遣唐使物語第2話:唐の巨影と名将の微笑
海賊や嵐、危険な新羅の領海を避ける、航海だけでも命がけの旅路だった。
やがて、「り、陸地が見えた…!」広麻呂が叫ぶ。降り立った場所は、まぎれもない大帝国・唐の直轄地、登州だった。
船を降り、長安までの長い旅が始まる。その道のりは、張り切って都から旅立った広麻呂らにとっても決して楽なものではなかった。
異国の地を、馬車に揺られ、幾つもの山を越え、大河を渡った。夜ごとに現れる無機質な宿場町で泥のように眠る日々は、遅々として進まぬ苦行のようだった。
――船を降りてから、実に数ヶ月の月日が流れていた。
泥にまみれた旅装束の広麻呂の前に、ついに巨大な城壁がそびえ立つ。
城門が重厚な音を立てて開いた。その先に広がっていたのは、広麻呂の想像を遥かに超えた光景だった。
「これが……長安」
思わず言葉が漏れる。目の前には、十数頭の馬が横並びで駆けても有り余るほどの広大な大通り――朱雀大路が、都の北端にある宮城へとまっすぐに伸びていた。道の両側には、軒を連ねる瓦屋根の邸宅、色鮮やかな旗がたなびく商店がどこまでも続いている。
すれ違う人々の顔ぶれも様々だった。深い彫りの異国の商人、きらびやかな絹の衣を纏った貴婦人、ラクダに重い荷を積んで歩く見たこともない人種。世界中の富と人々が、この一点に凝縮されているかのようだった。
唖然とする遣唐使一行の前に、一人の男が近づいてきた。コツ、コツ、と規則正しい足音が近づいてくる。
見上げれば、そこに立っていたのは、一風変わった風貌の大男だった。齢40半ばほどの屈強な体躯の筋肉質の男で、役人風の身なりをしていた。唐の立派な官服を着こなしているが、その顔立ちはどこか唐人の貴族とは違った雰囲気があった。見上げる遣唐使たちに、男は柔和で優しげな微笑みを浮かべた。
「遠路はるばる海の向こうから、ようこそおいでくださった。倭国の使節団の方々」
流麗な、しかしどこか独特の響きを持つ唐の言葉だった。男は丁寧に一礼して言った。
「私は阿史賀 咄摩と申す。陛下より、あなた方を宮廷へお送りする大任を仰せつかった。長旅、さぞやお疲れであろう」
物腰は柔らかく、声も穏やかそのものだ。広麻呂は、唐の役人がこれほど自分たちを温かく迎えてくれるとは思わず、ホッと胸をなでおろした。だが、一行のなかにいた年長の使節が、その名を聞いた瞬間にハッと息を呑み、顔を強張らせたのを、広麻呂は見逃さなかった。
(阿史賀 咄摩……?)
広麻呂もその名前に聞き覚えがあった。
「阿史賀 」という姓は、かつて大陸の北方に君臨した強大な遊牧民族、突厥の血筋だ。そしてこの男は――阿史賀 咄摩という名は、数年前の白村江の戦いにおいて、水軍を率いて倭国・百済の連合軍を完膚なきまでに叩きのめした、唐側の総大将の一人。
数多の倭国兵を海に沈めた男が、いま、目の前で穏やかに微笑んでいる。
衝撃のあまり立ち尽くす広麻呂の視線に気づき、咄摩はふっと目元を和らげた。
「おや、そこのお若い方。私の名をご存知か」
「あ……はい」
広麻呂は喉の渇きを覚えながらも、必死に学んだ唐の言葉を絞り出した。
「白村江の、戦いで……我が国の軍と戦われた、総大将の……」
周囲の遣唐使たちが一斉に息を呑み、場に凍りつくような緊張が走った。
不用意に過去の戦争に触れ、唐の将軍を怒らせてしまったのではないか。誰もが青ざめる中、咄摩は怒るどころか、深く、感じ入るように頷いた。
「左様。あの戦いでは、私も全力を尽くした」咄摩は包み込むような温かい眼差しを広麻呂に向け、一歩、歩み寄った。
「あの海戦での倭国の戦いぶりは、実に見事であった。風を読み、決死の覚悟で我が大軍に突撃してきた貴国兵たちの勇猛さは、今でも鮮明に覚えておる。……我々にとっても、決して容易な戦いではなかった」
唐の将軍はそっと広麻呂の、そして怯える遣唐使たちの肩に目をやった。
「国が違えば、戦わねばならぬ時もある。しかし、戦いは終わった。大敗を喫し、国が荒れ、どれほどの混乱の中をここまで来られたことか。敗戦の痛みを抱えながら、命がけでこの海を渡ってきたあなた方の忠義と勇気、私は一人の武人として、心から敬意を表す」
咄摩は優しげな目をいっそう細めた。
「よくぞ、生きて唐の地を踏んでくれた。これからは友として、あなた方を歓迎する。さあ、長安へ参られよ。皇帝陛下も、倭国より参られた使節にお会いになられる時を心待ちにしておいでであるぞ」
唐の猛将の器の大きさと紳士的な態度に、広麻呂の胸の動悸は、いつしか深い安堵と強い信頼感へと変わっていた。
背後に控える大柄な武官たちが整然と動き出し、一行を馬車へと促す。
世界最大の帝国、唐。その底知れない巨大さに、広麻呂はただただ圧倒されていた。
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