来かもしれません。
でも今、こうして知ることにこそ意味があるような気がしています。
なんとなくですが、いつか地元を巡って「いつ自分が死んでもいいように、記録として残しておきたい」という気持ちがありました。
勝手な願いですが、姪や甥がいつか読んでくれたら嬉しい。もっと言えば、私の子どもや子孫が「お母さん、こんなことしてたんだ。黒歴史乙www」なんて笑ってくれたら、それもまた本望です。
祖父母にもう何も聞けなくなってしまった今、自分のルーツについてもっと尋ねておけばよかったと、悔しい気持ちがあります。
ここまで読んでくださった稀有なあなたにも、ぜひ、ご自身のルーツをたどってみてほしいと思います。そして、家族や兄弟、子孫に語り伝えられるような情報を、少しずつでも集めてみてください。
情報があふれる今の時代だからこそ、「自分の根っこを知ること」は、とても意義深いものになるはずです。
あの、、、そういうことなのでnoteさん!!!!
サービスを少なくともあと100年間くらいは続けてください!
よろしくお願いいたします!!!
ここまで読んでくださりありがとうございました!ではまた。
🌸♨︎🌹
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