遣唐使物語第4話:眩みの皇帝と宮廷の怪異

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翌朝。
朝靄のなかの長安は、昨夜の喧騒が嘘のように静まり返っていた。広麻呂が昨夜の余韻と、酒の微睡みから抜けきれず目をこすっていると、鴻臚寺の役人が慌ただしく部屋にやってきた。
「これより宮廷に参上する。皇帝陛下に謁見するのだ。心して支度をするように」
(いよいよだ……!)
広麻呂は一気に気を引き締めた。
急いで正装に着替え、阿史賀咄摩に率いられて鴻臚寺を出る。
碁盤の目のように整然と区切られた大通りを進むにつれ、前方に見上げるような漆黒の城壁が姿を現した。唐の心臓部、大明宮の正門「丹鳳門」だ。
見上げるほどの巨門をくぐり、どこまでも続く白大理石の広場を歩く。その圧倒的なスケールと、左右に整列する鎧兜の武官たちが放つ強烈な威圧感に、広麻呂の頭に残っていた微かな酒気は完全に吹き飛んでいた。 
やがて一行は、絢爛豪華な宣政殿へと通された。

「面をあげよ」

悠然とした低い声に促され、平伏していた広麻呂たちは恐る恐る顔を上げた。

玉座に座っていたのは、齢四十二、三ほどと思しき人物だった。世界最大の帝国を統べる皇帝、高宗その人である。纏う空気こそ威風に満ちてはいるものの、その面差しはどことなく影が滲んでいる。
広麻呂たちが国書ときらびやかな貢物を献上すると、高宗は満足そうに深く頷いた。

「遠路遥々、よくぞ参った。東の果てより海を渡り、見事な品を持参したこと、大いに賞賛する。長安の地で、我が唐の文化を存分に学ぶが良い」

皇帝の言葉は温かく、張り詰めていた謁見の間に和やかな空気が流れ始める。広麻呂の胸に、安堵とともに熱い火が灯った。
(本当に、この国で勉学に励める。いや、私は本当に、ここから科挙に挑戦できるんだ……!)
確かな希望が、その胸をいっぱいに満たした、まさにその刹那。

――温和な空気は、一瞬にして叩き割られた。

「離せ! 離してくれ! 私は唐のために、皇后様のために動いたのだ!」

突然、殿内の静寂を破って、引き裂くような悲痛な叫び声が響き渡る。
見れば、唐の高級官僚と思しき男が、両脇を屈強な武官たちにがっちりと抱えられ、床に引きずり込まれるようにして乱入してきた。男は冠を落として髪を振り乱し、へたり込んで泣きじゃくっている。 

「皇后様、お許しください! 私はただ、唐の行く末を案じて……!」

男は床に額を何度も叩きつけ、血を流しながら許しを乞う。
和やかだった高宗の顔が凍りついた。皇帝は、居心地悪そうに視線を彷徨わせるだけで、何も言わなかった。

遣唐使一行の誰もが息を呑み、その場に硬直した。一歩引いて控えている阿史賀咄摩は、柔らかな笑顔を崩さぬまま、微動だにせずじっと佇んでいた。
高宗の背後――重厚な刺繍が施された、一枚の厚い御簾がある。
突如、その暗がりの向こうから、女の声が響いた。

「その者の首をはねよ」

肌を刺すような、氷の刃そのものの冷淡な声だった。
「ひっ……! お、お許しを、お許しを…!!」

武官たちが、冷酷な手際で男を拘束し、容赦なく引きずり出していく。殿内には、遠ざかっていく男の絶望的な悲鳴だけが虚しく響き、やがてそれも聞こえなくなった。
広麻呂の背中を、おびただしい冷たい汗が伝っていく。
御簾の向こうの「声」は、何事もなかったかのように、気怠げに問うた。

「何やら表が騒がしいが、何事ぞ?」

側近が、恐る恐る頭を垂れて答えた。

「は。倭国よりの使者たちが、拝謁に訪れてございます」

「…倭国?」

声は、さらに温度を下げて冷ややかに続けた。
「白村江で一度滅びかけた、東夷の辺境国か。そのような小国の連中など、唐に何の価値もない…」

御簾の奥で、衣の擦れる音がかすかに聞こえた。それは、ただの羽虫でも払うかのような、退屈そうな仕草を想像させた。

「……まあ、よい。西の防衛線では人手が足りぬと聞く。辺境の雑務にでも回せば、幾らかは足しになろう」

非情な、あまりにも非情な一言だった。広麻呂は縋るような思いで、玉座の皇帝を見上げた。しかし、先ほどまで温和な笑みを浮かべ、威厳に満ちていた高宗は、いたたまれなそうに視線を下に落としているだけだった。

かくて、遣唐使の若者たちが、南へ、あるいは西へと、散り散りに辺境へ飛ばされることが、その場で淡々と決定していく。
呆然と立ち尽くす広麻呂の視界の端で、高宗が頭痛に耐えるように、青白い額をそっと指で押さえるのが見えた

科挙を受け、この帝国で大成する――。

夕べ、葡萄酒の杯を交わしながら誓った眩しい夢は、御簾の向こうの「声」によって、一瞬にして塵と消えたのだ。

呆然自失となり、床に視線を落とす広麻呂。その耳元に、宮廷の役人の冷淡な声が、事務的な宣告を突きつけた。

「――倭国留学生・船穂広麻呂。西域最果て、玉門関の厩舎番への配属を命ずる。即日、長安を発て」


​(きゅうしゃばん……? 馬の、世話係……?)

​広麻呂の頭の中が、真っ白に染まった。

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