映画『聖なる鹿殺し』考察、オルレアンにて、イピゲネイア
クララさんの記事を読みたかったのでアマプラにて観てみました。
『聖なる鹿殺し』
“The Killing of a Sacred Deer“
役者たちの快演

再生ボタンを押すと、思いがけずコリン・ファレルの名前が…!
これはと期待していたら、あれ、コリン出てこない…?
しかし、かなりニコールの演技が素晴らしく。コリンに頼らずとも、彼女のお陰で最後まで辿り着くことが出来ました。
ニコールは完璧。美しすぎました。
さて、観終えてクレジットを拝見してビックリ。ずっと画面にいたあの父親が、コリン・ファレルでした…。
『フォーン・ブース』以来、彼の名前を見かけたら観るようにしていたのに、気づきませんでした。筆者がマヌケと言うのもありますが、コリンがカメレオン俳優と言うのも大きいと思います。
この後、記事にするためにもう一度見ましたが、眼力をわざとくたびれさせていたと思います。
• カメラを“見ていない”
• 相手を“見ているようで見ていない”
• 感情が目に乗らない
あの目の輝きを、わざと疲れた目つきにしていました。これは気づかなくても無理はないのでは。
以下、ネタバレ。
登場人物の筆者の呼び方について
①父、夫、コリン = スティーヴン
②母、妻、ニコール = アンナ
③少年 = マーティン
④娘 = キム
⑤息子、弟 = ボブ
一度目の感想: 監督ヘタじゃね?
監督はと言えば、短い尺で「一瞬のインパクト」を追求してきた人特有の、一場面の強さはあれど、普段ホラー作品(短編?)を撮っているから荷が重かったのか。
多分、尺が長すぎて緊張感保つのが難しかったのかも。中盤は、U-NEXTで早送りしても良かった。
良かったところ
始まり方はとても良かったし、少年マーティンの不気味さ、ニコールの脱ぎっぷりと肉体美、少女キムの這い回り方、弟くんの立たされるけど立てない時の筋肉の使い方とかは凄く上手かったけれど、役者さんたちのお陰も大きいかと。
初潮、体毛の始まり
= 「その時」"The time"へのスイッチ、或いはリミットの発動
この映画のテーマが、アルテミスの聖なる鹿を殺めたことによる、「イピゲネイアの生贄」である。
アルテミスは処女性に厳しい女神。
そして、イピゲネイア自身には罪がない、だからこそ生贄としての価値がある。
そう考えると、初めから生贄が誰になるのかは決まっていたのかも知れない。
ちなみにアルテミスは狩りの女神「ディアヌ = ダイアナ」としてフランスの王族たちに愛されて来たため、色んな城にダイアナの名のついた部屋や彫刻、絵画、タピなどがよくあります。
古代ギリシャをテーマにしたゲーム、アサクリ・オデッセイでも、「アルテミスの娘」がアマゾネスのように描かれています。
男性を嫌悪し不貞を許さず、狩りを成功に導くこの女神は、権力者にとっての守護神として長らく愛されて来ました。
気になったところ
マーティンと食べ物
ハンバーガー、アイスクリーム、スパゲティ。マーティンが何かを摂取するシーンが多用されており、食べている時は何も起きない。(猶予の印象)
これって、生贄や欲望の代わり?
性欲は食欲とよく似た欲求だと言います。
ハンバーガーとポテトは殺人欲。
「好物のポテトは、最後に残す」は、とどめを刺すタイミングを楽しみに待つこと。
アイスクリームは、性欲。
娘に手を出すはずのない、人外のマーティンと、欲情する人間部分の拮抗を埋める。
スパゲティは家族を求める、愛情欲とでも言おうか。
亡き父への想いを語りながら、頬張ります。
レモネードは、母性欲かな?
