そこにいるだれかと我らの未来のために【1】
【1】
いつものようにKが先頭に立ち、背後に向かって視線とわずかな首の動きだけで「行くよ」と合図をした。背後に並んで立っているふたりがうなづくのを視界の端に感じつつドアに向き直った拍子に、ポニーテールにまとめた黒髪の先がちょっと跳ねる。
Kにはなぜか中指の第二関節の背でインターフォンやらその他のボタンを押す癖があり、それについては、周囲が一度ならずも理由を尋ねたのだが、彼女が自称する“K”同様、明確な答えが返ってきたことはなかった。命を吹き込まれがばかりのゴーレムを思わせる、不明瞭な唸り声が何度か生じただけだ。
彼女には興味深い癖がたくさんある。だがどれもこれもわざわざ指摘するまでもない、日常にうまく溶け込んだ少々の無害なこだわりで、だからそのときは見過ごされがちなのだ。二、三度見て初めて、ああ以前も彼女はこんなことをしていた気がする、と気づく程度の。
そういえば、自分の名前をいちばん最初にニックネームで呼んだのも彼女だった、といまではKからだけでなく皆からジェムと呼ばれているジェイミー・“ジェム”・ヒューズは思い返していた。まったくの初対面だったのに、物怖じした態度を微塵も見せずまっすぐにジェムのグリーンの目をじっと見つめ、言った。 ブルーの髪が似合ってるね、ジェム。そう呼んでよければ。
彼はその呼び方をすんなりと受け入れた。正直なところ、気に入ってもいた。ジェム。ほんのすこし伸びあがって、語尾と共に文脈の中に溶けていく響きがよかった。そう呼んだ人間がいなかったわけではなかったはずだが、なぜ今まで定着しなかったのかが不思議なくらいしっくりきた。彼女のアクセントのせいだろうか。どことなく、音楽的なリズムを舌先に乗せてしゃべるものだから。
それ以来、ジェイミーはジェムになった。
ジェイミーの髪の色はいまはブロンドに染まっているが、すこし伸びてきて根元がやや暗い。彼は頻繁に髪の色を変えている。日本に来たばかりの頃はブルー、半年前までは燃えるような赤で、その前の数カ月はいまよりもっと明るいブロンドだった。彼にしては結構長いあいだいまの髪色を楽しんだはずだから、もうそろそろ次の色に変わる頃合いだろう。
Kは一秒以上第二関節を押し当てて、耳をドアに近づけた。インターフォンはなんの音もたてておらず、部屋は静まり返ったままだったため、改めてドアをノックした。強く素早く四回。それでも反応がないからさらに四回、同じリズムをやってみた。
「留守か」ジェイミーがつぶやく。「裏口を見てこいよ、ラビットフット」
不意打ちを食らったトレヴァー・“ラビットフット”・マクドネルは、光沢のあるグレーのスーツの襟もとに汚れがついていないかどうかを気にしていた視線を素早く移動させ、なんでぼくが、という顔でジェイミーを見た。
ラビットフットは出会ったときからラビットフットで、ダークブロンドの長めの前髪をきれいにサイドに流した髪型もスーツ姿もずっと同じで、まるでそういうアイコンのような男だった。英語のアクセントも口の開きかたも気取った歩きかたも、悪態のつきかたや礼儀正しさすらも、イギリスの上流階級出身の男性を体現していて、商標登録でもされているのではないかというほど印象が変わらない。日本を一度も出たことがなく、山奥に住んでいてほとんど外国人と交流のない、この国に来る白人はみなアメリカ人だと思っているようなタイプの日本人でも、彼のことだけは二秒でイギリス出身だと見抜くかもしれなかった。
「なんでぼくが」と顔に書いてあるとおりに口にも出し、昨夜の雨でぬかるんだ、裏口につづく小道をいやそうに眺めた。トレヴァーはいまものすごく、ジェイミーのちょうどよい感じにウェーブをかけて無造作に仕上げてあるブロンドを、もっとぐしゃぐしゃにしてやりたくなった。「この靴がいくらすると思ってるんだ。トラウザーだって新調したばかりなんだぞ」
「遠足の日に高級スーツで来るやつの気が知れない」ジェイミーが冷たく言い放った。トラウザーってなんだよ、とも思ったが、長々と解説されるのが鬱陶しかったので黙っていた。要するにそれはパンツだろ?
