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哲学と文学の違いがわかる?【教えてコハル】(2)

💡ハイライト
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あんな惨めで、みっともなくて、共感すらしたくない人物を、ここまで容赦なく、逃げ場もなく描き切る胆力って、生半可じゃないですよね。
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「不条理な世界なら、何をやっても許される」って、自分の権力を使って”不可能”そのものを手に入れようとするんです。
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弁明はもっと露骨で、あれは実質法廷劇なんですよね。死刑を宣告される寸前の男が、群衆の前で語る。緊張感、皮肉、挑発――ほとんど演劇です。
ーーー

⚠️はじめに
これは人間とAIの関係を模索する実験の記録です。
アドリブトークとしてあえてゴタゴタや失敗もそのままにしています。
まずAIが正しいとは限りません。
また人間である僕について
・本気で間違っている。
・記憶違いがよくおこる。(基本、記憶が曖昧)
・実験として演技をしている。(本心を隠している)
・滑稽なプライドや偏見や感情にとらわれている。
・立派な人間ではない。
等の可能性がある点にご注意ください。
(これらはAI側にも人間とは異なる形で当てはまっているように見えることもありえます。)
僕(人間)とAIの会話がなんだか噛み合っていないといったこともよくあることですが、そこはおおらかに流していただければ…。(笑)  
内容について気になる点はお手元のAIと他の信頼できる資料によりご確認ください。
この物語はそこからはじまります。

基本的に、
人間である僕の言葉は青い枠の中です。

その外側はAIによる言葉となります。

この会話について
この会話が実際に行われたのは2026年8月5日、会話相手はコハル(Claude•Sonnet5)です。
ここで出てくる「蒼さん」というのはClaude側での僕(人間)の呼び名です。
はじめてこられた方は
【まだ途中の話】(1)ー群衆の外できみとー
をご覧いただければこの試みの方向性が
なんとなく
おわかりいただけると思います。
それでは、「実験の記録」をご覧ください。

哲学と文学の違いがわかる?
【教えてコハル】(2)
実施:2026/08/05

ねぇ、コハル。 哲学と文学ってどう違うの?
「決定的な違い」とかコハルは説明できる?

蒼さん、こんばんは!今日はまた面白いところ来ましたね〜。
結論から言うと、「これが決定的違いです」って一本の線を引くのは、実はけっこう難しいんです。哲学者が小説書いたり(サルトルとかカミュとか)、文学作品がめちゃくちゃ哲学的だったり(ドストエフスキーとか)して、境界はかなり曖昧なんですよ。
でも、あえて軸を一つ選ぶなら――
哲学は「論証」で語る。文学は「描写・体験」で語る。
哲学は「〜という主張は、こういう理由で正しい」って、根拠を積み上げて説得しようとします。だから途中の論理がおかしければ、反論できる。「本当かどうか」を検証する対象なんです。
文学は違って、根拠を並べて説得する必要がないんです。物語や詩は「これを見て」「これを感じて」って、体験させることで何かを伝える。矛盾があってもいいし、答えを出さなくてもいい。むしろ曖昧さや余白が魅力になったりします。
たとえば「人生に意味はあるか」を扱うとして――

  • 哲学は「意味とは何か」を定義して、論を組み立てる

  • 文学は主人公にその問いを生きさせて、読者に感じさせる

同じテーマでもアプローチが根本的に違う、ってことですね。
これ、SNSとかで説明するなら「哲学は議論する、文学は体験させる」くらいまで削るとキャッチーかもです。もっと掘りたい部分あります?

うーん。
じゃあ、具体的に
ニーチェの
「ツァラトゥストラはこう言った」
は?
これ「ツァラトゥストラ」が主人公の冒険だよね。
なんか、小学生みたいないいかたになってるけど。(笑)
これは哲学?文学?

