【歴史小説】寧らかの波 第三章(1)「我らは、境界の者として生きているのだ」
ここまでのあらすじ
16世紀。
異国の血を引く少年・楠葉入鹿は、育ての親ジイを自らの手で殺めてしまい、さらにはジイと旧知の管領・細川高国によって、故郷沼島の人々を人質に取られる。
細川氏のために働くことを強いられた入鹿は、美貌の明国人・宋素卿とともに勘合を奪うため、山口の大内館へ潜入する。
明国の僧・宗設の手引きを受けていたはずが、勘合は偽物だった。そこへ西国の覇王・大内義興その人と、こちらを騙していた宗設が現れる。
宗設は人間離れした姿に変貌し、入鹿と素卿を襲う。ジイから「陰の流」を受け継いでいた入鹿の剣技で何とかこれを退け、脱出するが、素卿は裸になり水堀を渡ることをためらう。素卿は実は、両の乳房を切り落とした女であった。
本編
第三章
一
南の海は、晩秋でも温もりを湛えている。
薄い雲に覆われた日は、それでも大きく、懸命に笑んでいた。
が、波は荒い。
切り立った崖の下の荒岩にぶつかり、高々と砕け散る。白いしぶきが足元まで届いてきた。
入鹿は、それを避けるためにちょっと足を持ち上げた。
「淡路の海とは、まるで違うだろう」
素卿は笑いもせずにつぶやいた。
「ああ。ここと比べれば、あそこはまるで穏やかだった」
「この辺りでは海流が交わり、波を荒らしている。だからこそ、隠れ島としてはうってつけだ」
広袖を持ち上げ、南東の方を指してみせた。
「あれが、小臥蛇島。人は住んでいないが、隠れた船着場がある。狼煙を上げる台もある。北へ行けば、口五島や薩摩。南へ向かえば琉球。西の海の果てには、明国の寧波府がある。我らはここで息を潜め、境界の者として生きているのだ」
「我ら、とは」
「倭寇の生き残りだ」
振り返りもせず、素卿は崖のふちを先々と歩いていった。
岬の突端の平らな石に、一人の男が腰かけていた。薄汚れた手無を着て、豊かな白髪を伸びるがままにしている。
「永春」
と、素卿は声をかけた。
振り向いた相手は、日に焼けた老人だった。赤銅色の皺と白い髭が、顔中を覆い尽くしている。小さな目が宝玉のようにきらきらと輝いていた。
「素卿殿、お帰りなさいませ」
立ち上がって会釈すると、こちらへ顔を向け直してきた。
「この者が」
「うむ。畠山卜山の養子だ」
「では、愛洲移香斎様の孫弟子」
じろじろと眺め回してくるので、やや居心地が悪くなった。
「俺の顔が、そんなに珍しいか」
老人は歯を見せて笑い、かぶりを振った。
「この辺りにおれば、そなたのような顔立ちもままある。まして泉州や広州まで出てゆけば、なおさらじゃ」
ぽんぽん、と皺ばんだ頬を叩いてみせた。
「わしは若いころ、愛洲様と高麗の沿海で暴れ回っておった。そなたがかの兵法を受け継いでいるかと思えば、懐かしくもある」
入鹿は思わず、素卿の方を振り返った。
「おい。この爺さんまで、いきなり凶暴に変わるってことはないだろうな」
相手は薄曇りの空を仰ぎ、甲高く笑い飛ばした。
「安心しろ。永春も元禅僧ではあるが、まともな人間だ。かつて私とともに遣明船で海を渡り、北京順天府まで至ったこともある」
「あんたの人を見る目は、どうにも信用ならん」
「何のことですかな」
老人は節くれ立った指で、白髭をしごいている。
「大内めが、とんでもない化け物を飼っていたのよ。細川から付けられていた平七は、そいつに一撃で叩き殺された」
「なんと」
粒のような両目を見開いてみせたが、言葉とは裏腹に、さして驚いてもいない様子だった。
「ここ吐噶喇の奥七島は、倭と琉球の境目に当たる。どちらにも属するようで、やはりどこにも属していない。平家の落人を称する住人もいるが、多くは倭寇の生き残りの子孫たちだ」
「前にもそれを言っていたな。倭寇とは、一体何だ」
「かつて高麗の海岸や、明国の山東を荒らし回っていた海民のことじゃ」
老人の方が話を引き取った。
「古くは九州で威勢を誇った征西将軍宮、その旗下の武士に率いられた者たちであった。が、遠く熊野からやってきた船乗りも少なくはなかった。愛洲様も熊野のお生まれでの。わしは故郷の近江であのお方と出会い、その武芸に触れ、ともに旅するようになったのじゃ」
「よくわからんが、要は異国を襲っていた海賊だろう」
「まあ、そういうことじゃ」
「もし沼島が、そういう連中に襲われたらと思うとぞっとする。俺はそいつらを、決して許さないだろう」
「それも等し並みには言えんぞ」
素卿は、青い漢服の腕を組み合わせていた。