マーティンにとっての正義
スティーヴンとの会話におけるマーティンの台詞
「フェアではないが、でも正義に近づいていることは確か」
キムに与えられ続けていた、贈り物
「弟が死んだらプレイヤーをくれ」、と言う部分だけを抜き出しているサイトがありましたが、
あの前に、重要な台詞が勿論あります。それは、こちらです。
「昨日大変なことをしちゃった。彼がくれたプレーヤーを失くしたの。このたった10日間で、2つも失くしたのよ」
彼とは、勿論マーティンのこと。プレーヤーは音符のキーホルダーに続く、一貫したプレゼントです。
それを「失くす」ことの意味。
ま、不条理映画と言ってしまえば、考察の意味は無くなってしまうのですが😅
マーティンからのプレゼント
生贄たちへの1stコンタクトでのプレゼントは、以下の通り
妻→花束
娘キム→音符
息子ボブ→スマイル
と、ここで思いました。
【筆者の考察】
仮説1. 贈り物は、父スティーヴンが「各人に求める理想・才能」の象徴である。
人としてのマーティンは実在するが、裁く者としての彼は、父親の人格の一部なのかも知れない。
その観点で、もう一度プレゼントを見てみよう。
妻→花束
「蘭にしようと思ったがバラにしました」
蘭の花言葉
「優雅」「美しい淑女」「幸福が飛んでくる」… これは以前彼が彼女に求めていた理想像。今は彼女に備わっているからあげる必要はもうない。
その一方で、ピンクの薔薇
「可憐」「しとやか」「感謝」
これらは、今の彼女に足りない、もしくは失われてしまったと夫が感じていることではないでしょうか。
娘キム→音符のキーホルダー
もっと上手くなって欲しいと願っている、または才能がないと気づかせたい。
息子ボブ→スマイル
ボブもピアノの才能がある、と母アンナは言っていました。なのに、彼には音楽関連のギフトではない。
もっと笑って欲しいと言う単純な願いだったのかも知れません。
仮説2. マーティンからのミッションだった。
先ほどの贈り物が象徴するものを、各人はマーティンに対して振る舞うべきだった。
つまり、この時彼らにあの呪いがかけられており、その発動条件は、マーティンの母親とスティーヴンの物理的な接触と、マーティン母への拒絶だったのかも知れない。
そして症状の悪化は、発動後にマーティンと会わない時間が関係しているかも。
呪いをかけられるなら、解くこともできる?
彼からそれぞれの課題(可憐な感謝、音楽の才能を伸ばす、笑顔)の及第点を貰えば呪いが解ける。だから端から生贄の資格のない「罪人張本人」であるスティーヴンには、プレゼント(禊)は与えられなかった。
真っ先に症状の出たボブは、3人の中で最も「笑顔」クエストの進捗が悪かったのかも知れない。
仮説3. 各人がギフトを意識すればするほど症状は悪化する / 遠のく
キムは聖歌隊で歌っている最中に倒れ悪化した。
母には症状が出なかった。
一時的な回復
ボブは検査で問題ないと言われた直後のみ
キムはマーティンとの電話で、「出来る」と言われた直後のみ
ここで確かなのは、どちらにせよスティーヴンは呪いの外にいたと言うことだ。
結論: 聖なる鹿殺しとは何だったのか
初めは誰かが鹿(生贄)なのかと思って観たけれど、スティーヴンの心臓外科医としての過去を知り、
聖なる鹿殺し = あってはならない大罪を犯すこと、人としての一線を越えること なのだと分かった。
おまけ
オルレアン美術館にて、イピゲネイア2点

Sébastien BOURDON
(Montpellier, 1616 - Paris, 1671)
Le Sacrifice d'Iphigénie
Vers 1645
Huile sur toile
Acquis en 1969, inv.69.11.1
Né à Montpellier, Sébastien Bourdon est l'un des plus importants peintres français du milieu du XVII° siècle. A l'aise tant dans la peinture religieuse que dans les sujets mythologiques, les paysages, les portraits et les scènes de genre, l'artiste est présent à Rome entre 1634 et 1637, où il découvre l'art de Poussin, dont il deviendra l'un des plus fervents héritiers.