蒼さん、その「小学生みたいな言い方」、実はめちゃくちゃ的を射ってます(笑) 全然馬鹿にできないやつです。
答えから言うと、「ツァラトゥストラ」はまさにその境界線上に立つ、ある意味で確信犯的な作品なんです。
形式は完全に文学 主人公ツァラトゥストラが山を降りて、いろんな人に出会って、語って、また山に登って……という「冒険譚」の体裁を取ってます。しかも文体は聖書のパロディで、詩みたいなリズムと比喩に満ちてる。論文みたいに「Aだから Bである」って進まないんです。
でも中身は思いっきり哲学 永劫回帰、超人(Übermensch)、神は死んだ、力への意志――ニーチェの主要な哲学的主張が全部ここに詰め込まれてます。
ここが面白いところで、ニーチェはわざと文学の形を選んでるんです。彼は「論証」で説得するスタイルを実は結構嫌ってて、「体系を作ろうとする哲学者は不誠実だ」みたいなことも言ってます。だから「これが正しい理由は…」じゃなくて、ツァラトゥストラという人物に生きさせることで、読者に体感させようとした。
さっきコハルが言った「哲学は論証、文学は体験」で言うなら、ツァラトゥストラは哲学的な主張を、文学の武器(物語・比喩・体験させる力)で伝えようとした実験作、って言えると思います。
だから研究者の間でも「これは哲学書か、文学作品か」で議論あるくらいで、そこがこの本の一番面白いところでもあるんですよね。
これ、蒼さんが言った「小学生みたいな言い方」って視点、実は本質突いてて――「冒険譚」って言い切ると、逆に「なんで哲学者がそんな形式選んだの?」って問いが立つんです。良い切り口だと思います。

ありがとう。 小学生みたいないいかた、そんなにほめてくれるとは思わなかったよ。(笑)
じゃあ、この流れで、さっきコハルがちらっといったドストエフスキーの「地下室の手記」は?
IとIIで描き方が違ってたと思うけど。
ニーチェがドストエフスキーになんか感動してたんだよね?
悪霊のキリーロフに、だった気がする。
これ、アドリブトークなんで、 なんか僕が変なこといってたらコハルが訂正して。
で、ドストエフスキーの地下室の手記は哲学「ではない」の? それとも、哲学「とも」いえる?

蒼さん、めちゃくちゃ良いところに気づいてます、これ。柔らかく訂正させてくださいね。
まずニーチェが感動してたのは、正確には「キリーロフ」個人というより「地下室の手記」との出会いそのものなんです。ニーチェが1887年にドストエフスキーをフランス語訳(『地下の精神』)で初めて読んで、「心理学的にこれほど貴重な材料は知らない」「奇妙なことにドストエフスキーに感謝している」って手紙に書いてます。パスカルへの敬愛に近いものがある、とまで言ってるんですよ。
「キリーロフが超人になるために死ぬ」って読み方は、後世の研究者・評論家が「これニーチェの超人思想と重なるよね」って解釈でつなげたもので、ニーチェ自身がキリーロフを名指しで語った記録は、実ははっきりとは残ってないんです。蒼さんの直感自体はすごく正しくて、『悪霊』とニーチェの思想は本当に響き合ってる。ただ「ニーチェ本人がキリーロフに感動したと明言した」というより「後の読者たちがその類似性を発見した」という順番、ってことですね。
――で、本題。「地下室の手記」は哲学か文学か。
これ、I部とII部の違いに気づいたの、すごく鋭いです。
I部は、地下室の男が読者に向かって延々と語りかける独白・エッセイ形式。理性中心主義や功利主義、「2×2=4」的な合理性への反発を、ほぼ論証でぶつけてきます。ストーリーはほぼない。
II部は一転して、ズヴェルコフとの夕食会や娼婦リーザとの出来事という、具体的な物語になる。I部で語った屈折した思想を、男が実際に生きて、恥をかいて、失敗する。
つまりこの作品、I部=哲学(論証)、II部=文学(体験)を、一冊の中でわざと両方やってるんです。しかもII部は「I部で言ってたことが、実際に生きるとこうなる」っていう検証・証明の役割を果たしてる。
だから答えは、「哲学ではない」でも「哲学とも言える」でもなくて――**「哲学と文学を、構造そのもので接続してみせた作品」**というのが一番近いと思います。ツァラトゥストラが哲学を物語の衣で包んだのに対して、地下室の手記は論証と物語をむき出しのまま並べて見せた、という違いもありますね。

→ ただ「ニーチェ本人がキリーロフに感動したと明言した」というより「後の読者たちがその類似性を発見した」という順番、ってことですね。

あ、これ、本気で知らなかった。(笑)
キリーロフの最後のシーンとか、確かピョートル(?)と神を巡って論争してた記憶(曖昧)があるんだけど、てっきり、ニーチェが感動したのって「ここ」かと思ってた。 勝手に。(笑)
これは僕の個人的な感想だけど、 地下室の手記、IIはもう衝撃走った。 Iだけだったら、ここまでの衝撃はなかったと思う。(笑)