「壱岐や対馬の者たちは、かつて蒙古の軍勢に加わった高麗兵から、この世のものではない苦しみを味わわされた。その報復のために始まったことだとも言える」
「俺には、昔の話などわからない。ただ自分の受けた痛みだけは、本当に感じられる」
「誰もがおのれの痛みだけは、復讐に値すると考える。そうして恨みの連鎖が続いていくのだ」
入鹿は黙り込んだ。自分にはとても、正しい答えなどわからない。
「倭寇の多くは、高麗軍や足利将軍家によって次第に追いつめられ、行き場を失くしていった。そういう者たちの生き残りが流れ着いたのが、ここ南海の島々よ」
「じゃあ爺さんは、若いころにジイの師匠の愛洲って人と、高麗の岸で海賊をしていた。それから坊主になり、この素卿と明国へ渡ったってことか」
「いかにも」
「腰の落ち着かん人生だ」
相手は皺くちゃの顔をもっと皺め、闊達に大笑してみせた。
「いかにも、そなたの言う通りだ。わしは今まで、一つ所に腰を落ち着けられたことなどない。申し遅れたが、わしの名は佐々木永春。我らの臥蛇島へようこそ、楠葉入鹿」
島の周りは、ほとんどが切り立った断崖絶壁だった。
北東に一ヶ所だけ浜辺があり、数えられるほどの船がつけられていた。その辺りが薄い草原のゆるやかな斜面で、小さな集落になっている。
永春と別れ、素卿と二人でそこまで降りてくると、ばらばらと童たちのしゃがみ込んでいるのが、子馬の放牧されているみたいだった。
冬毛になった鹿が、その間をのそのそと歩き回っている。
石を乗せた陸屋根の小屋が集まっている辺りで、若い男女が何やら話し合っているのが見えてきた。
が、穏やかな様子ではない。
「夫婦になるって約束したじゃろう」
「そんな、すぐには決められん」
「一度口にしたことを、平気で反故にするんか。お前はそんな、ふしだらな女じゃったのか」
どうやら男の方が、一方的に問いつめているらしい。女は、潮風で朽ちかけた板壁にもたれながら顔を背け、何も言葉を継げないでいた。
「孫太郎、何をしている」
素卿に声をかけられると、男はびくりと背筋を震わせた。それからおずおずと気まずそうに振り返った。
目も鼻も細く、薄い眉の下で目尻が垂れている。口まで小作りで、まばらな髭が無精に伸びていた。
「宋さん、帰っていたのか」
「つい先ほどだ。そっちは、安那だな」
厳しい目つきで、互いの顔を見比べている。
「何があった。兄妹のように暮らしてきたお前たちではないか」
「あんたがいない盆の間に、ボゼの祭があった」
男の方が、言い訳の口調で話し始めた。素卿はうなずいたが、入鹿にはむろん何のことかわからない。
「そこでオレのボゼマラを、安那は受け入れてくれたんじゃ。だから夫婦になろうと約束した。安那もそれでいい、と返事してくれた」
「そんなこと、宋様に言わないで」
女は反対に顔を背け、消えてなくなりたいように身をよじらせた。
「なのに今になって、あの時のことはやっぱりなしじゃ、などと話を引っくり返してきよる。こっちは、安那のお父とお母に渡すために鮑も、珊瑚も取りに行ったんじゃぞ」
「だって、あたしはボゼに脅されただけなんじゃもの。あの時はうなずかんと、あとで祟られるじゃろ。でも今のあんたは、もうボゼじゃない。だから最初っから、そんなのなかった話じゃ」
「おい、さっきから、ボゼってのは一体何だ」
入鹿は小声で尋ねたが、素卿はこちらを振り返りもしなかった。
「孫太郎、そういったことは、相手に無理強いできるものではない。今の安那が望んでいないのなら、少しは待ってやるのが思いやりというものだろう」
「男でも女でもないあんたに、こんな話がわかるのか」
孫太郎、と呼ばれた男は、冷笑を浮かべながらこちらを見返してきた。
「そっちのやつは、初めて見る顔だな。新しい用心棒か」
「まあ、そのようなものだ」
「ただの弱っちそうなガキじゃねえか。そんなんで、オレたちの足を引っ張らなけりゃあええけどの」
「なら、試してみるか」
入鹿は打刀の柄に手をかけつつ、前へ進み出た。素卿の広袖が胸元に翻り、それを押し留めた。
「私の目を疑うのか、孫太郎。他でもないお前を見つけ、ここへ連れてきた目でもあるのだぞ」
「ヘッ」
行儀悪く首の骨を鳴らし、不恰好に膝を揺らしながら、その場から離れていこうとした。
「まあ、今日のところはええわい。じゃがなあ安那、物事はきっとはっきりさせてもらうぞ。お前はボゼに誓ったんじゃ。それを破ることなんぞ、この島では決して許されないんじゃからの」
~(2)へ続く
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