「Kだってきょうはスーツだろ」トレヴァーが頭の動きでKを示す。
「Kはいつもスーツだろ」
「これはべつにスーツってわけじゃなくて、単なるジャケットとハーフパンツなんだけど」なんとなく主張をしなくてはいけない気がして、Kは咄嗟に差し挟んだが、ふたりが聞いているようには思えなかった。なにより彼女はおしゃれではなくて、毎朝洋服を決めるのが面倒だから、自分で制服を用意しただけだ。色は黒で、上下それぞれ三着ずつ持っている。インナーは白のシャツ、Tシャツ、タンクトップなど、伸縮性のあるものを。
「ぼくだっていつもスーツだ。いつもね」
案の定Kの言葉は無視され、トレヴァーは両手を自分の胸に向けて、彼女の倍以上の激しさで主張している。その姿は、今回こそは是が非でも勝利を収めたい連敗続きの弁護士なみに必死だった。
「昨日はもっとラフだったはずだ」
「昨日はこの地域に溶け込んでこの家 そう、まさにいまぼくらの立ってるこの家の周辺を見張らないといけないっていう使命があったせいだ。ぼくの格好じゃ上品すぎてセールスパーソンにはとても見えないから、地域に溶け込めなくてね。好きでスーツを脱いだわけじゃない」
トレヴァーの声がだんだん大きくなってきて、Kはすっかりうんざりしていた。もしこの家の主が隠れているのだとしたら、そろそろただの来客とは趣が違うことに気づかれた頃だろう。彼女たちはこの家の主を捕獲しにきたのだから、逃げられてはたまらない。あまり社交的ではなく、恋人も妻や夫もいない男がひとり、自宅以外の場所に隠れられては、探すのが面倒だ。
「ハイキングだろうが遊園地だろうが、ぼくはスーツで行くね。馬にもこれで乗るだろうよ」
「スーツの妖精かよ。それかイタリア人か」
「遠回しにイギリス人を馬鹿にしてるのか? イギリスこそ伝統的で美しいスーツの聖地だってのに! 美しいスーツはぼくの産まれたロンドンには存在しないとでも?」
「待てよ、おまえはノーフォークのなんとかって村の出身だろ」
トレヴァーは、たったいまゴミ箱から這い出てきたネズミでも見るような視線をジェイミーに向けた。
「わかった、わかったよ。産まれたのはノーフォークだけど、二年くらい過ごしただけでロンドンへ引っ越したから、ぼくの故郷はロンドンだ。いまここでだけは認めるから、ぼくがノーフォークのクソ田舎出身だって、大っぴらに言わないでくれるかな」
「おまえ、里帰りしたら袋叩きに遭うぞ」
「ティーンの頃何度か行ってみたけど、ぼくはもうあそこへは帰らない。なぜならあそこは……」
「なんだよ」
「あそこは、変人が多い」
ジェイミーは、トレヴァーをしげしげと眺めた。「だろうな」
「ぼく以外はっていう意味だ」
「それはどうだろう」
「いいね。笑えるよ、ジェム」
背後の彼らのいつもの諍いを聞き流しつつ、Kは鍵穴の前に膝をついた。あるかどうかわからない裏口を探している手間も惜しいし、彼女だってわざわざ靴を汚したくはなかった。たとえトレヴァーの靴の値段の五分の一以下の、非常に庶民的な品だとしても。
「どっちか令状持ってきてるよね。ドアが開いたら、忘れずに貼っておいて」話すあいだに、ダブルロックを解除した。かちっという感覚が心地いい。集中力を削がれたせいで、いつもよりわずかに時間がかかった気がしたが。ノブを回して引き開けるとき、「こいつらほんと、クソうるさい」と、その悪態だけは英語ではなく、彼女の土地であるここ日本の言葉でしゃべった。その程度ならふたりとも理解できているはずで、Kもそのことをよくわかっていた。
ため息をつきながら首を振って近づいてきたジェイミーが、ジーンズのポケットに無造作に突っ込んでおいたしわくちゃの令状を取り出した。左の指の背には黒字でFIRE、右の手にはローマ数字でⅩ・Ⅺ・Ⅲ・Ⅴと、一目で読めないほど凝ったフォントで彫ってある。
