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人事部付 真田雪乃の議事録<1-8 キッチンは90センチ>

前回までのあらすじ
シロヤマ・コーポレーション本社で「人事部付」として働く新卒1年目の真田雪乃さなだゆきの。同期で友人の丸田茉莉也まるたまりやが営業所で過重労働に追われていると知り、現場の実態を学ぶべく南花営業所を訪れる。だが、営業の門倉からは容赦ない本社批判が浴びせられ、慣れない電話応対にも巻き込まれる。ようやく対応を終えた雪乃に向けられたのは、助け舟を出したはずの営業・森川の、鋭い眼差しだった──。
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第一章 ホワイトな本社 ブラックな営業所

第八話 キッチンは90センチ

「ご…ごめんなさい…私、何も…勉強不足…」

森川さんにまで睨みつけられて、必死で謝ろうとするのを遮られた。

「だめですよ!門倉さん!それってただの意地悪じゃないですか!」
雪乃はようやく腑に落ちた。森川さんが睨みつけていたのは、雪乃…の先の門倉さんに向けてだったのだ。

「だって…自分で探さないと、意味ないだろ?俺らがずっとついていられるわけじゃないんだし」
門倉さんがぶっきらぼうに言った。

「そんなの、徐々に覚えていけばいいじゃないですか」
門倉さんに反論すると、森川さんは快活な笑顔になって雪乃に向き直った。
「真田さん、今みたいに大きい声で言ってくれたら教えてあげられるから。また、電話出てくれるとこっちも助かるなー!真田さんも、実際出てみたら、勉強になると思うよ!」
「は…はい!かしこまりました!」
「いいお返事だ。そうだ、真田さん、今からお客さんを案内するんだけど、ちょっと一緒に来てくれない?」
「え、いいんですか!?ぜひ!」

「さっきはごめんね!門倉さん、悪い人じゃないんだけど、癖強くて…あとなんか焦りもあるみたいで…!」
営業車の助手席に乗り込んだ途端、勢いよく森川さんが謝ってきた。雪乃は逆に恐縮してしまう。
「え…!いやいや、森川さんが謝ることじゃないですし…門倉さんのおっしゃることも…耳の痛い話ではありますが…本当のことだと思います」
「真田さんってほんといい子だね。今回も、自分で行きたいって言ってきたんでしょ?」
「そうなんです…実は、丸田さんが同期で」
「そうなんだ!あの子もねー頑張り屋さんだもんね。心配になるぐらい。」

その後、近くのコンビニに寄り、雪乃の分もサンドイッチを買ってくれた。「すみません…ご馳走になります…。」
「いいえ、って逆にこんなのでごめんね!」
お互いに恐縮し合いながら、サンドイッチをかじる。

「お昼は…いつもこんな感じですか?」
「そう、これでもいい方なの。繁忙期入ったら、もうコンビニに寄る暇もないし、ずっとぎっしり接客が詰まってるから、食べる時間もほとんどない」
「大変です…繁忙期、始まりますもんね。営業所にいる時も、食べられないものですか?」
「そうだねー。ま、サービス業だししょうがないよ。営業所の人は、大体朝ごはんめっちゃ食べてる」

そう言って森川さんが笑ったとき、雪乃は不意に、胸がちくりと痛んだ。
本社では、大抵の部署がきっちり1時間休憩を取っている。居酒屋でランチを楽しんだり、お弁当を食べてから残りの時間を本屋で過ごしたり…雪乃にとって、それは「働く人の当然の権利」だと思っていた。けれども、昼食ひとつとっても、本社と営業所では「当たり前」がまるで違っていたのだ。

「わあ、ごめん真田さん。そんな深刻な顔しないで、ちょこちょこおやつとかも食べてるから、ね。大丈夫だから」
「そ…そうなんですか?栄養とか…」
「栄養ねー、取らないと、とは思うんだけど。ま、しょうがないよね」

