②鬱病に気づかなかった訳
①はこちら。
鬱病以外の原因がいくつもあった。
あったというより、あると思っていたという方が正確かもしれない。
まず放射線治療の影響を疑っていた。母は食道付近にまで放射線を当てており、これにより嚥下が難しくなっていたようだった。このために食欲が落ち、栄養不足で体がしんどくなっているのではないかと思われた。
それから母は、鎮痛剤のオキシコンチンを服用していた。服用を継続するうちに調子が悪くなって行ったので、薬の副作用が原因ではないかとも疑っていた。
放射線科の主治医に体調不良を相談したところ、癌や薬の副作用が原因ではなく、しっかり食べられるようになれば改善するでしょうという説明だったので、やはり食べることが回復の早道だと思うようになった。それでも、オキシコンチンを服用するようになってから悪化したという母本人の訴えには真実味があって、オキシコンチンを疑うことがやめられなかった。
訪問看護師さんに相談してみたら、この暑さなら健康な人でもしんどいですよ、ということで夏バテも疑った。
さらに母は、昔、パニック障害を患っていたことがあり、最近当時に似た症状が出始めていたので、パニック障害の再燃ではないかとも考えられた。
極めつけは、母自身が「私にはやりたいことがたくさんある。こんなに意欲があるんだから鬱病のはずがない。」と訴え続けていたことだ。
アドバイスは私たちの頭に入らなかった。
医療関係者の方々からは、精神科の受診を様々な場面で勧めていただいていた。
ただ、誰も「鬱病だ。」と断定したり、はっきりと「鬱病は重症化すると大変だから、早く精神科にかかった方がいい。」とは言わなかった。
例えば訪問看護師さんは、「鬱病」という言葉を使うことはなく、「眠れないのなら、精神科医の診察を受けてみては。」とアドバイスしてくれていた。看護師さんたちは、母が精神科を恐がっていることを知っているために、敢えて間接的な言い方をしてくれていたのだと今なら分かる。当時もその言い方は、確かに知っていた。精神科を怖れる患者に受診する気になってもらうときの定番の言い方だ。それなのに、母に対してその定番のフレーズを投げかけられているときには、母が鬱病患者と見なされていることに気づきもしなかった。
私達親子は、うつ病の深刻さも、精神科受診の重要性も本当には分かっていなかった。父のことで精神病のことや専門家に頼ることの大切さはよく分かっていたはずなのに。アドバイスは、私たちの耳を通り抜けただけだった。
ようやく鬱病だと思い至った。
母の苦しみようがあまりにもひどく、母に付き合う私の体力も限界に来た。ときどき、ふとしたときに、母の奇妙な行動を客観視するようになった。例えば、しんどくてたまらないと言って入院したはずなのに、日記帳、筆記用具、フォークにスプーン、ラップに至るまで持ちきれないほどしっかり準備して病院に持ち込んでいた。備付テレビのイヤホンがないと言って、買いに走らされたりもした。体がしんどくてたまらない人が、こんな些細なことを気にするだろうか。
ある時、急に「うつ病の症状で手足が異常にだるいなんてことがあるんだろうか。」という疑問が沸いた。うつ病になると起き上がれなくなるということは知っていたが、患者の体の内では手足がだるくて動かせないということが起こっていると想像したことはなかった。むしろ、手足がだるいことに気をとられて、鬱病を連想することができなかった。ネットで調べると、手足がだるいのも鬱病の症状のひとつだった。
すぐに訪問看護ステーションに電話をして、「母は、鬱病ではないかと思うのですが。」と相談したら、「その通りだと思いますよ。」と即答されてしまった。訪問看護師さんたちは、とっくに気づいていたとは。あのアドバイスが、鬱病を前提としていたとは。
病気は教科書的な経過をたどらない。
当たり前のことだが、本にもネットにも多くの患者に当てはまる典型例や模範例しか書かれていない。個別の患者の例を書いてもあまり意味がないから。その上、言語に表現されたときに、実際の出来事の細部はそぎ落とされてかなりの程度に抽象化されている。
病気を実際に体験した後で振り返ったときに、あのことを言語化したら、こういう表現に集約されるよな、とようやく書かれた言葉の意味が理解できる。
母も私も読書好きだ。メンタルヘルスに関する書籍も割と読んできた。私たちには知識はあったはずで、もっと早く上手に精神科につながることができたはずだ。それなのに周りのアドバイスさえ耳に入らなかった。自己判断の挙句、最悪の事態に陥ってしまった。
それぞれの患者が辿る個別の経過は、想像をはるかに超えたところにある。そして、それを事前の言葉による知識と重ね合わせることは、思っているほど簡単ではない。
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