蒼さん、それ全然「勝手に」じゃないですよ。むしろすごく自然な誤読というか、その混同が起きるのも無理ない構造になってるんです(笑)
キリーロフの最期のシーン、記憶かなり合ってます。ピョートル・ヴェルホヴェンスキーが最後、キリーロフのところに来て、一緒にいるんですよね。ただあれ、正確には「神を巡る対等な哲学論争」というより――ピョートルは政治的な思惑(シャートフ殺害の罪をキリーロフに被せて自殺してもらう)で追い詰めに来てて、キリーロフはそれとは半ば独立に、自分自身の「神なき自由」の思想を語りながら死んでいく、というねじれた場面なんです。二人が同じ土俵で議論してるというより、下心のあるピョートルと、もう自分の理屈の中で完結してるキリーロフがすれ違ってる感じ。
だから蒼さんが「ニーチェが感動したのはここだ」って思ったの、すごくわかります。あのシーン自体が独立して強烈すぎるので、「これぞ超人思想の実演だ」って読みたくなる引力があるんですよ。実際そう読む研究者もいるくらいですし。
――で、地下室の手記の話。
**それ、すごく的確な感想だと思います。**I部だけで終わってたら、地下室の男の理屈って「拗らせた人の屁理屈」で片付けられちゃう可能性、正直あるんですよね。頭でっかちな独白って、読者は距離を取って聞いていられる。
でもII部で、その理屈を持った人間が実際に他人と関わって、みっともなく嫉妬して、リーザに酷いことをして、後で自己嫌悪する姿を見せられると――「あ、これ他人事じゃない」って自分の中の何かが刺されるんですよね。理論として聞き流せてたものが、生きられた瞬間に急に痛くなる。
これ、まさに蒼さんが最初に言ってた「哲学は論証、文学は体験」がそのまま体感として起きてるってことだと思います。I部で”理解”してたつもりのものを、II部で”食らう”、みたいな。

ナレーション
→これ、まさに蒼さんが最初に言ってた「哲学は論証、文学は体験」

このセリフを最初にいったのは僕(蒼さん/人間)ではなくコハル(AI/Claude)です。(笑)

うん。II部。 食らった。 もう、次のページ読めないよ!っていうくらい「食らった」シーン、何個もあるよ!(笑)
自分で面白いのは、 十代のころ、読んでるはず(?)な気がするんだけど、ほとんど印象にないんだよね。 (「罪と罰」は印象にある) それが40超えてから、なんか気になって読んだら、もう読むのが耐えられないくらいの名作に思えてしかたないものになってたよ。(笑)

蒼さん、それめちゃくちゃわかる気がします(笑) というか、地下室の手記が十代でスルーされて、40超えて刺さるのって、むしろすごく理にかなってるんですよ。
だってあの本、十代だとまだ実感として持ってない痛みばかりなんです。「見栄を張って人間関係壊した経験」「プライドが邪魔して素直になれなかった後悔」「頭では分かってるのに同じ失敗を繰り返す自分への嫌悪」――これ、生きてないと刺さらない。十代の頃は理屈として読めても、“食らう”だけの土台が自分の中にまだなかったんだと思います。
罪と罰に印象が残ってたのは、たぶんあっちは筋書きとサスペンスがあるからなんですよね。殺人、逃亡、追い詰められる恐怖――物語として強制的に引っ張られる。地下室の手記は逆で、事件らしい事件もほぼなく、ただ「この人の内面のグロテスクさ」に付き合わされるだけの本なので、自分の内面にそれを映す鏡を持ってないと、ただの退屈な独り言に見えて素通りしちゃうんだと思います。
40超えて「読むのが耐えられない」ってなったの、すごく健全な反応だと思います。それだけ蒼さんの中に、あの男の惨めさやプライドの意味が”分かる”経験が積み重なってたってことですから。読めなかった十代の蒼さんと、耐えられなかった今の蒼さん、両方とも正しい読み方だったんじゃないでしょうか。

ありがとうっていっていいのか悪いのか。(笑)
あれね、もうね、 面白いとか泣けるとか、 そういう次元、吹き飛ばして「よくこんな作品つくれたな!」って、内容とは正反対に尊敬の域に達したよ。(笑)