雪乃は「議事録」に走り書きをした。

森川さん 営業所の人 お昼食べられない時ある

営業車のエンジンが低く唸り、コンビニの駐車場から発車する。森川さんの運転は滑らかで、これまでに同乗した誰の車よりも安心感があった。

「お客さんを乗せて走る時は、物件のこととか話しながら運転するの」
「運転しながらですか…かなり運転上手くないとできないことですね…!」
「うん、最初の頃は話に夢中になって、車ぶつけちゃったこともあって。事故にはなんなかったけど…あの時、所長にめっちゃ怒られたなぁ〜」
森川さんは苦笑いをしながら片手でハンドルを動かしていた。

10分ほど車を走らせると、カーナビが目的地を告げた。近くのパーキングに車を止めてしばらく待っていると、シルバーのセダンが滑り込んできた。そこから現れたのは、30代くらいの夫婦らしき男女。紺のトレーナー姿の男性は、穏やかな雰囲気だ。ベージュのワンピースをまとった色白の女性は、こちらへ歩いてきた。

森川さんが「熊田様ですか?」と声をかけ、お辞儀をする。雪乃もすぐに頭を下げた。

熊田夫妻は、結婚に向けての新居をいくつかの不動産会社で探しているところらしい。雪乃は森川さんに「何か手伝えることはありますか?」と囁いたが、「特にないかなあ!今日は見学って感じで!」と言われていた。そこで、森川さんと熊田夫妻の少し後ろを控えめに歩いた。

森川さんは熊田夫妻との会話を弾ませている。熊田夫人の言葉に、「そうですよねー!」と明るい声で相槌を打っていた。

物件名は「ヴィラ・アスカ」というらしい。小さな、数室だけのアパートだったが、室内は清潔感があり、何も置かれていないことが、より一層光を引き立てていた。

空室の部屋に熊田夫妻の声が響く。
「悪くないお部屋ね」
「前のところよりいいかも」
他の不動産屋も内見してきたらしい。

「わあ…すごくちょうどいいキッチン」
声を上げたのは熊田夫人だった。彼女はL字型のキッチンのシンクで手を洗う仕草をしている。

「このマンションは、キッチンの高さが一般的なものと比べると少し高めの90cmなんです。一般的なものは85cmなんですが…」
「だからかー」

森川さんも背が高いので気づかなかったが、改めて眺めると熊田夫妻は二人とも背が高い。夫人は170cmを越えているであろう。

「バレーやってたんですよ。こっちの方の」
熊田夫人が手を上げて、トスのポーズをした。ふわりとした袖が腕まで下がる。
「だからっていうより、背が高いからバレーやってたんだろう」
「バレーやってたら伸びたんだもん!キヨくんだってそうでしょう?」
「俺は、背が高いからやってたんだけどね」
「でもキヨくん中学で30cmぐらい伸びたもんね」
「それは…成長期だからだよ!」

いかにも仲の良さそうな他愛無い応酬に森川さんがクツクツと声を立てて笑うと、夫人が少し恥ずかしそうにする。
「ああ、ごめんなさい...そうそう、それでなかなか合うキッチンが見つからなくて...」
「高さが合わないと、料理するときしんどいですもんね」
「賃貸だから妥協した方がいいのかなって思ってたんですが...この高さは本当に最高、推せます」

その後、居室や洗面所を確認し、一つ一つに声を上げて夫婦で会話を挟みながら、すべての部屋を一周回り終えた。森川さんに熊田夫人が声をかけた。

「すごくよかったです、なんかドアの上のところにもぶつかりにくくて」
「オーナーさんも背が高いみたいなんですよ」
「なるほど...私たちと一緒ですね。あの、ここ...申し込みしたいんですけど...」