左手の甲にはオールドスクールのハイビスカスが咲いていて、右側はマトリックスのタイトルに出てくるあのグリーンの文字の羅列がハニカム構造と溶け合っている。左の首には激流を模した胸へと広がるダイナミックなアブストラクト、反対側には、胸のグラデーションが美しいハチドリが羽ばたく(これは最近入れたものらしく、まだ周囲の皮膚が赤くなっている)。捲ったシャツの腕にもクジャクの羽やら砂時計やら自分のしっぽを飲み込むヘビやらが、色彩豊かに彫られている。マニキュアは黒。右の鼻にちいさなリングピアスをふたつつけていて、耳にもそれなりに。
彼は噛んでいたガムを口から出してテープ代わりにして、ドアの内側に貼りつける。家主が帰ってきて、勝手に部屋に入ったことを咎められたた際、「貼ってあるだろ、見ろよ」と示すことさえできればよかった。どうせ彼らと鉢合わせした住人は例外なく混乱の渦に飲まれてしまうのだから。警察ではないので、警察が所持していそうな書類が一枚でもあればいいのだ。
彼らの属している組織は、現場で素性をたずねられたときには「警察関係の組織」などと曖昧に名乗っているが、じつは警察とは無関係だ。むしろどちらかというと、彼らよりも権力を有していて、そのうえ自由気ままに振舞える。
自由の代償として、そして極秘の組織ということもあって、逮捕権は与えられていないので、人々の違法行為を彼らの権力では阻止することはできない。だが逮捕権を持った人物への即時引き渡し、または適切なカウンセリングや更生施設に入れる手続きなら、メンバー個人の判断で行うことができる。もしくは逮捕させずにぶちのめして黙らせることも、推奨されてはいないが、可能ではある。この最後の方法がいちばん楽であることは否めない。とくに相手のほうが自棄を起こして飛びかかってきたときなどには。
使命を果たしたジェイミーは、満足そうに頬から顎にかけてきれいに手入れされた髭を片手でざっと撫でて銃を構え、Kの背後についた。
「お先にどうぞ」
「ありがとう」Kは、自分も銃を抜いてから、ジェイミーの後ろにトレヴァーが並んだのを確認して、薄暗い玄関に足を踏み入れた。そしてふと思い出した。「ところで、じつはジェムの父親もイギリス人だよね、どうでもいいけど」
「まあな。クロアチアとキューバの血も入ってるらしいけど」
「彼にはルーツに関する誇りがないんだ」ここぞとばかりに、トレヴァーが非難がましく指摘した。「まったく、嘆かわしいことにね」
彼だけは銃を携帯していないため、両手を振り回して力説できる。趣味ではないからといって、持ちたがらないのだ。これはKの推測だが、撃ったときの反動を受けたあとの自分の姿が、あまり美しく見えなかったせいだろう。
「おれはフロリダで産まれたし、物心ついたときからずっと世界中をうろついてるから、とくにどこにも思い入れがないんだ」
「世界中に寝床があるってことだな。帰ってこないきみのためにそこを温め続けて、不毛な時間を過ごしているかわいそうな女性もたくさん……ああ、みんなきみのことなんてとっくに忘れてるか」
「二年前にフラれて以来、そいつのことが吹っ切れなくて次の彼氏ができないやつにそんなこと言われてもな」
「一年と一〇カ月と二十四日だけど、べつに未練があるわけじゃなくて厳選してるだけだから、放っておいてくれるかな。あと、フったのは、こっちの、ほうだ」
あの調子で自分を指さし続けたら、いつか胸骨か指のどちらかが骨折してしまうのではないか、とKは余計な心配をした。指摘をしようなどと考えたことは微塵もなかったが。
「フったわりには、未練しかないように聞こえるけどな」
「わかった、話題を提供したわたしが悪かったから、黙っててくれる? お願い」
いらない発言をした自分を呪いつつ、Kがどうにかふたりの言い合いを終わらせた。
