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生きづらさを巡って

 「生きづらさ」という言葉をよく目にする。それは他人事ではなく、私自身も感じることがある。

 「今」は何とか踏みとどまっているが、一寸先はどうなるか分からないという不安は常にある。そこまで思い詰めているわけではないが、生きながらえているのは、偶然にすぎないのかもしれない。

 病気になったら?大きな事故に遭ったら?明日はどうなるか分からない。そんなことばかり考えていたら、まともな精神ではいられなくなるだろう。


生きづらさの輪郭

 正気でいられるのは、日本では社会保障のシステムが整っているからだと個人的には感じている。制度がどれほど機能しているかについては多様な意見があるが、今は制度に頼らなくても大丈夫な人でも今後どうなるかは分からない。誰もが支援の対象になり得るということである。

 それなのに、何となく生きづらさや居心地の悪さを感じる。それは、「自分とは関係ない」と決めつけてしまったり思い込んでしまったりする想像の欠如からくる気がする。仕組みがあっても想像が追いつかなければ、支え合う感覚は生まれにくいだろう。


「生まれの偶然性」

 先日まで岩波新書の一部がkindle unlimitedの対象となっており、5冊読んだ。その中の1冊に、「生まれの偶然性」という言葉をキーワードに挙げている本があった。

 国連日本政府代表部人権人道問題担当専門調査員などの経歴がある橋本直子さん著の「なぜ難民を受け入れるのか──人道と国益の交差点」という本で、難民に関する基礎知識や各国の状況などを解説していた。

 個人的に興味深いと思ったのは、「生まれの偶然性」が難民保護の文脈で登場したことである。日本国内では、数年前に「親ガチャ」という言葉が話題になった。子は親を選べないため、自分の人生が家庭環境などに左右されるという文脈で使われる。これも一種の「生まれの偶然性」であり、共通点を感じた。


偶然が社会に落とす影

 私は前職で子どもの貧困問題の取材をしていたことがあるが、その分野では「貧困の連鎖」が大きな課題の1つとされている。親の困窮が子どもの生育環境に直結するため、子どもも将来的に貧困状態になりやすいということだ。自分の「努力」によって人生を変えられると思っている人も多いが、努力できる環境にいられないこともあることを理解する必要がある。

 私たち夫婦に子どもはいないが、いち大人としてそういった環境に子どもがさらされることは受け入れがたい。そもそも、子どもが大変な環境の下で生活していても、それが「普通」だと思っていて、子ども本人が状況を理解できないこともある。子どもは自分の世界を比較する術を持っていない。必要なのは、それを前提として、家庭にとどまらず社会全体で子どもを育てていくという視点だと思う。


社会の生きやすさは自分の生きやすさ

 ここまでは「生まれの偶然性」に引き付けて考えてきたが、生きていく中では、大人でもさまざまな「偶然」に左右されるものである。

 大きな範囲では戦争や災害、小さな範囲では事故や病気など、少し想像するだけでも一個人がコントロールできない偶然があることが分かる。だからこそ、どんな偶然があっても生きていける世界や日本、社会になってほしい。

 生きづらさや苦しさは、自分だけが感じているわけでも、自分だけのせいでもないと考える。他人の痛みや苦労に寄り添う意識を多くの人で共有できれば、結果的に皆が生きやすくなり、ひいては自分が生きやすくなることにつながると思っている。


ジョージワシントンブリッジと奥に見えるマンハッタンのビル群。がっしりした鉄骨の橋脚が大都市の動脈を支えている



きょうの1曲

Close To You - Lady Gaga
「きょうの1曲」をまとめたYouTube再生リストはこちら



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