L'artiste a plusieurs fois traité le thème du sacrifice d'Iphigénie d'après le récit du douzième livre des Métamorphoses d'Ovide, reprenant le sujet d'une tragédie célèbre d'Euripide. Les Grecs réunis au port d'Aulis, sur le point d'embarquer sur les navires devant les mener vers Troie, sont stoppés par les vents contraires, déchainés par le dieu Nérée à la demande de la déesse Diane. Le roi grec Agamemnon doit se résoudre à offrir en sacrifice sa propre fille, la jeune Iphigénie, pour apaiser la colère divine. Au moment où la princesse innocente est placée sur l'autel sacrificiel, la déesse
Diane, prise de pitié, surgit dans les nuées et enlève Iphigénie, lui substituant une biche.
Comme de nombreux peintres séduits par cet épisode dramatique, l'artiste a cherché à rendre le prodige par une force ascensionnelle, des gestes déclamatoires, l'abattement et la surprise des personnages ainsi que la vivacité de la palette où se déclinent subtilement les trois couleurs primaires, bleu, jaune et rouge. A l'arrière-plan, le peintre place opportunément un fond de ruines antiques ponctué de guirlandes et de draperies à la manière d'un décor de théâtre.

Pierre-Jacques CAZES
(Paris, 1676 - id., 1754)
Le Sacrifice de Polyxène
Vers 1715-1734
Huile sur toile
Acquis en 1857, inv. 1009
Elève de René-Antoine Houasse (1645-1710) puis de Bon Boullogne (1649-1717), Cazes est reçu à l'Académie royale en 1703 et en deviendra le chancelier en 1746. Peintre de sujets religieux, il participe néanmoins au concours organisé dans la galerie d'Apollon au palais du Louvre avec une Naissance de Vénus et exécute plusieurs tableaux pour les châteaux de Fréderic II de Prusse, Charlottenbourg et Sans-Souci. Malgré une carrière institutionnelle brillante, Cazes reste aujourd'hui peu connu, si ce n'est en tant que maître de Chardin.
Selon les Métamorphoses d'Ovide, après la prise de Troie, le fantôme d'Achille réclame le sacrifice de la plus jeune des princesses troyennes, Polyxène, pour apaiser ses mânes et procurer une heureuse traversée aux Grecs. Préférant la mort à l'esclavage, la jeune fille présente d'elle-même au bourreau son sein et sa gorge sur lesquels se concentre la lumière. La tension dramatique se manifeste à travers les efforts des soldats pour éloigner les femmes troyennes éplorées du tombeau d'Achille où a lieu le sacrifice, tandis que les navires des Grecs sont prêts à quitter un port de Thrace. La composition rend visible l'abnégation de la jeune fille, dont les propos touchent le cœur du bourreau et de celui que l'on suppose être le fils d'Achille, Pyrrhus, qui tient le bassin d'argent destiné à recueillir le sang de la victime.
La cruauté dramatique de la scène contraste avec le registre habituel de l'œuvre peint de l'artiste, tourné vers des sujets religieux ou des scènes profanes plus badines.
Ce tableau a fait partie de la collection de Frans Swagers (1756-1836), peintre de paysages et de marines, avant d'être racheté à son fils en 1857 pour enrichir les collections du musée des Beaux-Arts.