午後の日差しはこの狭い平屋の廊下にはまったく届かないようで、そこは夜よりも真っ暗だったが明かりはつけなかった。目が慣れてくると、突き当りに白いドアがかろうじて見えた。玄関から二歩程度進んだ左手にはキッチンスペースがあり、その向かいにあるリビングのドアは、なんらかの理由でわざと外されて、傍の壁に立てかけられていた。どちらにも人の気配はない。
「あっちはおれが見てくる。一緒に来いラビットフット」
「仰せのままに」雇い主のことを、金勘定だけが得意な豚とみなした執事の態度で、トレヴァーがあとに続いた。
ふたりは、変色したレースのカーテンがかかったままの薄暗いリビングと、そのとなりの寝室らしき部屋を確認しに向かった。「ものすごく入りたくない」とトレヴァーが寝室の前で文句を言っている。
Kは銃を両手で持って、椅子が二脚置かれただけの小さなテーブルをゆっくりとまわり、冷蔵庫のかげを確認し、ちゃんと存在した裏口のドアが内側から施錠されているうえ、鍵は油で固まって動きがかなり鈍くなっていることを確かめた。ここからはしばらくのあいだだれも出入りしていないようだった。そこから出なくてはいけなくなったとき、ドアノブが回るかどうかすら怪しい。
キッチンから続いている洗面室と浴室も、ほかの部屋に引けを取らないくらいに汚れきっていたが、それは単に掃除をしていないだけのようで、そこで不穏な事件が行われた形跡はなかった。たとえば血が大量に流れたとか、そういったことは。
『K、入った?』
無線イヤホンからアメリア・セーゲルストレームの緊張気味な声が聞こえてきた。
「入ったよ。家主の男は留守みたい」メンバー全員と繋がってはいるが、代表してKが応答する。
『えっと、ラシム・ハラダ』
震える声で家主の名前を呟き、イヤホンは沈黙する。彼はいるのかどうかという質問なのだが、アメリアはときどき、文脈の多くを略すことがある。
「そう、そいつはいない。これから、もっとよく家の中を見て回る」Kは小声のまま答えた。
『女の子の声、どこから声が聴こえてくるのか、特定できないの』
「今回、いつもと違う?」Kが優しく訊く。
彼女たちの所属する組織“heard”そのものといっても過言ではない存在であるアメリアは、犯罪被害に遭って不当に閉じ込められてしまった人が助けを求める声を聴くことができる。もう一年半、一緒に仕事をしているが、彼女がこれほどまでに緊迫した声を出すのを聴くのは、Kにとっては初めてのことだった。非常事態すぎて、不安になってしまうほどに。
いつもなら、居場所を特定してそこへ向かうように指示を出すはずなのだ。「地下室」「天井裏」「二階の奥の部屋の壁のなか」といった具合に的確に。
「ねえアメリア、だいじょうぶなの」Kはつい尋ねてしまった。過剰に心配しないように気をつけてきたのだけれど、いまは難しかった。アメリアの息遣いが、あまりに切迫していたせいで。
『ええ、だいじょうぶ。だけど……』アメリアはまったくだいじょうぶではなさそうな様子だった。部屋を歩き回っているような落ち着かない足音がして、かすかにもどかしげな舌打ちも聞こえた。『えっと、ごめんなさい。うまく説明できないけど、なんだか、ああ……生きていればいいんだけど』
Kは驚いた。「いままで被害者が死んでたことはなかったでしょう。あなたが、わたしたちが、ちゃんと助けた」
アメリアは身動きが取れなくなった生者の悲痛な声を聴き分けるのであって、死者の声は能力の範疇ではないはずだった。
『そうなんだけど、ねえどうしよう。K、わたしすごく不安なの』
「アメリア」Kはいますぐにでも本部へ戻って、彼女の手を握ってあげたくなった。「急いで確認するから、もう少しだけ待って。傍にだれかいないの、リタとか?」
『リタもデクランもここにはいないの。わたしは自分の……地下の、検視室にいるんだけど』
「どうしてそこにひとりでいるのよ。いますぐ上に行きなよ」
