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遣唐使物語第5話:暁闇と一閃

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前の話

「玉門関の……厩舎番だと?」

西市の場末、天灯の油煙が漂う薄暗い酒場の片隅で、趙七は事の顛末を聞かされた。

広麻呂は肩を震わせながら悲痛な声を漏らす。
「……御簾の向こうの、あの声が響いた瞬間、すべてが終わったんだ。凍りつくような、恐ろしい声だった。あの御方は一体……」

「誰って…そりゃお前…まさか本当に知らないのか?」

「……皇后様、ですよね?」

​「天后、武照。……あれは本物の『怪物』だ」

趙七の目が鋭く光った。

「高宗は病弱で、朝廷の政務はすべてあの女が裏で裁いている。あの女の一言で、昨日まで宰相だった名門貴族の首が飛び、一族郎党が根絶やしにされる。長安じゃあ、あの女の悪口を言っただけで翌朝には死体になってドブに浮くってのがお約束だ」

​趙七はそこで、再びふっといつもの不敵な笑みに戻り、杯を掲げた。

「だが、その怪物が直々に下したお前の行き先が、玉門関の厩舎番だろ? 面白そうじゃねえか」

広麻呂は、趙七が朝廷の理不尽に激怒し、自分のために拳を握りしめてくれるものとばかり思っていた。しかし、この唐人は怒るどころか、濁った葡萄酒の杯を指先で弄びながら、平然と不敵な笑みを浮かべた。

「面白そう……!? あなたは何を言っているんだ!」

広麻呂は絶望のあまり、思わず声を荒らげた。
「科挙の道は閉ざされたんですよ…!?世界の果てで馬の世話をしながら、一生を終えろと…!戦をして負けたのは私ではないのに…いったい私が何をしたというのか…!」

「おい、留学生殿」

趙七は静かに杯を置くと、その底知れない、だが奇妙に透き通った目で広麻呂を正面から射抜いた。

「お前さんは科挙、科挙とそればかりだがよ……唐という国の本当の姿や、世界の大きさってやつが、長安の窮屈な書物や、お偉いさんが作った試験の箱庭の中にだけあると思ってんのか?」

趙七は身を乗り出し、声を低くした。その声には、宮廷の官僚たちが決して持たない、大陸の地響きのような力強さが宿っていた。

「長安の役人どもは、机の上で天下を語り、戸籍の数で人間を数える。だがな、玉門関の向こうには文字通り国境も法律もねえ。高宗や武照の作った理なんか届かねえ場所で、本物の人間どもが、己の腕一本と欲望だけでむき出しに生きてるんだぞ」

趙七は広麻呂の顔をまじまじと見つめた。

「そもそもお前、何がみたくて命がけでそんな海の向こうの東の果ての田舎から出てきたんだ。ただ部屋にこもって、古い文字の並びを覚えるためか? 違うだろ。『世界』ってやつを、その目でみたくて来たんじゃねえのか?」

「それは……」

「玉門関はな、閉じられた墓場じゃねえ。波斯人、回紇人、粟特人、突厥、見たこともねえ肌の色の奴らと、数えきれない富が渦巻く、巨大な世界の『蛇口』だ。武照はお前を馬の肥溜めに閉じ込めたと思っているが、とんだ特等席をくれたもんだぜ。馬の世話をしながら、世界中の商人の動きをその目で見てみろ。頭が回るお前なら、そこにある『世界の真実』をいくらでも貪れるはずだ」

広麻呂は、言葉を失った。無残に大志を奪われたという屈辱に苛まれていた彼の心が、不意に別の熱を帯びて回転を始める。

(書物の外にある、世界の真実……)

都で読んだ数多の書物の、どの頁にも書かれていなかった未知の領域。それが今、趙七の荒々しい言葉によって、目の前に広がっていくのを感じた。
しかし、広麻呂はハッと我に返ると、唇を噛んで恨めしそうな目を趙七に向けた。 

「……あなたは、そうやって長安の街に残り、安全な場所から見ているから、そんな無責任なことが言えるんです!」

趙七はやれやれと煩わしそうに天を仰ぎ、頭をガリガリと掻いた。
「チッ、これだから世間知らずの坊ちゃんはよ……。耳が痛え真実を言われると、すぐそうやって拗ねやがる」
趙七はひどくめんどくさそうに溜息をついた後、自らの服の裏から、ずっしりと重い一振りの短刀と、油紙に包まれた数枚の木札を、乱暴に叩きつけた。

「仕方ねえ。俺は同行できねえが、お前みたいなもやしっ子を一人で放り出したら、三日で砂漠のミイラか、野盗の餌だ。いいか、これを持っていけ」

広麻呂が濡れた目でそれを見つめる。

「これは、唐のお役人の『過所(通行証)』とは別物だ。西市の粟特人(ソグド人)の元締めから夜通しで分捕ってきた、裏の商人の間だけで通じる『隠し証』と手形だ。それから、その木札の裏には、玉門関のすぐ近くを根城にしてる、信用できる男の名前が書いてある。どうしても飢え死にしそうになったり、命の危険を感じたら、その男を頼れ。渋られたら、趙凌雲の紹介だと言え。どうにでもなる。朝廷の役人なんかより、よっぽどお前を助けてくれるだろう」

趙七は最後に、鈍い光を放つ短刀を広麻呂の手の中に握らせた。

「綺麗ごとが通じねえ時、最後に頼りになるのは文字じゃねえ。いいな、長安への未練は、この酒と一緒にここに置いてけ。生きて、貪欲に世界をその目に焼き付けて、機会を待て」

広麻呂は掌に伝わる短刀の冷たい重みを感じながら、広麻呂はぐっと杯を煽った。

朝廷から突きつけられた奴隷のような宣告の底で、広麻呂の心臓が、今まで経験したことのない不敵な鼓動を刻み始める気がした。

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