観ると少し賢くなる「読む」映画、ゴダール『イメージの本』
はじめに
本作『イメージの本』は、
本/言葉/イメージ/沈黙/権力/戦争というモチーフが、引用と断片化を通して絡み合う構造を持つ作品。
本稿は、それらを「本としての映画」という視点から辿り、ゴダールが自身の『映画史』と実際の世界史とをどのように繋げ、再考しているのかを受け取ってみる試みです。
本当に「読」める
↑の拙稿でシナリオが欲しい!と言いましたが、やりやがった人がいました!(使徒✨)
La partition de Le Livre d'Image de Jean-Luc Godard

私は寝落ちして未完成🤭
ありがたや。
さて、『映画史』で映画博物館を創ったゴダールですが、この作品は、
本好きの本好きによる本好きのための映画。
タイトルに 《Le Livre》、『本』と明言されているのも納得です。
タイトルについて
公式は単数形、翻訳で生じた複数形のナゾ
本作の原題は 《Le Livre d’image》。
タイトルに《Livre》 = 「本」と明示している点からも、本作が単なる映像作品ではなく、「読む」ことを強く意識した映画であることが伺えます。
ここでまず注目したいのは、des images(複数形)ではなく、d’image(単数形)が用いられている点。
仏語において、単数形と複数形の選択は偶然ではなく、意味の次元そのものに関わる判断です。
たとえば Salon du vin と Salon des vins が異なる意味を持つように、そこには必ず話者の意図が含まれます。
因みに、遺作短編の『シナリオ』においてゴダールは、最終形態の公式タイトルとして、sを足して複数形にしていました。
なぜ単数か、考えられる2つのこと
1. 「いくつかのイメージ(写真や映像)を集めた本」ではなく、抽象概念としての「イメージ」を指しているという可能性。
2. 断片的な引用やモンタージュが重ねられているにもかかわらず、最終的には戦争やアラブ世界といった、ひとつの支配的な像、その同一性を浮かび上がらせる意図がある。
なお、筆者はスペイン語版で複数形のタイトルが存在すると言う、ナゾ問題を発見しました。
翻訳や配給の過程で語感の自然さが優先された可能性が考えられますが、タイトルそのものが思考の一部であることを考えると、この「ブレ」はゴダールの意図を汲み取ったものでは無いのですが…。何故こうなった。