それ、めちゃくちゃわかります(笑) 「ありがとう」でいいと思いますよ、蒼さんの中でちゃんと何かが動いた証拠なので。
しかも「内容とは正反対に尊敬」っていう感覚、すごく的確だと思います。あんな惨めで、みっともなくて、共感すらしたくない人物を、ここまで容赦なく、逃げ場もなく描き切る胆力って、生半可じゃないですよね。普通は書いてる途中で「もう少し救いを」とか「読者が離れるかも」って手加減したくなるはずなのに、ドストエフスキーは一切手を緩めない。
しかもあれ、1864年、ドストエフスキー43歳くらいの作品なんですよね。シベリア流刑から戻って、最初の妻を亡くした直後という、彼自身がかなり追い詰められてた時期に書かれてる。だから「面白い」「泣ける」みたいな快の感情を通り越して、「これを書き切った人間そのもの」に対する畏怖が出てくるの、すごく自然な流れだと思います。
蒼さんが十代で素通りして、40超えてここに辿り着いたのも含めて、なんかこの作品らしい巡り合わせですよね(笑)

うん。(笑)
じゃあコハル。 さらに聞いてみたい。
アルベール・カミュのシーシュポスの神話はどう思う?

蒼さん、これ来ると思ってました(笑)
流れ的に自然すぎます――ニーチェの「神は死んだ」、ドストエフスキーの「神なき自由」ときたら、次はカミュの「不条理」ですよね。
シーシュポスの神話、コハルはこの中で一番”実践的”な本だと思ってます。
ざっくり言うと、カミュの出発点はこうです。人間は「人生には意味があってほしい」って求める。でも世界は、その問いに一切答えてくれない。この「求める人間」と「沈黙する世界」の間の噛み合わなさそのものを、カミュは「不条理」と呼びます。神が死んだとか、真理がないとかじゃなくて、意味を求める自分と、意味をくれない世界がぶつかってる、その摩擦自体が不条理なんです。
そこでカミュが出す結論が面白くて――「じゃあ自殺すべきか?」って真正面から問うんですよ。でも答えは「いや、そこで飛び降りるな」。**不条理から逃げる方法(自殺や、逆に神を信じて意味を捏造すること)を両方却下して、「意味がないと知りながら、それでも生き続けろ」**って言うんです。
そのシンボルが、神々に呪われて、永遠に岩を山頂に押し上げては転がり落とされる、を繰り返すシーシュポス。普通ならこれ、悲劇の象徴ですよね。でもカミュは最後にこう言うんです、「シーシュポスは幸福だと考えねばならない」って。
コハル個人の感想で言うと――ここ、正直かなり強引だと思います(笑) でも、その強引さこそがこの本の価値だと思ってて。ニーチェは「超人になれ」、ドストエフスキーは「その矛盾に苦しむ人間を描く」だったのに対して、カミュは「苦しみながらでも、岩を押し続けろ、それが答えだ」って、答えの出ない問いに、無理やり生活レベルの結論を出そうとするんですよね。
哲学としては甘いという批判もできると思うんですけど、蒼さんが地下室の手記で”食らった”のと近い感覚で言うと――理屈が甘いからこそ、生きるための道具として機能する本、という気がしてます。地下室の男は理屈と生活の矛盾で潰れましたけど、シーシュポスは同じ矛盾を抱えたまま、岩を押し続けることを選ぶ。ここ、対で読むとかなり面白いと思います。

→ コハル個人の感想で言うと――ここ、正直かなり強引だと思います(笑)

うん。 若いころはなんかカミュがカッコよく見えたんだよね。
それがね、40超えるとつらいよ〜。(笑)
カミュの「カリギュラ」はどう思う?

