創作大賞2025参加 : 神の器 特別編「幻燈の館」【第9話/前編】「尊厳の寓話」
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【登場人物】
間宮 真(まみや まこと) 硬派な職業探偵。
神依 典彦(かみより のりひこ)語り手。
神依 春一(かみより はるいち)典彦の兄。
真崎 美緒(まさき みお)知的で堅実な女性。
【前回のあらすじ】
通信遮断の裏に人為的な工作が発覚し、空気は一変。元刑事・間宮の主導で始まった持ち物検査が、個々の価値観と内面を映し出す。荻原の鞄から現れたルビーのイヤリング。死んだ朝比奈の持ち物だったそれは、新たな疑惑を呼ぶ。
【第9話/前編】尊厳の寓話(典彦視点)
「愛は人を救いもするが、最も精緻な毒にもなる。」
奇妙な視線
「……とりあえず、手荷物は確認したな」
間宮が重たいため息を漏らす。その声音に、これまで無言で従ってきた全員の疲労と困惑が凝縮されていた。
リビングに立ち込める空気は冷たく、濁っていた。まるで、誰かが隠し持つ悪意が、じわじわと部屋の隅々まで染み込んでいくようだった。
誰もが黙ったまま、目を合わせようとしない。口を開けば、何かが壊れそうだった。
椅子のきしむ音さえ大きく響いて、耳に障る。
「このままじゃ身も心ももたない。少し休憩しよう。嵐の中、動けるわけでもないしな」
間宮の声は低かったが、断言するような重みがあった。
誰一人として反論はしなかった。できなかった、というのが正しいかもしれない。
座り込む者、無言で窓の外を見つめる者、ソファに背を預けたまま天井を仰ぐ者、うろうろと歩き回る者。
張りつめた気配だけが、部屋に満ちていた。安堵ではなく、嵐の只中で一時的に得た擬似的な平穏。嵐がやんだわけでも、出口が見えたわけでもない、宙ぶらりんな緩衝地帯だった。
「……電気は完全にアウトだけど、水は出るんだな」
羽賀の声がして、ぽたぽたとした滴の音がリビングに響く。彼は部屋の隅にある、小さな配膳口の扉を何気なく開けたらしい。中には簡素な流し台があり、蛇口がひとつ取り付けられている。
全員の視線が、音の方へと自然に集まる。
榊原が小さくうなずいた。
「ああ。この館、昔ながらの重力タンク式なんです。だから、上の階に溜めてる分だけですけど、使えます」
間宮が、忠告がてら短く頷いた。
「飲むのはやめておいたほうがいいだろうが、とりあえず手を洗えるだけでも助かるな」
俺も水音に耳を傾けながら、引っかかりを感じた。
今回は〝調査のために参加した〟と言っていた榊原の口からは、当たり前のように、館の構造の説明が次々と出てくる。
俺は、春一へと視線を移す。整った横顔は陶器のように美しく、ひどく儚く思えた。
ふと、抑え込んでいた激しい不安が口をついて出る。
「春一。なあ、本当に大丈夫なのか。代崎はこの館の調査中に昏倒して入院までしたんだぞ。そんなところに閉じ込められるなんて」
言いながら、声がわずかに震えた。
彼の中で何かが軋む音がしたような気がして、胸が痛んだ。
けれど、俺の言葉を聞いた春一は、ふっと目を伏せるようにして、少しだけはにかんだ。その微笑みは、どこか透明で、目の奥に残像のように焼きつく。
兄はきっと、本当はとても強い人なのだ。だが、青い瞳が伏せられると、哀しみが溢れて見えて、胸が締めつけられた。
けれど、顔を上げた春一は表情をふわりと綻ばせた。見つめ返した瞬間、何か硬質な、美しいものに心を射抜かれた気がした。
「心配しないで。……あのね。俺は、典彦がいるから大丈夫だよ」
華奢な輪郭と整った目元がその笑みに柔らかく照らされて、不思議と胸のざわつきが静まっていく。
そしてその言葉が、妙に真っすぐに胸に刺さった。彼が普段、感情を言葉にすることが少ないからだろうか。
そのとき、視界の端で何かが動いた。
目を向けると、真崎がこちらの様子をじっと見ていた。俺たちの会話を聞いていたのだろうか。
彼女は何も言わず、ふっと目を伏せた。その仕草には、まるで、置き去りにされた者のような、奇妙な寂しさが滲んでいた。
真崎の奇妙な視線に、やけに息苦しい、後ろめたい気分になった。
「ちょっと、外の空気吸ってくるな」
春一に告げて、俺は席を立った。廊下に出て、頭を冷やしたかった。
自分でも、なぜこんなに動揺しているのかわからない。
ただ、胸の内に渦巻くものを、誰にも見せたくなかった。
全員がリビングに集まり、その中には間宮もいる。春一ひとりでも危険はないはずだ。
見捨てられた者たち
リビングに戻ると、先ほどまでの場所に、春一の姿が見えない。
微かな声が聞こえた。
その方向に目をやると、窓際の小さなソファに、春一と真崎が並んで座っていた。近づいて、少し距離をとった位置で立ち止まる。静まり返った空間では、小声でも耳に届く。
盗み聞きをしているようで後ろめたさを感じたが、俺はその場を離れる気にはなれなかった。
今この状況で、春一を真崎と二人きりにするのが、どこか危ういように思えた。理由を問われれば答えに窮する。だが、あの女はまだ「容疑者の一人」だ。
そうでなくとも、春一が、誰かにあんな顔で微笑みかける姿を見るのが、どうしようもなく落ち着かない。