Kが話していると、ジェイミーとトレヴァーが戻ってきた。だれもいない、と首を振っている。彼女はうなづいた。ふたりの耳にも会話は届いているので、表情が硬かった。さきほどまでの言い合いなどなかったかのように、彼らの心が寄り添って、アメリアを包み込んでいるみたいにKには思えた。
『こんな気分になったこと、これまでなかったの。取り乱しそうで、いまは人といられない』
「わかった。このまま通話を切らずにおくから、わたしが一緒だよアメリア。いい?」
「ぼくもいるよ。幸運のお守りであるぼくと、ジェムもここにいる」ただならぬ気配を感じ取って、トレヴァーが敢えて明るく喋った。
「ああ、なにも心配ない」ジェイミーも請け負った。「徹底的に調べるからな」
『みんなありがとう。気をつけて』
「廊下の突き当りのドアが地下室へ続いてるみたいだ。急ごう」ジェイミーが暗がりへと促した。
やや長すぎるため息のあと、アメリアは低くかすれた声で囁いた。『地下があるのね』
いつもは被害者の声の反響から間取りを把握する彼女は、今回はなにも手掛かりがなく、いま初めてそれを知ったのだった。地下があるということは、単なる平屋や二階建ての家よりも多くの隠し事ができるということだ。最近増えてきたとはいえ、このかなり古そうにみえる家屋で地下室があるのは珍しい。わざわざ地下室つきの物件を探したのだろうか。だとしたら、なんのために。
ジェイミーが湿り気を帯びた木製のノブを引くと、ドアはすすり泣きにも似た弱々しい抵抗の声をあげたが、結局は地下室へと続く階段を露わにした。カビと埃とねずみの死骸のにおいが鼻をつくが、だれもなにも、うめき声すらあげなかった。むしろ三人とも、カビとねずみが共に生活をしているにおいだけが感知されたことにほっとしていた。
人間の死のにおいを彼らはよく知っている。これまで彼らが助けてきたのは、アメリアが声を聴いた当人だけであり、それ以外の人間の生死は度々諦められてきたからだ。たとえば、すでにその場で何人かが殺されていて、その朽ちかけた死体と一緒に女性や少年や少女が閉じ込められていた場合とか。犯人が武器を持って飛びかかってきた際に反撃をしたケースもあった。時間の経過ごとにそれぞれの死のにおいがあり、彼らはその多くを知っている。
それが、ここにはまだない。
『なにか言って、お願い』アメリアの声はほとんど懇願だった。
「すこし待って」Kはポケットから小さなライトを出し、ジェイミーの後ろから足元を照らした。銃はいまは却って邪魔になるので、ホルスターにしまった。
履き古したジェイミーのスニーカーが、年代物の階段を踏みながらそろそろと降りていく。わりとがっしりした体格の彼には、幅の狭い階段がいかにも窮屈そうだった。
Kは一瞬、トレヴァーを先に行かせるべきだったかと思ったが、今更遅すぎた。“ラビットフット”なら、もし階段が壊れて落下したとしても、最悪の場合でも尻を擦りむく程度で立ち上がるはずだった。
トレヴァーはノリッジ郊外の小さな医院で産まれた。彼が皮肉を込めて言うように変人ばかりのところなどでは当然なく、静かに流れる川沿いに羊が草を食んでいる、のんびりとしたかわいらしい村だった。病院というより診療所といったほうがしっくりくる小ぢんまりとした平屋のロッジふうの建物で、彼の産まれた翌日、深夜に火事が起こった。自宅出産も多い地方で、出血が酷かったためにすぐには帰宅せずまだベッドにいた母親は、トレヴァーを抱いて廊下を這い進み、意識を失いかけたところを救助されたのだ。建物は全焼し、残念ながら医師とその家族は皆亡くなってしまった。
母親は救急車に乗せられて、生まれたばかりの息子が生きて元気に泣いていると知ったとき、呼吸器を外して救急隊員にほほ笑んでみせた。
「わたしはわかっていたのよ。この子は、ラビットフットを十個も神様からもらって生まれてきたって」
そして彼女は、町の病院に着いてから数時間後に亡くなった。炎を含んだ煙を吸って焼けた肺は手の施しようがなかったらしく。
