①母の気持ちが分からない。
母の気持ちを正しく理解したいと思う。介護が始まり、母の鬱病が重症化してから、より切実にそう感じるようになった。母には少しでも幸せでいてもらいたい。それなのにわたしには母の深い部分がよく分からない。
病識について
癌の状態について、母の病識はどこか変わっていた。
癌が胸膜に転移して、放射線治療の2回目(母の場合は、1回の治療で約30日間連続で照射していた。)ともなると、私の方は、今後はもはや対症療法しかないと覚悟するようになった。しかし、母の方は、2回目のときも、3回目のときも、また放射線治療が必要になったと告げられても、数日で気を取り直し、治療に前向きになっていた。それは、まるで頑張れば癌が全て消えてなくなるとでも思っているかのようだった。
今年6月の4回目の治療では、さすがの母も落ち込んでしまい、再び気力を取り戻すことはなかった。それなのに、いまだに母は、4回目の治療で癌は完治したと思い込んでいたり、もしかしてもう癌はないのかなあ、と言ってみたりしている。放射線科の主治医からは、完治したなどとは言われていないし、治療後のレントゲン画像も見せられているにも関わらず、賢い母にはあるまじき「勘違い」をしている。これが、いわゆる死の受容過程の「否認」というものなのだろうか。
そういえば、母はかなり病状が進行してからも、自宅のリフォームをしたり、家具を買い替えたりしていた。当時は病気と闘う決意からの意識的な行動だと理解していた。それから、いつも何事にも用意周到なくせに、そして何年も闘病しているにもかかわらず、自分の死後はどういう風にしてほしいということをいまだにほとんど語らない。これも、言わなくても分かってもらえる、自分に特にこだわりはない、死後のことを口にすれば子らが悲しむと思ってのことだろうと解釈し、いつかは母の方から話してくれるものと思いこれまで待っていた。しかし、もしかすると母は自分の死を全く想定していないのではないか、あるいは死を直視することができないのではないか、と考える方が腑に落ちるような気もする。
わたしはどうすればいいのか。
わたしは母の勘違いに付き合って、母の聞きたい言葉をかけ続けるべきか。本来の母であれば、「本当のこと」を知りたいはずだ。しかし、鬱病になってしまった今の母は、まるで別人のようになっていて、現実を直視できる強さは持っていないように見える。
わたしは、母の勘違いを正し、残された時間を一緒に建設的に組み立てていきたいと焦っている。あとどれくらい時間があるのかは分からないが、母にはなるべく苦痛を遠ざけて幸せを感じていて欲しいと願っている。
母は、もっともっと生きたいと望んでいる。まだまだ回復できるとの望みを捨てていない。食べないと衰弱すると恐れ、食欲もないのに、無理をして食べたくもないものを懸命に食べている。わたしは、そういう痛々しい姿を見るのがつらい。できれば、そういった辛い行為に時を費やすことをやめて、安楽なことだけをして過ごしてもらいたいと思う。だから、母には早くもうその必要はないのだと気付いてほしい。
しかし、母には母の時間が流れている。その時間の流れを早めようとすることは、そもそも早められると思うことは、手前勝手ではなかろうか。もしかすると、母は魂の奥底で、とっくに自分の行く末をわたしよりもはっきりと自覚しているのかもしれない。母にとって死の恐怖から免れる方法は、現実を見ず、苦しい努力を続けること以外にないのかもしれない。死の恐怖、生への希望への介入は、母の道行きに対する冒涜ではなかろうかとも思われてくる。
わたしは母の傍らにいて、母の選んだ道を伴走しつづける他はないようだ。そして、優しい母のことだから、その娘のことを哀れに思っているのに違いない。
②に続きます↓
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