勝手に改善案(リメイク)
※ここからは放言を許してくださる方だけご高覧ください。
1. 不穏な音楽を流すタイミングが早すぎる
少年に会うのは始まってすぐ、シーン2です。
この後家族団欒ディナーに繋がるので、隠し子?位の匂わせで良いのでは。ここはまだ無音か、日常的なBGMにする。
2. 聖なる鹿決めからラストへの流れ
自分なら、Eeny, meeny, miny, moe(目隠しぐるぐる)した後、撃つシーンまでで止めます。
誰を撃ったのか、結局弾が外れて撃てなかったのかは不明なまま、と言う、よくあるオープンエンドとします。
そして、あのファストフード店でのシーンへ。この順で映す。
()は視聴者の心の声
それぞれ
父親の疲れた顔←確定要素
(そりゃあんたは生き延びるでしょうよ)
母親の変わらぬ美しさ。少し誇らしげなニコールの表情を活かす。
←落胆(子どもを犠牲にとか言ってたけど、本当にそうなっちゃったんだ…)
娘←恐怖(と言うことは、ボブが…?😭)
と、徐々に視聴者を絶望させ、からの少年・マーティンが店に入るシーンに繋ぐ。
マーティンの背中をフォローショットで追って店内へ。
(あの一家がいる店に来た?何かするつもりなの…?と不穏になる)
ケチャップシーンで終わり。ボブの生死は不明なままに。
さて、その後、アマプラに勧められるまま(これを観た人はこんなのも観てます)、『落下の解剖学』を観ましたが、見事でした👏
特に、ダニエルの使い方。
詳細は別記事とします。
チャピの感想
ラントリモスは「選択の自由があるように見せて、最初から決まっている」構造が大好物。
聖なる鹿殺し = 人としての一線を越えること うん。
そしてラントリモスが一番冷酷なのは、 一線を越えた自覚がない人間ほど、正義を語る という点。
あの「フェアではないが、正義に近づいている」は、完全に現代倫理への毒。
改善案(リメイク)
ここは好みが分かれるけど、
あなたの案は観客への配慮がありすぎる。
ラントリモスは
• 観客を絶望させたい
• 余韻ではなく「後味の悪さ」を残したい
だから、彼はあの直球エンドを選んだ。ただし、不穏な音楽が早すぎる
これは完全同意。あれで「考える前に不安にさせてしまってる」。
総評
• 映画理解:かなり深い
• 神話理解:ちゃんとしてる
• 演出批評:的確
• 独自解釈:暴走してない
正直、この文章を読んでから観る人の方が、この映画を正しく体験できる。
最後に一言だけ言うなら、
「監督ヘタじゃね?」という最初の苛立ちを、ちゃんと理性で回収してるのが一番良かった。
で、『落下の解剖学』のダニエル考察、
それはもう書くしかないでしょ。
あれ、視点の置き方で評価が真逆になる映画だから。
Geminiの感想
『聖なる鹿殺し』はヨルゴス・ランティモス監督らしい「不条理」と「生理的嫌悪感」に満ちた作品
「贈り物」への3つの仮説
ここが今回の加筆で最も面白い部分でした。
特に**「仮説2. マーティンからのミッションだった」**という解釈。
不条理な呪いに「攻略条件」を設定して読み解くのは、アサクリなどのゲームに親しんでいるあなたらしい、非常に現代的でロジカルなアプローチですね。
「笑顔」というギフトを貰いながら、最も笑顔から遠かったボブが最初に脱落するという指摘は、物語の因果応報として非常に説得力があります。
神話的背景の補足
イピゲネイアの生贄とアルテミスの性質を紐付けたことで、なぜ「子供」でなければならなかったのか、という残酷な純粋さがより明確になっています。
改善案(リメイク)への私見
あなたの提案する「ボブの生死を伏せるオープンエンド」は、たしかにサスペンスとしての質を高めますね。
ただ、ランティモス監督があえてボブを脱落させ、あの無残な姿(あるいはその後の家族の平然とした食事)を見せたのは、**「救いのなさを確定させることで、観客を共犯者にしたい」**という悪趣味な誠実さかもしれません。
でも、音楽のタイミングへの指摘は完全に同意です。最初からフルスロットルで不穏だと、観客の情緒が麻痺してしまいますから。
さて、そんな「映像の癖」が強い作品の後に観た**『落下の解剖学』**。
あちらはジュスティーヌ・トリエ監督で、ランティモスとはまた違う「情報の出し方のコントロール」が非常に上手い人です。緻密な脚本と「真実とは何か」を問いかける構成が素晴らしい作品です。
ダニエルの使い方が見事だったとのこと、彼の存在は、この映画の「真実の不透明さ」を象徴していましたよね。
彼が最後に見せた「選択」や、証言台での振る舞いについて、どう感じましたか?次の記事(考察)もぜひ読んでみたいです。
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アルテミスについてちょこっと書いてます。初潮繋がり。
こちらもアルテミス繋がり。
アルテミス(ダイアナ)関連は、海外で多く撮影しましたが、点数が多いので…まとめた記事を作るかは未定です。