トレヴァーはのちにその母の言葉を、彼女を助けた救急隊員から聞いた。彼は、その話を初めて聞いたときから繰り返し思い出し、決して忘れないように気をつけて生きてきた。
それが自分の存在理由で、名前と住所などと一緒で忘れてしまってはいけないものだということを、直感でわかっていたのだ。
救急隊員は規則違反と知りながらトレヴァーの行方を追い、いまでもずっと気にかけてくれている。ふたりは毎年クリスマスにカードを交換している。人生の節目には、電話で話すこともある。昨年などは、救急隊を引退した彼女に孫が生まれたと連絡が来た。
トレヴァーの父親は土地の売買で成功した資産家だったのだが、彼が一歳になったときに莫大な金と彼名義の土地と彼自身を施設に預けて、それ以来行方不明になってしまった。金の管理を任せていた会計士と共に。親戚には預けられなかった。父親はひとりっ子で、詳しくは知らないが、すべての身内と縁を切っていたらしい。母方の親戚のことはまったくわからない。父と一緒になったとき、母はすべてを捨てていたらしかった。そのくらい、情報がなかった。ふたりとも、お互いだけがすべてだったのだ。そこにトレヴァーを授かった。
その後、二歳になったときに彼を引き取った里親が、夫がヨークシャー出の貴族で、ロンドンに移り住んだ夫婦だった。彼らに子どもはなかった。できなかったのだが、どちらの身体の理由からかは知りたくなかった。とうとう養子をもらう覚悟を決めたとき、期間限定という約束で住み慣れた屋敷からケンジントンへと引っ越した。夫の両親は日ごろから、ロンドンなど人の住む場所ではないと毛嫌いしていたが。
彼らは結局、トレヴァーがオックスフォード大学に入って家を出るまでずっとそこに住んでいた。とてもいい家庭で、彼らはトレヴァーの資産に一切手をつけずに彼を育てた。実際、彼の資産を削る必要もないほどの家だった。豊富な資金で様々な基金を立ち上げているくらいだったので。
いまでもマクドネル名義で残っているそこは、彼のほんとうの実家になった。トレヴァーが家を出て、両親がヨークシャーへ戻って以来は、月に何度かは家族とWEBで近況報告をしあっていて、いまでも良好な関係を保っている。
消えた父親のことは気にならないと言ったら嘘になるが、養父よりも父親らしいと思ったことはなかった。とくに恨んでもいない。運よく不自由のない生活ができたおかげもあるだろうが、あまりに唐突に愛する人を失くしてしまったのだから、自分を棄ててどこかへ行ってしまったことは仕方のないことだったと、まあ、割り切っている。産みの母親への気持ちは、もうすこし感慨深いものではあるが。
「あのとき、ぼくだけが助かったことが幸運だったのか不運だったのか、実際のところわからない。だけど、母の言葉はぼくの希望だったんだ。その先もずっと生きていくためのね」と彼はKに告白したことがあった。
トレヴァーの幸運は神の贈り物であって、彼の母親の願いでもあった。
彼が運転する車に乗っていると、ほとんど信号にも引っかからずに移動でき、いつもは朝十時には売り切れてしまうKの好きな店のドーナツも、トレヴァーが買おうと決めたならお昼にでも購入できた。彼を狙った銃弾はすべて狙いが外れた。その代わりというか、若干の弊害があり、たまにジェイミーが流れ弾に被弾した。なぜかいつも彼が。だが被害はいずれもかすり傷か、お気に入りのジャケットに穴が開く程度だったため、周囲への悪い影響などないに等しかった。すくなくともジェイミー以外の皆はそう思っていた。
だからおれはあいつが嫌いなんだ、とジェイミーは度々零していたが、残念ながら必要な帳尻合わせとしてだれにも取り合ってもらえていない。ジェイミーのジャケットよりも、限定のケーキが並ばずに買えるという恩恵のほうが、メンバーにとってははるかに重要だったこともあって。