なぜブレてしまったのだろう。

権威への怒りを表す作品が
権威ある賞を貰って大惨事
パルムドール特別賞なるものを授与された、最後の長編映画である本作。
この賞についてゴダール曰く
これは大惨事だった。
リルケによれば、大惨事とは愛の詩の最初の節だからだ。
よかったが、必要ではなかった。
観る前の予備読書
さらっと2作
本作では、シェヘラザード、ランボー、ベカシーヌという、一見関係のなさそうなイメージが連想されます。
しかしそれらは、語ること、進むこと、沈黙すること、という3つの態度を通して連なる読書体験なのだと、筆者は受け取りました。
1作め、『千一夜物語』シェヘラザード妻の不貞を知った王は、女性不信となり、街の生娘を宮殿に呼び一夜を過ごしては、翌朝にはその首をはねた。
王の側近の娘シェヘラザードがこれを止めるため、王の元に嫁ぎ妻となる。
彼女は毎夜、王に興味深い物語を語り、話が佳境に入った所で
「続きは、また明日。もっと面白くなるわ」と話を打ち切る。
王は話の続きが聞きたくてシェヘラザードを生かし続け、1000日が経つ。ついにシェヘラザードは王の悪習を止めさせる。
シェヘラザードは、語りによって暴力を止めます。
暴力を前にして彼女が選んだのは、説得でも抵抗でもなく、物語を語り、暴力に即答しないための猶予時間を生み出すこと、そしてその結果暴力を食い止め愛に導くことに成功したのです。
2作め、《Démocratie》 Arthur Rimbaudコミュニストでもあるランボーの『民主主義』を、どうぞ。和文は筆者訳です。
Le drapeau va au paysage immonde, et notre patois étouffe le tambour.
旗は忌まわしい景色へと向かい、
我らの訛りが太鼓の音をかき消す。
旗→国旗を持つ軍隊、国の行末、国家方針
太鼓→政府や公の権威ある声
訛り→庶民、大衆の無教養で雑多な意見
この詩には驚くほど韻(rime)がありません。ランボーは、アレクサンドランのような過剰な装飾を嫌い、散文的な書き方を選んだ詩人ですが、それを差し引いても、この「民主主義」は、詩というより言葉の断片が投げ出されたような印象を受けます。
と言うのも、この「民主主義」に見られるのは、韻が崩れ、言葉がもはや詩として昇華されきらなくなった後期のランボーなのです。
但し、文章としては鋭く、時代を撃つ力を持ちmots propresではなく、筆者の目指す、まさにmots justesを選ぶワードセンスに痺れます。
しかしながら、標語や命令文のようで、思想や怒りを運ぶ道具へと変質しているような印象も受けます。
ゴダールとランボー、ともに老犬の時期
この長編遺作において、同じく創作の終端に位置するランボーの言葉を引用すること。
ゴダールがこの詩を一文だけ引用したのは、彼を讃えるためというより、詩が壊れても残った何かを示すためだったのではないでしょうか。
それは、映画という形式そのものを解体し続けてきたゴダール自身の立場とも重なります。
さて、作中では上記の部分だけでしたが、続きも短いので、もう少しお付き合いください。
詩の続き
Aux centres nous alimenterons la plus cynique prostitution.
Nous massacrerons les révoltes logiques.
都会/ 中央地帯にて、我々は最も皮肉めいた売春を助長し、社会は腐敗するだろう。
論理的な反乱など、皆殺しにしてやろう。
売春→道徳や理想を捨てた魂の堕落、汚職
論理的な反乱→正義、正論、真当な意見
皆殺し→聞く耳を持たず、横暴でいる
Aux pays poivrés et détrempés ! - au service des plus monstrueuses exploitations industrielles ou militaires.
胡椒まみれでずぶ濡れの植民地よ!産業的或いは軍事的な、最もおぞましい搾取に奉仕せよ。
ずぶ濡れ→熱帯地域、過酷な環境
Au revoir ici, n'importe où. Conscrits du bon vouloir, nous aurons la philosophie féroce; ignorants pour la science, roués pour le confort ; la crevaison pour le monde qui va.
C'est la vraie marche. En avant, route !
ここでお別れだ、どこでもいい。善意の徴集兵たちよ、我々は獰猛な哲学を持つだろう。科学に対しては無知だが、享楽にかけては抜け目がない。進みゆく世界にとっては破滅となる。これこそが真の行進だ。前へ進め、道を開けろ!
féroce→今にも噛み付く肉食動物の
科学→理性的で、理想の国民
享楽→欲まみれの現代人
進みゆく世界→未来
進め→邪道に向かう社会を虚無的に皮肉
ここから、ネタバレです。
本編5章で構成され、ゴダール自らがナレーションを務めました。
Les maîtres du monde
Devraient se méfier de Bécassine,
Précisément parce qu'elle se tait.
支配者は、自分たちの傲慢さによって見下し、声を持たないと信じ込んでいる一般大衆の、深い沈黙と蓄積された不満こそを真に恐れるべきだ
Bécassine ベカシーヌ = 物言わぬ国民
elle se tait 黙る = 沈黙は同意ではない、
その裏に蓄積された不満が潜む
現代社会の物質主義と技術至上主義、そしてそれによる人間性の軽視を批判してきたジョルジュ・ベルナノス《Les enfants humiliés》を引用した、
権力に対する痛烈な批判
から始まります。