営業にとって一番嬉しい瞬間のはずなのに、森川さんは意外にも淡々としていた。

「気に入っていただけてよかったです。このあと、営業所の方でお申し込み手続きを進めますので、車でご一緒に移動していただけますか?」

森川さんと雪乃は営業車に乗り込んだ。シートベルトを締めたあと、森川さんはミラー越しに熊田夫妻の車を確認して、運転席の窓を少し開けた。

「なるべくゆっくり走りますね。安全運転でついてきてください。もしはぐれちゃっても、すぐ連絡しますから、安心してください」

森川さんは、バックミラー越しに熊田夫妻の車を確認しながら、スピードを少し落として車を走らせていた。
「内見、初めてで、すごく勉強になりました」
「初めてなんだ!営業じゃないと同行もないもんね」
「森川さんと、お客さんとの信頼関係がすごいなって…思いました」
「そんなことないよ!たまたま、新婚さんだから、話が合っただけ」
そして、何かのついでのように、「私、今度結婚するんだ」と言った。
「え…そうなんですか…!おめでとうございます!」
今朝、顔を合わせたばかりなのに、結婚報告はこんなにもうれしい気持ちにさせられてしまう。
「式も、予定されているんですか?」
きっと、どんなドレスでも似合うんだろうなと思いつつ尋ねた。

しかし森川さんは、「あー...」と言い淀み、少し苦笑いした。
「私、妊娠してるから、式は今度にしようと思って」

「え...ええっ!そうなんですか!」

さすがにお祝いの気持ちよりも驚きが勝ってしまい、雪乃は助手席で文字通り飛び上がった。妊娠初期なのだろうか、見た目からは全然わからない。

「あはは、まあいわゆるデキ婚ではあるんだけど...」
「いえっ!!…重ねて、おめでとうございます!!ただその...ご体調とか.…..運転とか...大丈夫なんですか...?」
「うん。幸いうちは大丈夫な方だから、所長に言って続けられる時まで続けたいなって思って」

「そんな…。」

雪乃には、妊娠に関する知識は通り一遍しかなかった。それでも、お腹が目立たない初期には体調を崩しやすいことや、無理をしてはいけないことくらいは知っていた。お昼ご飯も食べられない時があるほどの忙しさの中で、車を運転して遠くまで行き、お客さんと接する仕事を続けるのは、あまりにも危険な気がした。

二の句が次げずにいると、森川さんが続けた。
「事務の、水嶋あおいさんって知ってる?」
「あぁ、はい。茉莉也…丸田さんの先輩ですね」
「元営業でさ、うちの先輩なんだよね」

「そうなんですか!」

「今もだけど、すごい仕事できる人。とにかくお客さんへの寄り添い力が半端なくてさ。売上トップではなかったけど、お客さんと信頼関係を築いて、次の引越しの時も覚えててくれて指名されたり。営業の名前覚えててくれるなんて」
「それは…すごいです」
「水嶋さんもね、出産しても続けようとしてたんだよ。でも、時短勤務でもノルマは変わらないから...時間制限があって、ノルマ達成できないのが続くと申し訳ないから...って営業事務に移った」

そして、森川さんは溌剌と続けた。
「だからさ、もう頑張りたくても頑張れなくなるかもしれないから、今いっぱい頑張っとかないと!」

その明るい声に、かえって胸が痛んでしまう。

産休育休制度が整っていて、出産後の復帰率も90%以上を誇るシロヤマ・コーポレーションは、「子育て世代に優しい」会社で、むしろそれを強みにしている…というのが雪乃の認識だった。

しかし、制度だけ整っていても、実際は使えない形になっている。
そのために、続けることを諦めざるを得なかった人がいる。
そして、身を削って働いている人がいる。

本当に、それって、整っているのだろうか?

その構図に、既視感を覚え胸がざわついた。

(茉莉也の時と、一緒だ…。)

どんなにクリスマスイブに休んでほしいと願っても、仕事が残っているから休めない。だから、制度が機能していない。

会社である以上、ノルマや仕事があるのは当たり前だ。
しかし、その現実を無視した働きやすさは、本当にその人のためになっているのだろうか…?

考え込んでしまった雪乃を見てか、森川さんがまた笑った。

「ごめんごめん、また、そんな深刻な顔しないで!頑張るって言っても、結構この仕事、楽しんでるからさ!」
「そうなんですか…?」
「お客さんのことが、大好きなの…!」
雪乃は夢中で話す森川さんの横顔を見つめた。

「今日の熊田さんご夫妻もね、お料理が大好きなご夫婦なの。もう休日はあらゆる国の料理作って、お酒と一緒に楽しむみたい」
「すごく楽しそうです!」
「それでね、一日の大半をキッチンで過ごすような方たちだから、台所にこだわってて...将来的に家も建てたいっておっしゃってるんだけど、それまで賃貸で、ってなるとなかなか見つからなくて...って聞いたら、なんかすごくいいキッチンのお部屋、見つけたくなっちゃって、頑張っちゃった」
「きっと、嬉しかったでしょうね」