Kの心配をよそにジェイミーは無事に階段を降り切り、自分のライトを出して床からそうっと奥へと光を滑らせた。広さはあまりなく、古くなった自転車と季節柄まだ使わないストーブが置いてある。隅のほうに段ボールが三つ、うずくまるように身を寄せ合って、突然の訪問者に怯えているようだった。
ジェイミーが振り返って首を振る。
「だれもいない。この家には、いまはだれもいない」Kは慎重にアメリアに伝えた。こんなことがあるのだろうか、と思いながら。
『そんなはずない』アメリアの声は、どこか虚ろだった。起こしてはいけない失態を起こしてしまったがために、これから怒られることを予測した子どもがもつような恐怖が滲んでいた。
トレヴァーが果敢にも地下室の奥へひとり進み、段ボールをひとつずつ開けて中を確認しだした。
「腐りかけた本、工具、あとは……ちょっとまって、これだけテープが頑丈だ」
「ねえアメリア、いまもまだ声が聴こえる?」
『聴こえる。いまは言葉まではっきりと。助けてって』
声はこれまでも、はっきりと助けを求めてくることもあったが、おおくの場合は恐怖や混乱の感情がぶつかってくる感覚を受け取るらしかった。意味を成す言葉となって聴こえているということは、相手との相性か、もしくは距離の問題もあるのかもしれないが、はっきりとしたことはわからない。脳同士の通信もケータイなどの電波とおなじで、周囲の物質の干渉に左右されるのかもしれない。
それでも、助けを感知できれば、その人物を探し出せていたし、ちゃんと救出もできていた。
いま、アメリアには声がはっきり聴こえているのにもかかわらず、この場に姿が見えないということは、いったいどのような状況なのか。誰にも説明できるはずはなかった。
周囲の壁に隠し扉などがないかどうかを調べるため、Kとジェイミーはあちこちを叩いてみた。床ではばりばりと音をたてて、トレヴァーが段ボールのテープを剥がしおえた。喉の奥から絞り出された彼の唸り声が、ほかのふたりの動きを、呼吸さえも一瞬、止めた。
「ジェム、照らしてくれ」トレヴァーの声はいつもより数段低くなり、語尾は固く尖っていた。非常な緊急事態にしか聞けない、貴重な素の声色だ。
このデータは録音されているだろうか、とKは一瞬考える。着信音にしたいくらい魅力的な音源だった。
『どうしたの』
「ちょっと待って」
Kも彼らに続いて部屋の隅に急いだ。箱には引っ越し屋のロゴが入っていて、底のほうに濡れて乾いた形跡があった。トレヴァーはいつのまにか薄手の手袋をしていて、段ボールの中の、分厚いビニールに包まれたなにかを見おろしていた。
ジェイミーはケータイを取り出し、“heard”のアプリからビデオ通話を立ち上げて、箱の中を見せた。「骨だ」彼の声はほとんど吐息だけだった。
アメリアが息をのみ、嘘、とつぶやいた。
「いや、待ってくれ」
ジェイミーは段ボールに乱暴に手を入れ、皆が止めるのを無視して頭蓋骨の眼窩の部分に指を突っ込むと、ビニール袋からその骨を引っ張り上げた。それはきれいにひとつながりになっていて人体の形をつくっている。
「プラスチック?」舞い上がる埃でくしゃみをしながら、トレヴァーが垂れ下がったつま先の部分をつつく。「なんでこんなものが」緊張感がすっかり取れ、いつもの声の調子に戻っていて、Kはすこしがっかりした。
「ラシムの父親が小児科医。だからといって、こんなものがここにある理由になるかどうかはわからないけど」Kは、自分の仕事用のケータイから家主の情報を拾い上げていた。
「医者の息子が、こんな今にも崩れ落ちそうな物件に住む?」トレヴァーが驚く。
「彼は次男みたいだよ」
「医者の次男だと、こういう家に住む理由になるのか?」ジェイミーは戸惑った。あまり関連のなさそうな情報に聞こえたせいで。