政治的意見を主張しない農民の象徴として、ベルナノス、ひいてはゴダールが引用した。
5本の指とは
5感があり5大陸がある。
この映画は6部構成で、最初の5部は「非常に長い導入部。まるで手を見る前に5本の指をそれぞれ個別に見ているかのようだ」
6部目は石油資源を奪われた架空の首長国の指導者が思いついた偽りの革命についての「一種の寓話」
人間の真の姿は、自らの手で考えることだ。
「自らの手で考える」は、
『映画史』でも既に刻まれている。
全体主義(ファシズム、共産主義)の台頭への警鐘を鳴らした。
社会の退廃と右左翼両派の合理主義の低俗さを乗り越えて、人類は個人のあらゆる側面を包含する活気ある共同体を主張する。
キリスト教的な統一の概念、倫理的実存主義を提唱する。
ルージュモンは、欧州連邦主義思想。
全体主義: 権力の集中と個人性の喪失
右左翼両派の合理主義の低俗さ:
単純で硬直化したイデオロギー、特に国家主義やマルクス主義が、複雑な現実と個人の精神生活を無視すること
つまり、5本の指とは
各々で考え別機能で行動ができるが、根本は手首で繋がっているように、共同体として連携できる社会のことか
REMAKE = RIME 韻
「アシニェ」のような同音異義語の言葉遊びが挿入された直後に、『映画史』のリメイク(パロディ)が置かれる。
ここでゴダールが示しているのは、既に「正統」として確立された映画のシーンを、言葉や音の韻をずらしながら再び使うことが、単なる冗談ではないという点だ。
それは映画史をもう一度考え直し、異なる関係性の中で結び直そうとする試みなのである。
1 REMAKES p2'55
→ RIM(AK)Eu8m43
2 LES SOIRÉES DE ST. PÉTERSBOURGサンクトペテルブルク夜話
文章の言葉ほど便利なものはない。本に持ち込むものは本しかなかった。でも本の中に現実を持ち込む時はどうなるのか?
ジョゼフ・ド・メーストル、
アンナ・カレーニナ、共産主義、
ローザ・ルクセンブルクの墓を通して
戦争の本質を語る。
3 CES FLEURS ENTRE LES RAILS DANS LE VENT CONFUS DES VOYAGES旅の迷い風の中、線路の間に咲くこの花々
時代が変わること、アート(処世術、芸術)の本質について
如何なる活動もアートになるのは、その時代が終わった後だ。
4. L'ESPRIT DES LOIS法の精神
モンテスキュー、ゼネスト、パリ・コミューン、ランボー「民主主義」冒頭を通して
革命と法について語る。
本?
ああ、最後の樽の中に
本?
法律書だ
王を倒せ 法律万歳!
法を倒せ!
法の不備

映画『エレファント』の挿入
アワーミュージック の挿入
5 LA RÉGION CENTRALE中央地帯
東洋は西洋に比べて哲学的だ。
物乞いが人生や世界について凄いことを言う。誰もが哲学者だ。
時間があるから世の中を見て考えられる。西洋では…
アラブ人と言えば丁寧な挨拶や謎の言葉。世界は彼らに興味がない。イスラム教徒にもだ。
アラブ世界は舞台背景であり風景なのだ。

その後はゴダールが本作のために撮り下ろした、チュニジア共和国の首都・チュニスのアラーニョ、海岸の映像。
最後に、お気に入りレビューたち
つかの間の思いに心を動かされ、愛撫され、感覚を経験し、郷愁を感じることができる。イメージの集中砲火に怯むことはない。ディオゲネスのような外見の下で、ゴダールは無味乾燥なものを扱っているのではない。彼は何よりも感覚と感情に訴えかける。それは、しばしば暗いものであっても、絶望的ではない、一種の叙情性、激化したロマン主義である
モチーフ、アイデア、参照が豊富すぎるように見えるが、この映画は戦争、革命、愛、映画という、かなり一貫した四角形の上に成り立っている。この四角形は正方形でも長方形でもなく、台形であり、戦争と革命が今日の世界と明日の地平線の基盤となっている。戦争は確かに存在し、イスラム教の東方においては典型的にそうである。
常に対位法と矛盾の側にいる。彼のイメージはこれまで以上に扱われ、空虚にされ、色づけされ、否定さえされているが、それでもそれらはまさに本の言葉であり、世界を構成する材料であり、『世界が良くなるほど私たちは悲しんでいない』としても、シェヘラザードは千一日後に別の物語を語るかもしれない
彼はこの世を去り、伝説は神話となった。かくして作品たちは本物のアートとなり、私たちの中で
「希望は生き続ける」。


