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男であるということ

 「ちょっと怖いんだけど」

 数か月前、運転中に他の車の不規則な動きなどが重なってイラっとしていた私に、妻がそう言葉を発した。私としては暴力的な意図はなく、自分の心のガス抜きだったが、それが恐怖を感じる言動だった。

 私はそれがショックで、自分を見直すとともに対応を変える必要を感じた。それ以降は、ストレスがたまったら運転、あるいはその動作をやめたり、妻と交代したりするようにしている。

 何が言いたいかというと、日ごろから言動に細心の注意を払わなければ、無意識に恐怖を与えてしまう可能性があるということだ。その与える恐怖が大きくなれば、言いたいことが言えなくなるなど、人として対等に接することはできなくなるだろう。


「男」が潜在的に与える恐怖

 私は男だが、男であるというだけで、他人に対して恐怖を与えていると思っている。

 身長180センチ、体重も85キロという体型であり、私のパーソナリティーを全く知らない女性であれば、道ですれ違うだけでも恐怖を感じかもしれない。すれ違うタイミングで足早に過ぎ去る人もいて、申し訳ない気持ちになる。

 だからこそ、自分なりにその怖さをそぎ落とすように意識して生活している。接する相手に対して横柄な態度を取らないことはもちろんだが、電車やバスの中でもふんぞり返ったり足をがに股に広げ過ぎないようにしたりしている。

 性的な面においても男の持つ加害性は当然ある。ここでは書かないが、男であるならば『射精責任』という本は必読書だと思う。


相手のことを考えるコミュニケーション

 今がどうかは分からないが、一時期の日本の報道番組では、ベテランの男性アナウンサーがメインで、若手の女性アナウンサーがサポートするという構図をよく見かけた。そして、男性が女性に対して説明するのも定番で、無意識にその状況がすり込まれてきた気がする。

 頼まれてもいないのに上から目線で教えたたがる男性の話は、よくソーシャルメディアでも話題になる。男性が上から目線で女性に説明したり説教したりすることは「マンスプレイニング」といわれる。

 高度経済成長期以降、長年にわたって、「仕事は男、家庭は女性」というような社会構造が続いた。その結果、社会の意思決定権を持つ立場には男性が多く、「男が上」という勘違いが生まれたのかもしれない。

 自分の中では相手の性別によってコミュニケーションの取り方を変えている意識はない。相手が誰であっても、大切なのは、自分が話したいことを一方的に話すのではなく、相手が話したいことも話せるように意識することだと思う。

 自分が何か話したら、やんわりと質問を入れるなど、当たり前のやり取りをしていればマンスプレイニングになることはないと思う。


暴力は絶対に容認できない

 ここまで書いてきた流れから分かると思うが、いかなる理由があっても暴力は絶対に容認できない。

 ケガの有無や頻度の問題ではない。暴力は相手の存在を軽視するからこそ、振るえるのだと個人的に思っている。相手を尊重し、対等な存在と思っているなら、暴力を振るうことは難しい。もし手や足が出てしまうなら、それは相手のことを思っているからではなく、自分をコントロールできていないからだ。

 日本では今、体罰がニュースになっているようだが、子どもに対しての暴力はもってのほかだろう。「しつけ」としての暴力が容認されてきた歴史があるが、「愛のムチ」は存在しないと考えている。子どもは、1人の人間として大人と対等に接することで、人付き合いを学んでいくのではないだろうか。


自分への意識付け

 日本のニュースを見て、妻もかなり憤りを感じていた。「子どもは親の所有物ではない」と強く話す姿を見て、私が普段から感じていた「男であること」についても交えて書いてみた。

 他人とは話しづらい話題ではあるが、こうして口に出したり書いたりすることで、改めて自分のふるまいを見直す機会とした。社会に存在する1人として、真っ当に生きたいと思う。



きょうの1曲

You Don't Know What Love Is - Sonny Rollins
「きょうの1曲」をまとめたYouTube再生リストはこちら



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