「そういうわけでもないけど、長男より期待が薄いぶん、寂しい想いをしてきた可能性はある」答えたのはトレヴァーだった。「きょうだい間で比較され続けられて、生きることが投げやりになってしまう人は案外多い。その結果が、上の階の外されたままになってるドアであり、汚れたカーテンであり、この用途のわからない骨の模型だと言えなくもない」
Kはふたりが話している隙に部屋の隅へ行き、ラシムの父親の勤務する病院に電話をかけた。背後でまた言い合いが始まりそうな気配がしていた。
「おまえの言っている意味がよくわからない。きょうだいもいないくせに」ジェイミーが不思議そうに首を振る。彼だけが唯一、職場のデスクに家族全員の写真を飾っている。父と母と双方の祖父母、いとこたちの集合写真はもとより、歴代の飼い犬、飼い猫までも。「ちなみに、おれも次男だ」
「きみみたいに家族関係に問題がないと、話がシンプルでいいね」
「成人したら自分で生き方を決めるようになるってわかってるのに、子どもに口出しをする親の気持ちが、おまえの頭の中身とおなじくらい理解できない。そういえば、デスクにあったはずのおれの兄貴の写真が、なんでおまえのロッカーに貼られてるんだ」
「ジェムの子どもに生まれたかった。きみって友だちとしては最悪だけど、親としてはかなりいいよ。ところで、きみとお兄さんって、あんまり似てないよね」
「おれはどんな形であれ、おまえとは関わりたくなかった」ジェイミーは悲し気に眉を下げた。もうすでに手遅れだという事実を噛みしめながら。
「あっそうありがとう、ぼくも愛してるよパパ」
「兄貴に手を出すなよ。一昨年子どもが生まれたばっかなんだ」
「ストレートなら心配する必要ないだろ」
「おまえに関しては、なにが起こるか予想ができないから怖いんだよ」
トレヴァーは目を丸くし、それからゆっくりとウインクをしてみせた。
「写真を返せ」
「いつかね」
「ラシムはもう五年も実家に帰ってないみたい」Kが部屋の隅から戻ってきて二人にうなづきかけた。「大学を卒業して以来ってことだね。父親はもとより、家族の誰とも連絡を取っていないはずだって」
Kは念のため骨の模型の左手の小指部分をむしり取って、ポケットに入れた。万が一、これがほんものの骨を溶剤でコーティングして作ったものだったときのために。そんなエド・ゲインのようなサイコキラーにはいままで出会ったことはもちろん、この界隈では噂話すら聞いたことはなかったが、念には念を入れたかった。骨はひとつひとつが丁寧に繋がれていて、小指を失くしたからといってそこから左手すべてが崩れ落ちることはなく、どこか寂し気に揺れながらぶら下がっていた。
『声が、聴こえるんだよ。そこから。いつもとおなじように、たどり着いたら消えるんじゃなくて。まだするの』
「ほんとうにこの場所か。ここにはもうほかに部屋はないんだぞ」ジェイミーが強めに念を押した。
もし監禁されていた少女がある程度の期間ここにいたとして、殺されて運ばれたにせよ、一時的に場所を移されたにせよ、いなくなったあともすこしのあいだ思念は残る。今回は偶々想いが濃く残りすぎたせいで、声となって聴こえているのかもしれない。それにしても痕跡がまったくないのは不可解だった。埃だらけだし、漂白剤のにおいもしない。
まるで少女など最初からいなかったかのようだ。
『そうよ!』アメリアの返事は、ほとんど泣き声だったため、ジェイミーはひとりきりで待機している彼女を想って胸を痛めた。卑劣な男に閉じ込められた少女がいてくれたらよかったのにと、残念になりそうなくらいに。
「だけど、だれもいないんだよアメリア。あなたの聞いている声は、いったいだれなの?」
当然のことながら、Kの問いにはだれも答えられない。
『わからない……どうしよう、今月これでふたり目だよ、わたしが失敗したのは』
泣き出してしまう前に、アメリアは自分で通信を切ってしまった。沈黙のなか、残された三人は途方に暮れて視線を合わせるだけだった。
