泥のなかの水葩(みずばな)#1 第一章:淡緑(たんりょく)の初恋 ――白いマフラーの誓い

藍沢 澪『泥のなかの水葩』- みずばな -
Theme Music by LèRê
感情作家としての言葉の世界に、息を吹き込むような最高のテーマ曲が完成しました。
ピアノとギターの繊細な響きが、物語の輪郭を浮き彫りにしていきます。
Sound on でお楽しみください 🎧
小学五年生の時の湊くんは、私よりもまだ背が低く、ガラス細工のように美しい少年だった。
「湊くんは、私のことが好きだよね?
私は、湊くんが好き!」
「……葩(はな)ちゃんって、本当に積極的だよね」
少し困ったように笑う湊くんを見て、
私はすでに、自分の魅力を自覚しているような、
積極的でおませな女の子だった。
学校での私は、学級委員を務めるほどの人気者で、いつも活発で、明るい未来だけを信じているように振る舞っていた。
誰も私が、
家に帰れば父親からの激しい暴力に怯え、
暗い自室で一人、
身体の痛みに耐えながら息を潜めている子供だとは夢にも思わなかっただろう。
学校の光が強ければ強いほど、家の影を消し去ることができると信じていた。
しかし、小学六年生の終わり、卒業を控えた春に、最初の絶望が訪れる。
「お母さん、もう限界なの。葩ちゃんを置いて、ここを出ていくわ。ごめんね……
葩ちゃんを連れて行くと、お父さんがどこまでも追いかけてくるから」
泣き崩れる母親の足元で、私は嗚咽し、過呼吸になるほど泣き叫んだ。
「お母さん、行かないで! 葩を置いていかないで!葩も連れて行って〜お願い!」
あれほど母を庇って、身代わりになって痛みを受け止めてきたのに。私の痛みは、母を繋ぎ止める免罪符にはならなかったのだ。
母が私のために残した最後の優しさは、
中学の入学式だった。
桜の木の下、二人で撮った写真の中の母は、
悲しいほど綺麗に笑っていた。
――その夜、母は本当に家を出て行った。
絶望と暗闇の中に残された私は、
地獄の家に一人取り残された。
中学生としての生活が始まり、
最初に突きつけられた現実は
「お弁当がないこと」だった。
周りの女の子たちは机を合わせ、
可愛いハンカチに包まれたお弁当を広げている。
卵焼きや肉巻きソーセージの香ばしい匂いが
私のお腹を鳴らす。
「グーーっ」恥ずかしくてたまらず、
私はお昼休みになるといつも、
校庭へ逃げるように飛び出していた。
父親は、そんな私のひもじささえ知らなかった。
部活動で帰りが遅くなれば、
「こんな時間まで何をしていた!」と
玄関先で怒鳴り、暴力を振るう。
テニスの大会で三位になり、
震える手で差し出したトロフィー。
少しは喜んでくれるかと思ったのに、
父はそれを投げつけ、無残に折り砕いた。
あまりの悲しさに、私は家を飛び出した。
捕まったら折檻が待っている。
逃げなきゃ、走れ、、、どこまでも。
暗闇の中、月明かりだけ、裸足で走った。
必死の思いで辿り着いた先生の家。けれど先生は、私を連れてあの恐ろしい家へと引き返した。
帰りたくないと泣いて抵抗しても、
結局、
またあの地獄へ戻されるだけだった。
それでも私を支えていたのは、
湊くんの存在だった。
もうどこにもいない母から教わった
手つきを思い出しながら、
私は彼のために白いマフラーを編んだ。
一針、一針、孤独を埋めるように。
中学三年の冬、湊くんの誕生日。
私は彼に手紙を添え、
放課後の公園に呼び出した。
白い雪が積もる中、ブランコに座って彼を待つ。
「葩ちゃん、待った?」
駆け寄ってきた湊くんは、
どこか大人っぽく見えた。
真っ白な手編みのマフラーを差し出すと、
彼は「ありがとう……」と視線を落とした。
「私、ずっと、湊くんが好きだったよ。……湊くんは、好きな人いるの?」
顔を赤らめ、思い切って告白した私に、
彼は言った。「ごめん、他に好きな人がいるんだ」
彼が口にしたのは、誰もが羨むような、
育ちの良い「お嬢様」の名前だった。
真っ白な肌、いつも綺麗な服、おとなしい笑顔。
私とは正反対の世界に住む女の子。
私の初恋は、一瞬で、儚く粉々に砕け散った。
その時、私は悟ってしまったのだ。
彼は私自身の内面を拒絶したのではない。
私の背後にへばりついている、崩壊した家庭、
貧乏、虐待、母親の失踪という「血の匂い」が、
無意識に彼を遠ざけたのだと。
公園のベンチで、
突き返された白いマフラーを握りしめながら、
私の心の中で何かが冷酷に弾けた。
(お嬢様に負けないくらいの、
大人の美しい女になってやる。
歪まず、真っ直ぐに育って、
あいつらを見返してやるんだ)
それは、悲しい復讐の誓いだった。
真っ直ぐに生きようとする強い意志の裏側で、
私の身体の奥深くには、誰も埋めてくれなかった「母への飢え」と「世界への憎悪」が、
黒く、深く、とぐろを巻き始めていた。
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