「弟さんと仲がいいのね」
真崎の声は、これまでのどこか淡白な印象とは違って、驚くほど柔らかかった。濁りのない、真っすぐな音色。まるで別人のような声音に、思わず耳を傾けてしまう。
春一は少し間を置いてから、静かに答えた。
「うん。俺の生まれた村ってちょっと変わっててね。とても閉鎖的で古い信仰が現代まで残ってた。それで、生贄っていうのかな」
背筋がすっと冷たくなった。思わず息を呑む。
春一の口からその話題が出るとは、思ってもみなかった。
「厳密には違うんだけど。まあ、そういう感じのやつで。昔、村中の人に、ああ、両親も含めてね。殺されそうになったことがあるんだ。でも、典彦が助けてくれた。典彦が間に合ってくれたから、こうして生きてるんだ」
その言葉は、まるで石を落とした水面のように、俺の心に波紋を広げた。
あの出来事を、春一が、こうして初対面の誰かに語る日が来るなんて思っていなかった。
春一にとっては、今でも癒えていない傷のはずだ。
それをよりによって、こんな場所で語るなんて。
割って入ることもできず、ただその場に立ち尽くす。
戸惑いなのか、嫉妬なのか、自分でもはっきりしない。感情がどう動いているのか、自分でもうまく理解できなかった。
春一の言葉を遮ることもなく、ただ静かに聞いていた真崎が呟く。
「そう。……間に合った。だから生きて……」
表情はうかがえないが、彼女の背筋はわずかに丸まり、手のひらは膝の上で固く握られていた。
それは、驚きなのか、哀れみなのか、それとも共鳴なのか。
わからない。わからないが、春一が真崎に心を開いていることだけは、はっきりとわかった。
そして、もう一つ気づいたことがある。
真崎美緒の外見は、言葉を選ばずに言えば「地味で冴えない女」だった。同世代の雪野と並べば、その差は一目瞭然だ。
雪野はいわゆる「丁寧な暮らし」とやらの広告に出てきそうな装いをしている。真っ白なノーカラーのファーコート、白のブラウスにベージュのロングスカート。薄い紫のぺたりとした靴に、少し年季の入ったChlorisのバッグ。艶のある茶髪に、丸く整えられた爪、手荒れ一つない肌。
一方の真崎は、毛玉の浮いたグレーのカーディガンに、擦れた合皮の靴と鞄。いずれもくたびれ、端が少し剥げていた。髪も手も、手入れが行き届いているとは言いがたく、顔立ちも平凡だった。
それでも、上京当時の俺が見ていた〝貧しさ〟とは異なる空気を、彼女からは感じた。
不思議だった。彼女の印象には、視覚的な「冴えなさ」とは裏腹に、どこか目を引くものがある。華やかさも、会話の個性もない。違和感の正体が、うまく言葉にできなかった。
だが、春一と並ぶ真崎を見て、今、わかった。所作だ。彼女が風貌に反して、「冴えない女」、そんな印象を与えない理由。所作に、粗雑さがひとつもない。かつて厳しく躾けられた春一は、無造作に振舞ってみせても常に麗しく気品がある。
真崎には、それに通じるような品があった。指先は細やかに動き、足音は立てないように配慮しているかのように軽やかだ。話す時の声の抑揚も自然で、決して声高に自己主張しようとはしない。
……だが、察する生活レベルを考えると、その所作とのちぐはぐさが気になった。
まるで「決して、見苦しくはならないように」と、きちんとした教育をしっかりと受けた時期がある、そうとしか思えなかった。
これじゃあ完全に盗み聞きだ、そう思いながらも、どうしてもその場を離れられなかった。
春一はじっと真崎を見つめていた。その透き通った無垢な瞳に向かって、真崎は、唐突に、思いがけない告白を始めた。
「私は誰にも選ばれないの」
真崎が、静かに目を伏せた。
「丁度、1年くらい前かな、赤ちゃんを流産したの。颯真さん、恋人はね、赤ちゃんができたとわかって、結婚しようって言ってくれたのよ。流産した後も」
「……そうなんだ」
春一が小さな声で、優しく相槌を打っている。
「でも、ご両親に反対されたから。私が孤児、だったから。それに……」
「……それで、結局、別れた」
真崎の声には、怒りと悲しみが入り混じっているように思えた。
「反対し続けるご両親と戦うことに疲れちゃったんですって。わかるわ。結婚する理由もなくなっちゃったし、祝福されない結婚なんてしたくないわよね」
徐々に真崎の語気が強くなる。彼女の話す内容に、聞いているだけで胸が重くなった。
「美緒さんは、誰に選ばれたかったの?」
春一が、真崎に静かに尋ねた。
「……お母さん。14年前、溜め込んだ薬を沢山飲んで、お酒を飲んで、自殺したの。どうしても死にたかったんだわ」
2人の間にしばしの空白。そして真崎は再度、語りだした。
「どうして、私のために、生きてくれなかったの、って。私を選んでくれなかったのって。ずっと」
「それから?」
真崎は少し息を吐いてから、ぽつりと言った。
「赤ちゃん。赤ちゃんも、私なんかのところに、生まれてきたくなかったんでしょうね。 ……だって、私は……」
真崎のあまりにプライベートな話を盗み聞いてしまった罪悪感が激しく沸き起こる。
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