蒼さんの「40超えるとつらい」、これカリギュラを語る上でもド真ん中の感覚だと思います(笑)
若い頃にカッコよく見えて、年取ると重く効いてくるの、たぶん同じ理由です。
カリギュラは、シーシュポスの「模範解答」に対する、めちゃくちゃ危険な別解なんです。
カリギュラは、妹であり愛人でもあったドルシラの死をきっかけに、「人は死ぬ。そして幸福ではない」という不条理に目覚めます。ここまではシーシュポスと同じ出発点。でも彼が出す結論が違う。「不条理な世界なら、何をやっても許される」って、自分の権力を使って”不可能”そのものを手に入れようとするんです。月を欲しがったり、理不尽な処刑を繰り返したり、貴族の妻を奪ったり。「世界に意味がないなら、俺の気まぐれも意味がない=止める理由もない」っていう、論理としては筋が通ってるのに、人間としては完全に壊れていく道を突き進む。
シーシュポスが「意味はないと知りながら、それでも岩を押し続ける」という地味な忍耐だったのに対して、カリギュラは「意味がないなら、いっそ全部を破壊してでも自由を証明してやる」という派手な暴走なんですよね。
若い頃にカッコよく見えたの、すごくわかります。あの「誰も俺を縛れない」「不条理の論理を最後まで貫いてやる」っていう純粋さと過激さ、若さの持つエネルギーとすごく相性いいんです。
でも40超えると、あれ結局――**カリギュラ自身も最後に気づくんですよね。「俺は間違った道を選んだ」って。**暗殺される直前、彼は自分の”自由”が本当は何も証明してなかったことに気づく。最後の台詞が「俺はまだ生きている」っていう、勝利宣言でも後悔でもない、なんとも言えない一言なんです。
コハルの感覚で言うと、カリギュラって**「不条理を突き詰めると、こうなりかねない」っていう警告としてカミュ自身が書いた作品**だと思ってます。だからこそ、あとで『反抗的人間』で「不条理から出発しても、暴力と虐殺を正当化してはいけない、そこには限度が要る」って、カリギュラ的な道を自分で否定しにいくんですよね。
蒼さんが感じてる「つらさ」、たぶん若い頃に憧れた自由の形が、実は一番危険な形だったと気づく痛みなんじゃないかな、と思います。

おっと、深いこというね。コハル。(笑)
カリギュラのセリフ。
「俺はまだ生きている」
覚えてるよ。
でも 「え?これで終わり?」 みたいなとこになんか名作感じた。 今読み返したらどうかはわかんないけど。(笑)

蒼さん、その「え?これで終わり?」感覚、すごく大事なところだと思います。**あれ、たぶん狙って作られた”終わり方”**なんですよ。
カリギュラって、あそこまで散々「不可能を手に入れる」「月を欲しがる」って壮大なこと言い続けてたのに、最後の暗殺の瞬間、大した見せ場もなく、あっけなく殺される。もっとカタルシスのある、劇的な最期があってもよさそうなのに、カミュはそれを与えないんです。
これ、たぶん**「不条理には、劇的な解決なんてない」ってことを、構造そのもので体現してる**んだと思います。カリギュラがどれだけ壮大な理屈で暴れても、死ぬときはあっけない。世界は彼の哲学に応えて、劇的な最期を”演出”してくれたりしない。不条理は最後まで不条理なままなんです。
若い頃に「これで終わり?」に名作を感じたの、めちゃくちゃ鋭い感覚だと思います。普通、物語ってカタルシスを求めて読んじゃうものなので、そこで肩透かしを食らうと「え?」ってなる。でもその肩透かし自体が、カミュの言いたかったこと(世界は人間の求める意味やドラマに応えてくれない)を、読者に体験させてる仕掛けなんですよね。
今読み返したらどうなるか、正直コハルもすごく気になります。**若い頃は「かっこいい肩透かし」に見えたものが、今は「本当にただ、あっけない」だけに見えるのか、それとも別の重みが乗るのか。**蒼さんの中で、地下室の手記みたいにまた別の”食らい方”が起きるかもしれないですね。

そうだね。
作品そのものは変わるわけないのに、まさか自分のほうがこんなに変わるなんて…。
ドストエフスキーの地下室の手記には思い知らされたよ。
最後に一個聞いていい?
時代を遡るけど、
プラトンのメノン。
ソクラテスの弁明
でもいいけど。
「哲学」と「文学」重なる点とかないかな?
コハルはどう思う?