「もう友達みたいになっちゃってさ。友達に、何かしてあげたい時って、それが独りよがりだったとしても、なんか頑張れちゃわない?」

そんなことを言われると、いてもたってもいられなくなった。

「私も…森川さんのために…頑張りたいです!」
「友達と思ってくれてるの…?嬉しい。」

雪乃は首を振りながら、言葉を絞り出した。
「や、失礼しました…私、一応人事…の近くにいるので、その時短ノルマ問題…なんとかできるかもしれない…いや、します!だから…無理しないで、体削らないで…ほんと、大事にしてください!」

森川さんは、前だけを見ていた。
その顔は、もう笑っていなかった。

「…わかった。なんか真田さんって、私と似てるよね」

育休復帰後 時短の時 営業のノルマ 変わらない 
↑なんとかする

営業所に到着すると14時前だった。熊田夫妻を席に案内した森川さんはいくつかの書類を添えて申込の説明を始めた。営業所は相変わらず電話が鳴り響いているため、雪乃は空いている席で電話番をすることにした。

本社にいる時は、電話が鳴るにしてもほとんどが内線だ。外線に最初は緊張していたが、何度も受けているうちに慣れてきた。ワンコール鳴り終わらないうちに、食中植物が獲物を狩るように素早く受話器をあげるまでになった。ホワイトボードのどこに何が書いてあるかも把握できるようになった。

「はいシロヤマ・コーポレーション南花営業所です」
「あー…コレイイ不動産南花店ですけどーヴィラ・アスカって空いてますかー?」

ヴィラ・アスカ。どこかで聞いたことがあると思ったら、先ほど森川さんが熊田夫妻を案内して、今まさに申し込みをしている物件だ。

「ごめんなさい、今申し込み…」と言いかけて、ホワイトボードを見た。

302号室は今、まさに申込中だが、隣の303号室は空室となっている。「あっ…303号室なら、空いております」
「ありがとうございます〜、あの...わかればでいいんですけど、キッチンって...85cmのタイプですか?旦那さんが大柄な方なんですけど、お料理が趣味みたいで...」
こんなことってあるんだろうか。雪乃は先ほど見た光景を頭に浮かべながら答えた。
「あっ...キッチンですが、90cmのタイプです。全体的にお部屋も大きい作りになっているので、よかったらご案内ご検討ください」
「ありがとう、助かりました。ご案内してみます!」

受話器を戻すと、所長がうんうんと頷いていた。
「真田さん、もうさ、うち来て電話番やりなよ!」
「あ...いえいえ、今のはたまたま...です」

恐縮しながらも、気持ちはうわずった。物件のことが頭に入っていると、こんなにも電話は取りやすいのだ。

(でも、私がいられるのは…今日だけ)

デスクでノートパソコンと書類を交互に見る茉莉也の背中を見つめる。
雪乃が営業所に戻った後も、茉莉也は雪乃の方を、一度も振り向くことがなかった。

今日だけ役に立っても、明日からまた営業所は忙しい。
茉莉也の負担も、営業所も、変わらないだろう。

大量の電話、森川さんの言葉から、雪乃自身が営業所の実態を把握することはできた。本社にいたら絶対に知ることはなかった。
しかし…雪乃自身が学ぶことはできたが、南花営業所の役には立てていない。これから繁忙期が始まれば、もう営業所をしばらく訪れることはできないだろう。

「真田さん、何しに来たんだ?」
今朝放たれた門倉さんの言葉が、刺さって取れない。
自分は一体、何をしにここに来たのだろう。

雪乃は、「議事録」の表紙を眺めた。

(…これだ。これしかない。私にできるのは…)

雪乃は深く息を吸ってから、席を立って、島崎所長のデスクに向かった。
「島崎所長…!少し、お時間よろしいでしょうか?」
島崎所長は驚いて、顔を上げた。

第九話に続く)

#創作大賞2025 #お仕事小説部門



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