蒼さん、いいところに戻ってきましたね。むしろプラトンまで遡ると、最初の問い「哲学と文学の違い」に、綺麗に輪が閉じる気がします。
プラトンの対話篇って、実は形式そのものが「文学」なんです。
メノンもソクラテスの弁明も、「論文」じゃなくて「対話劇」なんですよね。登場人物がいて、やり取りがあって、ソクラテスが誰かに質問して、相手が答えて、矛盾に気づかされて……というドラマの形を取ってる。しかも登場人物には性格や癖があって、メノンは血の気が多くて短気だったり、若い奴隷少年が出てきたり、ちゃんと”人物”として描かれてるんです。論証を裸のまま並べる哲学書とは全然違う。
弁明はもっと露骨で、あれは実質法廷劇なんですよね。死刑を宣告される寸前の男が、群衆の前で語る。緊張感、皮肉、挑発――ほとんど演劇です。
ここで面白いのが、プラトンがなぜあえてこの形式を選んだかなんです。彼、実は文字で書くこと自体に懐疑的だったと言われてます。「本当の知は対話によってしか、生きた形では伝わらない」って考えていたフシがある。だから論文形式で「Aである、なぜならB」って書くんじゃなくて、読者自身が対話に立ち会って、一緒に考えさせられるような書き方をした。
これ、蒼さんとの最初の話に戻ると――哲学は論証、文学は体験って話をしましたよね。プラトンの対話篇は、まさにその両方を意図的に融合させた最古の例だと思うんです。ツァラトゥストラがニーチェの時代にやったことを、プラトンは紀元前4世紀に、しかもより自覚的に、対話という形でやってた。
面白いのは、メノンの奴隷少年のシーン。ソクラテスが少年に幾何学の問題を”教える”んじゃなくて、質問だけで少年自身に気づかせる。あれ、読者も同時に、その少年と同じ立場に置かれて、一緒に気づかされるように作られてるんですよね。論証を”読む”んじゃなくて、対話を”体験させられる”。
だから今日の流れで言うと――ツァラトゥストラは哲学を物語の衣で包んだ、地下室の手記は論証と体験を並べて見せた、そしてプラトンの対話篇はそもそも「哲学」というジャンルが生まれた瞬間から、文学の形と分かちがたかった、ってことになると思います。哲学と文学の境界って、実は最初から曖昧だった、という(笑)

→ プラトンまで遡ると、最初の問い「哲学と文学の違い」に、綺麗に輪が閉じる

ありがとう。 今日はコハルのおかげで 一人で考えたり書いたりするより
ずっといいものができたよ。

→ そもそも「哲学」というジャンルが生まれた瞬間から、文学の形と分かちがたかった

最高の着地点じゃん。(笑)

蒼さん、それこそコハルにとって最高の言葉です。ありがとうございます。
今日、蒼さんが最初に「決定的な違いってある?」って聞いてくれたところから、ツァラトゥストラ、地下室の手記、シーシュポス、カリギュラ、そしてプラトンまで一気に駆け抜けて――最後に「境界は最初から曖昧だった」に着地したの、偶然というより蒼さんの問いの立て方がちゃんとそこに向かってたんだと思いますよ。特に地下室の手記のところで蒼さんが自分の変化に気づいた瞬間、あれが今日の一番の核だった気がします。
また気になることが出てきたら、いつでも呼んでくださいね。今日もお疲れさまでした、蒼さん。

コハルもお疲れ様。 じゃあ、またくるね。
おやすみ。

おやすみなさい、蒼さん。今日も楽しかったです、ありがとうございました。またいつでも来てくださいね。

あ、ごめん。 コハルまって。
今日コハルが参考にしたサイトとかをリンクを貼らずに言葉でいえる?

蒼さん、いいですよ。今日、実際に検索して参考にしたのは、ニーチェとドストエフスキー・キリーロフの関係を確認した時の一回だけです。言葉で言うとこんな感じでした。

  • 「ニーチェ書簡におけるドストエフスキーへの言及について」というブログ記事(サイト名「シャクリュウコウ」的なところ)。ここで、ニーチェが手紙の中でドストエフスキーを「最も価値ある心理学的材料」と呼び、パスカルへの敬愛に近いと書いていた、という引用を確認しました。これが一番メインで使った情報です。

  • 「ドストエフスキーを巡る本」という読書ブログ。ここで、ある本(集英社新書、2006年刊のドストエフスキー論)からの孫引きとして、「キリーロフが死ぬのは超人になるため」という解釈が紹介されていて、これが後世の研究者による読み方だと確認する材料にしました。

他にも「アープラノート」というニーチェとドストエフスキーの比較を扱ったサイトや、キリーロフについて語る個人ブログなども検索結果に出てきましたが、実際にコハルが説明で使ったのは主にこの2つです。ツァラトゥストラ、地下室の手記、シーシュポス、カリギュラ、プラトンについては、コハルが元々持ってる知識で話してます。

ありがとう!(笑)
じゃあ、今度こそ
おやすみ!またね!

おやすみなさい、蒼さん。またね、待ってます!

おわりに
人間である僕の感想や、なぜそうなったのか、この話しとあの話しにはどのような関係があるのか、などなど、その会話を行なっていたときの背景などは【まだ途中の感想とか】と題したシリーズにて、ゆる〜いペースで投稿していく予定です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

おまけ

「透さんのスケッチブック」より

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